どうしたもんか、エリック・サティ「しっかしあんた、マジで納豆好きなんだなァ……」
エスカレーターの上で、碧棺左馬刻は後ろに立つ神宮寺寂雷に問うともなく呟いた。
「スープカレーまで納豆入りとか、ちょっとビビったぜ」
晩秋の昼下り。
所用で寂雷の元を訪れた左馬刻は、寂雷の誘いで、とある西新宿の高層ビルの地下の食堂街で昼食を摂ったのだった。
「ふふ、悪くはなかったでしょう?」
「……まあ、そうだけどよ」
返す言葉に我ながら切れがない自覚がある。
「つぅか味見っつっても、"あーん"はねぇだろがよ、"あーん"はよ……」
つい30分ほど前のことだ。
自分が注文した「骨付き地鶏と牛すじのスープカレー」が届くまでの間、自分ならまず頼まないであろう「北海道産丸大豆の納豆と有機ホウレン草のスープカレー、玄米ごはん変更」なんてものを喜々と口に運ぶ寂雷を、ついしげしげと見つめていた。
そうしたら寂雷が、一口どうだい、と、微かに糸を引くスプーンを自分に向かって差し出してきたのだった。
地下二階にある店は閉塞感を避けてか、通路に面した壁は全面がガラス張りで、店内は昼白色の照明に隈なく明るく照らされていた。
人目を避けられるような大きな衝立やパーティションもなかったのだ。
そんな場所で、泣く子も黙る広域指定暴力団の若頭を捕まえて、それこそ子供にするように自分のスプーンで給餌をしようとする奴がどこにいるというのか。
──ここに居た訳だが。
「気のおけない相手と、美味しいものを食べるのは楽しいことだからね」
上りエスカレーターの上で、背後に立つ寂雷を振り返る。
「……少し、気が緩んでいたかな。気分を害したならば、済まなかったね」
菫と藤の長い髪を揺らして頭を下げられては、却ってこちらが意識過剰だったような気分になってくる。
「フン……ま、確かに悪くない昼飯だったぜ」
「君は相変わらず、人参とピーマンが苦手なんだね。……喫煙者こそ食べるべき野菜なのに」
「食いたかねぇもん食ったらストレスが増えるからよ、したらまた煙草が増えて悪循環だろ?」
「そうだね、他のもので十分に補えているのなら、問題はないかな。……ただ、」
寂雷は困惑のようなものが混じった微笑みを浮かべてこう呟いた。
「懐かしいというか…ちょっと嬉しい気持ちになりました。君が、私のお皿に嫌いなものを放り込んできた時にね」
「……何だそりゃ」
思わず左眉を釣り上げた左馬刻の目の前で、寂雷は急に表情を引き締めた。
「左馬刻くん、前」
「?」
向き直ると、地下一階行きエレベーターの終点、動かない床がブーツの先端まで迫ってきていた。
「……っ、と!」
その場でたたらを踏んだ左馬刻の、サテンの綿入れスカジャンを羽織った両肩に、骨張った大きな手が添えられ、つんのめって不安定に傾いだ身体をそっと支える。
「……」
左馬刻は舌打ちをしたい気分になった。
この男──寂雷といると、時々こんな事になる。
年の差以上に年下扱いされているというか、自分だけが毛も生え揃わないガキに戻ってしまっているような気分になる、というか。
なんだかちっとも格好がつかない。
格好がつかなくて、落ち着かない。
落ち着かない──のだ、が。
「……?」
肩に手を置いたままの寂雷に、こちらの表情を伺うように覗き込まれて、左馬刻は眉尻から力を抜いた。
「なんでもねェよ」
寂雷は手を左馬刻の肩から離し、右側に並ぶと、地上へ登るエレベーターへと向かう通路へ歩き出す。
歩調を合わせて歩き出しながら、左馬刻は、ビル内で喫煙が禁じられていることを少しだけ恨めしく思った。
†
ピアノの音が聞こえてくる。
地上階行きのエレベーターを降りて通路を進むと、ガラス張りの屋根と外壁に囲まれた広間に行き当たった。
空間の奥側にはコーヒーや軽食の店が、その手前にはテーブルや椅子が並べられており、そこに座って寛ぐ人の姿があった。
「……んなとこ、あんだな」
「ええ。私も時折、ここで休憩をしたりもします」
左馬刻はぐるりと広場を見渡した。
広場の奥には大きなモニターがあり、シンジュク・ディヴィジョン内の催し物の告知や、ディヴィジョン内の名所の映像が交互に映し出されている。
今日は晴れており、屋根や外壁からは晩秋の柔らかな日差しが差し込んで、足元に敷かれた人工芝の緑をつややかに照らしていた。
