埋火/火相を見る「俺んとこの親はろくでなしだったからさ」
すやすやと健やかな二人分の寝息が満ちた部屋で、ファウストはネロと晩酌をしていた。
ファウストはこいつらの親みたいだな。
ネロがそうファウストに言ったから、ファウストも同じように返したら戻ってきたのがそれだ。
頑なに床で寝ると言ってネロのすぐ横で丸まっているシノの頭をそっと撫でる手付きは優しい。
愛情というものは、どこかで自らに注がれた経験がなければ別のものに与えることが難しいのではないだろうか。
ネロの親はろくでもない人物だったかもしれないが、その後、ファウストと出会う前にネロが出会った誰かが彼にちゃんと愛を与えていたのだろうと思う。
多寡はどうあれ、彼が今シノに向けているような、慈しみを含んだ視線を向けられた覚えがあるのだろう。
ネロはきっと気付いていないけれど、ここにはいない、ファウストの知らない誰かとの記憶を辿っている。
ネロは今、シノと同じくらいだった頃の自分を撫でている。
そう考えると、ファウストの胸はぎゅうぎゅうと苦しくなった。衝動的にネロへと伸ばした左手が視界に入って我に返る。
今ここにいるネロはファウストより年上の魔法使いで、17歳のネロじゃない。そもそもこれはファウストの想像に過ぎない。それなのに、今ならファウストの知らない頃のネロに触れる気がして、伸ばした手を引くことができない。
「ファウスト?」
シノ本人を表すような、真っ直ぐで芯のある髪を玩んでいたネロがとうとうファウストに気付いてしまった。
「あんたも撫でる?」
シノのことだとわかっていた。ちゃんと理解したうえで、ファウストは伸ばしたままの手でネロの頭を撫でる。いつもは後ろで括っている髪がファウストの指の隙間からさらりと落ちていく。なんの解決にもならない、ただの自己満足でしかない。過ぎた時間は戻らない。
過去をやり直すことなどできない、そんなことはファウスト自身もよく知っている。
「やめろよ」
やんわりと、しかし揺るぎない意思を持ってファウストの手は17歳のネロから払うように遠ざけられた。
「俺はあんたに庇護される子供じゃない」
「知ってるよ、これは僕の自己満足」
事実をそのまま述べると、ネロは片眉を上げてファウストを見た。日差しを浴びてきらめく麦畑を写し取った瞳が真意を探るように夜空の色を強めてファウストを射る。
普段あまり視線を合わせないくせに、こういう時ばかりネロは真っ直ぐにファウストのすべてを見透かそうとする。慎重に、獲物を見定めるように。本質を問おうとする目は北特有のものなのだろうか。
そういえば、かつての師からもこんな風に見られたことがあった……と、少し意識を逸らした瞬間、ファウストの行き場をなくした左手が温かいものに包まれた。
「あんたが俺をどう思ってるかは知らないけど……?」
指と指の間にネロが絡んで、きゅ、と握り込まれた。薬指の付け根から何らかの心計をもって、軽く爪を立てながらネロが器用に指を滑らせていく。
急に酒がまわったみたいに動悸がして、心臓が左手に移動したみたいに早鐘を打つ。息の仕方を忘れてしまったみたいに喉が軋んで空気を取り込んでくれない。
ファウストの様子が変わったことに気付いたネロは、数度まばたきをして、猫みたいに口の端を上げた。もう一度握り締めてからするりと抜け出したネロの手が何事もなかったみたいにまたシノの髪を玩ぶ。
「……子供たちはぐっすり寝てる、そろそろ俺たちもお開きにするか」
俺もこのまま寝るよ、と続けたネロの言葉からは、どうぞお部屋にお帰りという意図が伝わってくる。
「……僕の生徒がみんな眠るまではここにいるよ」
魔法をかけられたみたいに熱を帯びた薬指が疼く。見てもそこには何も残ってはいない。あまりにネロがいつも通りなので、自分の身に起きたことが実は夢なのではないかと疑ってしまう。
「じゃあ、もう少し起きてようかな」
あんたが帰らないように。
言葉として出されたわけではないのに、確かに聞こえた気がして、ファウストは先ほどまでの感傷じみた己を呪った。
「きみ、初めから寝るつもりなんてなかっただろう」
「はは、バレたか」
互いに変わり始めた気配に瞼を伏せ、煮え切らない空気を享受して二人の魔法使いは夜を傾ける。
二人が目を覚ますまで。
終