開演 本番まであとわずか。ソファにだらしなく伸びて、空却は寝ている。この状況でよく眠れるっすよねうう緊張するっす…とぼやきながら、十四はメイクの最終点検に余念がない。手持ち無沙汰を絵に描いたような状態で、意味もなく手近にあるマイクを引き寄せた。言葉で戦うための道具――今はまだマイクの形状をしたマイク――はいつの間にかしっくりと手に馴染むようになっていて、それなりのつきあいになっちまったんだなと軽い驚きを覚える。
こんなもんが出てくる前から俺は言葉を武器に戦っていて、だから俺にはこんなもんは必要ねえと思っていた。それでも手に取ったのは、あいつに対抗するためだった。あいつがマイクで戦うというのなら、俺もマイクを握ってやる、その一心でしかなく、だがそこからなにがどうなったのか結果こうして、ライブなんてもんにまで引っ張り出されるようになっちまった自分がいる。
法廷は緻密に組み上げられたチェスの盤面だ。相手の手を読み裏をかき、計算し尽くした手管を尽くして、有利になるよう場を運ぶ。要求されるのは地道に積み上げてきた証拠と、冷静な判断力と、強固な意思。己の力量のみですべてが決まる冷徹な場所で――俺の主戦場だ。
だが、これからおっばじめようとしているステージはどうだ。マイクを握ればアクセルを吹かすだけ、身体の底から溢れ出すものを理屈もなくぶつける。あいつらにもオーディエンスにも煽り煽られて、行き着く先なんざまるでわからねえ、騒がしくて、でたらめで、とてつもなく熱い馬鹿騒ぎ。揺るがず動じず冷徹を保とうとつとめる法廷入り前とはまるで違う、ふつふつと湧き上がる熱を持て余すライブ前も、だがそれはそれで悪くねえと思う自分を自覚すれば、唇が思わず笑いに歪む。楽器を始めたときも、法の道に進むと決めたときも、そして今回も。いつもあいつはなにくわぬ顔で、俺に新たなページを開いてみせる。だがいつまでも先を歩かせてはいられねえ。
決意を新たにマイクを握りしめると、控え室のドアが勢いよく叩かれた。開廷の木槌を思わせるその音に応じれば、スタッフが顔を覗かせる。
「スタンバイお願いします!」
「あっはいっす!! ……もー空却さんー」
まだ寝ている空却を起こそうと、あわてて十四がソファに駆け寄る。
「起きてくだ……ひゃああああ!!」
「てめェら覚悟はできてんだろなァ!?」
目をかっぴらいた空却がノーモーションで跳ね起き、驚いた十四が尻餅をついた。でかい目を丸く見開いたあと、床に座ったままぎゃんぎゃんとわめき始める。
「もおおおおいたいっす! いきなりひどいっすよ空却さん!!!」
「あァ? 時が来れば起きんのは必然だろうが! ぴーぴー騒いでんじゃねえよ!」
「……あーわりいな、こいつらは俺が連れてくから」
一気に騒がしくなった楽屋に固まったスタッフに、戻っていいと促す。本番前だぞとバカガキどもの間に割って入ろうとしたところで、端末の着信ランプが光った。あいつの色だ、と表示したメッセージは一行。
「――あの野郎」
狙いすましたタイミングで送られてくるメッセージに口の端が上がる。がんばってね、だと? 余裕ぶっこいてんじゃねえよ。同じステージ上にいなくたってこれはバトルだ。てめえに示された道なのは気に食わねえが、そんなことはもういい。おまえとのバトルなら絶対に負けるわけにはいかねえんだよ。
深く息を吐く。
「……行くぞ」
ガキどもに向けて拳を突き出す。ぴたりとじゃれあいを止めて、ガキどもが顔を見合わせる。
「気合い入ってんじゃねェか」
乱暴に拳をこづき合わせて空却が笑う。
「がんばりましょうね!」
十四も右の拳を握り、アマンダも!と柔らかい鼻先が押し当てられる。三人と一体で組む奇妙な円陣。だがこれが俺たちだ。
「あンだけ煽られたらハンパもできねよなァ?」
にやりと悪鬼のように唇を歪めた空却に頷くまでもない。赤、青、黄、灰色、オレンジ、それぞれの色を背負う奴らの顔が脳裏をかすめ、涼しげに微笑むあいつの顔が最後に残る。見てろよ寂雷。心の内に吠えたてる。
ここナゴヤを、このライブハウスを。
「かますぜェ!」
「はいっす!!!」
こいつらと一緒に。俺たちが。――世界で一番、熱い場所にしてやる。