しかし、そこに流れてくるピアノの音には、時折、曲を知らない左馬刻の耳にも分かるようなミスが混じっている。
音はビルの出口に近くに置かれた、黒いグランドピアノから流れてきていた。
出口に向かう左馬刻と寂雷は、必然的にピアノに向かって歩いていくことになる。
「わお」
「おお……」
すれ違う人々の中に、自分たちの顔を知っているのか、パッと顔を輝かせたり、自分のスマートフォンを取り出したりする者がいるのはままあることだ。
寂雷はそういった連中にも会釈をしてやったり軽く手を振ってやったりしているが、左馬刻は彼らを相手にせずに歩いていく。
ピアノの横には小さな看板が置かれていた。
『みんなのひろばピアノ
展示されている間はどなたでもご自由にお弾き下さい
長時間のご利用はお控え下さい
物を大切にする心、譲り合いの心をお忘れなく』
「へえ、ストリートピアノってやつか」
「ここにあるのは知っていましたが、実際に使われているところは久しぶりに見ますね」
ピアノ奏者が見えるところまで近づくと、椅子に腰掛けていたのは、まだ10歳になるかならずかだろうか、伸ばした髪をツインテールに結び、クロップド丈のジーンズを履いた少女だった。
少女がピアノに向かう表情は真剣そのもので固く、鍵盤の上のちいさな手の動きは心なしかぎこちない。
「……バイエルですね」
「何だソレ」
「ピアノの教則本の一つですよ」
「ふうん」
右手を顎に当てて、真剣に聞き入る様子の寂雷の横で、左馬刻も、胸の下に腕を組んで暫し耳を澄ませる。
程なくして演奏が終わり、小さな駆け出しピアニストはぴょん、と椅子から飛び降りると、腰を折って深々とお辞儀をした。
寂雷共々拍手で応えてやっていると、少女の隣で同じように頭を下げていた、ミディアムボブにチュニックの女性が驚愕の表情でこちらを見詰める。
「……神宮寺先生!と、碧棺……さん……?」
「おう、左馬刻様だわ」
少女は、よく似た顔をした女性の背後に隠れ、黒いチュニックの脇からこちらを覗き込んでいる。
「お耳汚しでごめんなさい……」
「そんな事はありませんよ。一生懸命に弾いていらっしゃる様子に、大変心が和みましたから」
「初めは誰だってルーキーだわなァ」
恐縮する女性に向かってにこやかに語りかける寂雷を他所に、左馬刻は膝を折ってしゃがみ込んだ。
こちらをじっと見つめるつぶらな瞳に視線を合わせる。
「すげえな嬢ちゃん、俺様だってピアノなんぞ弾けねえぞ……楽しいか、ピアノ弾くの?」
ほんの少し頬を赤らめた少女は、左馬刻の問いに大きく頷いた。
「したら、たくさん練習したらもっと上手くなって、いろんな曲弾けるようにもなる。多分もっと面白くなっから、頑張れや」
そう言って握り拳を差し出すと、二回りは小さな拳が伸びてきて、左馬刻の拳にちょん、と触れた。
「励みになります、ありがとうございます……ほら、あなたも"ありがとう"は?」
「ありがとうございます」
女性に背中を押されても、少女は正面に出てこようとはしなかったが、声と視線だけははっきりと、長身の男ふたりの方を向いていた。
「ん、いい子だ」
「これからも、ピアノを楽しんで下さいね」
子供の手を引いて歩き去る女性と、左手でこちらに向けて手を振り続ける少女を見送りながら、左馬刻は膝を伸ばして立ち上がりながら、寂雷に声を掛けた。
「あんたは弾かねえの?」
寂雷が虚をつかれたような表情をしてこちらを見る。
「……私が?」
「弾けるって聞いた気がすんぜ、前に」
「弾けないことはないでしょうが……多分、指がだいぶ鈍ってしまっているでしょうね」
「武器にならねえ音楽もよ、やれんならたまにゃやっときゃいいんじゃねえの?」
そう言ってみせると、寂雷は惑うように視線を泳がせながらも、ピアノの前に置かれた椅子に腰を下ろした。
「では……お言葉に甘えましょうか」
「何弾くんだ?」
椅子の左側、手元を見下ろせる位置からそう聞くと、寂雷は暫し思案顔になった後で、一度、鍵盤の端から端まで両手を滑らせると、
「──君の前で弾くのに、相応しい曲ではないかも知れませんが」
そう言いながら、メロディを奏で始めた。
どこかで聞いたことはある曲なのだが、曲名や作曲家までは左馬刻にはわからない。
ただ、軽快な三拍子に乗ったメロディは伸びやかで明るく、広々としたこの空間には相応しいような気がした。
