───水の音がする
深い眠りから目覚めた暁人はぼんやりとした意識を徐々に集中させ周りに目を配る。
遥か頭上に見えるは朝を迎えた渋谷の町並みか。
足元は底が見えずひたすらに冥い。
まるで深海だな。
暁人の身体は沈んでゆくわけではなくただただ見えない水の中をゆらりゆらりと漂っている。
「あの夜」を超えてどうなったのか。記憶はまるで水で滲んでしまったように曖昧で、思い出そうとすればするほど頭の芯がじりじりと痺れた。自分に起きた出来事を把握することは諦め、今度は自分の身体に意識を向ける。
掌を見て驚いた。掌から逆さまになったカゲリエが透けて見えている。あの夜渋谷中に漂っていた何万もの幽霊の姿を思い浮かべた。
──僕は、死んだのか
そういえば、呼吸をしていないことに改めて気づく。そうだ、バイクに乗っていて事故にあったんだった。あの夜のことは死ぬ前に見た最期の夢だったのかもしれない。
もう一度掌を見ると指先はかなり薄まり輪郭は水に同化してしまったかのように曖昧になっている。
──このままここに溶けてしまうのかな
不思議と恐怖は無かった。それほどに自身を包む水の音は心地良い。
──また、眠ろう
あの夢の続きを見れますように、そんな期待を込めてゆっくりとまぶたを閉じる。
◆◆◆
己と他人の境界が失われ、一つに溶け合いつつある世界。その姿はまるで恒星が誕生する瞬間のようで、ただよう個々の意識がそれぞれに惹かれあい渦を巻きながら徐々に集まり、やがて一つのコアを形成する。
そこに一筋流れてゆくのは暁人の意識。このまま渦の中心に飲み込まれてしまえば他人の意識と混じり合い、二度と「暁人」に戻ることはできない世界。
──月が、眩しい
いや、こんなところに月があるわけないじゃないか。
身体の輪郭をほとんど失い、もはや自分の身体の何処に目があるのかがわからない。ただ視線を動かすようにして意識を光源のある方に向けると水面の向こうには大きな満月が浮かんでいた。その姿はあまりにも大きく、手を伸ばせば届くのではないかと錯覚を起こす。
そして月の方向からこれまた月の光のように温かい声が自分に向かってはっきりと語りかけて来る。
『お前とまた一緒に過ごしたいんだ』
──あの声は、KK?
もう一度声が聞きたいとひたすら願っていた。夢でもいいからもう一度会いたかった。流れに飲まれまいと足で踏ん張るように意識を働かせる。
『オレは、早くまたお前に会いたい』
もう一度彼の声が届いた。
──僕もKKに会いたい
そう思うや否や暁人は月明かりに向かって我武者羅になって泳ぎ始めていた。大きなうねりに逆らい、他人の意識をどうにかかき分けるようにして進んでいく。この姿になってから初めて息が苦しいと感じていた。まだ死ねない。死にたくない…生きてKKに会わなければ。その思いを叶えるため必死になって腕を動かす。
そして月明かりに近づけば近づくほど指先に、爪先に、全身に力が漲ってゆく。
とうとう水面から顔を出した暁人は大きく息を吐き出した。月明かりに目が眩む。
◆◆◆
まぶたを持ち上げると白い天井が目に映った。ゆっくりと視線を動かすと人影が見えた。月を背にした男の顔は見えないが暁人はそれが誰か確信していた。
「…おはよ…けぇけぇ…」
唇が湿っていてそこだけが温かい。初めて感じたKKの温もり。
それをもっと感じたくなって思わずKKの背中に手を回そうとしたが思っていたように力が入らない。そんな暁人の身体をKKが優しく支える。
「…またKKに逢えてよかった」
支えきれなくなった身体をKKの胸に預けると、KKはそれを受け止めるようにしてぎゅっと抱きしめた。
とくとくと伝わるKKの心音は水の音より遥かに心地良い。
「おかえり、暁人」
そう囁いた彼の言葉が吐息と混じって暁人の耳を擽ると、頭の芯がじんわりと温かくなった。
溢れ出てくる言葉は形にならず、目から流れ落ち暁人の頬を濡らした。