「……悪くねェな」
そう呟くと、こちらを向いた寂雷は、少しはにかんだような微笑みを浮かべる。
背中に感じる日差しの温もりも心地よく、左馬刻は暫し目を細めて、寂雷の奏でるメロディに聞き入っていた。
†
その2日後。
左馬刻はヨコハマ某所にある入間銃兎のマンションを訪れていた。
「……そういえば左馬刻。お前、一昨日はシンジュクに居たんだな」
缶ビールで乾杯をしたところで、寛いだスウェット姿の銃兎から開口一番にそう言われ、思わず眉根に皺を寄せてしまう。
「居たから、どうしたよ」
特にやましい事があるわけではないのでそう返すと、銃兎は自分に負けず劣らずの仏頂面をして、無言でスマートフォンを差し出してくる。
「……ンだ?」
画面に映っているのは、近頃流行りの動画投稿サイトだった。
銃兎が真ん中の再生ボタンを押すと、寂雷が奏でていたピアノのメロディと共に、うっとりと目を伏せ気味に寂雷を見守る自分の姿が再生される。
「随分とお寛ぎのご様子で」
「あー……これ、メシ食った後で、先生がストリートピアノ弾くのを聞いてたんだわ。暖かくてよ、ちょっと眠ィくらいだったからな……」
「──その曲を弾いていたのは、神宮寺寂雷なのか?」
朗々としたバリトンが頭上から響いてきて、銃兎も左馬刻も揃って振り返る。
「『ヤンソンの誘惑』が焼き上がったぞ」
「お、おぅ……」
赤褐色のアンダーシャツの上に、カーキ色のシンプルなデザインのエプロンを纏った毒島メイソン理鶯は、ミトンを嵌めた手に持った四角いキャセロールを二人の間のテーブルに置く。
「ありがとうございます、理鶯。一度出来たてを食べてみたかったものですから、無理を言ってしまって」
「礼には及ばない。ただ、北欧産のアンチョビが入手出来ず、イタリア産で代用したので、少々風味が異なっている可能性がある」
「作って頂いただけで有り難いですよ。……いただきます」
「……ンで?理鶯。先生が弾いた曲に、なんか気になることでもあんのか?」
チーズの焦げた香りを漂わせるキャセロールの中身に箸を伸ばす銃兎を横目に、左馬刻が問いかけると、
「……ああ。随分と艶めいた曲を演奏するな、と思ってな」
「艶?」
「ジュ・トゥ・ヴー、という曲だが、銃兎は知っているのではないか?」
「ああ…あの曲でしたか、なるほど。曲名は確か、日本語にすると『君が欲しい』?」
タブを開けた缶ビールを持ったままの姿勢で固まってしまった左馬刻をよそに、湯気の立つクリームソースに覆われた馬鈴薯を口に運びながら、銃兎が答えると、自分の席についた理鶯は、料理を取り分けつつ言葉を続ける。
「うむ。『君が欲しい』と言っても、可愛らしい意味合いではない。あの曲には歌詞がついているのだが、その内容は完全に、ベッドを共にしている男女間のソレだ」
「ほう、あんな軽快な曲がねえ。歌詞があるとは知りませんでした」
「…………」
『君の前で弾くのに、相応しい曲ではないかも知れませんが』
左馬刻は、手に持った缶ビールを一口飲んでから机に置くと、勢いよく立ち上がる。
「左馬刻?どうかしたのか?」
「……小便」
トイレに向かってずかずかと大股に歩いていく左馬刻の背中を見送って、銃兎と理鶯は顔を見合わせた。
「温かいうちが美味なのだが……」
「教養が無いというのも大変ですねえ……理鶯、これ、とても美味しいです」
†
186cmにはいささか狭すぎる個室の中。左馬刻は、デニムを脱がずに便座に腰を下ろした。
尻ポケットに入ったスマートフォンを取り出して検索をすれば、件の動画はすぐに見つかった。
小さめの音量で再生しながら、動画の下にずらりと並ぶコメントに、よせばいいのに目を走らせてしまう。
"左馬刻さまの幸せそうな顔よ……"
"元TDDヲタのワイ、無事成仏"
"神様は先生にいくつ才能を授けたのか"
"ハマのわんこチャン"
"一郎くん乱数ちゃん見てるー?ウェーイ☆"
また、寂雷のせいで落ち着かない気分にさせられている。
──その上、それを不快だとは思えないでいる自分に、左馬刻はいよいよ気づいてしまった。
こんな感情への対処法は、知らない。
「テンネンが過ぎんだろ、先生よォ……」
そう呟いて、左馬刻は髪をがしがしと掻き毟った。
<おしまい>
2020.11.27
for "41.750km"