ねこ猫ハムはむ 何か、温かいものに包み込まれている。
七時までには起きられるよう整えた体内時計きっかり、徐々に覚醒していく意識がそのことに気が付いた。
毛足の長い上等な毛布のようであり、それそのものが熱を発しているかのように温かい。そして呼吸のような空気の揺らぎ。のしかかられているような、というより確実に何かがのしかかっている重み。
心地よい温もりが光の意識を甘い暗がりに連れ戻そうとする。抗うことは困難であると思われたが、「こんなふわふわの毛布、ここにあったっけ?」という疑問が光を現実に引き戻した。
富士山麓、フットボールフロンティアインターナショナル日本代表選手団の宿舎。基本は布団一枚でも過ごせる気温であるものの早朝は冷え込むため用意されてはいるが、アレルギー等を考慮してか綿素材のブランケットなのだ。毛足の長い毛布があるとすれば監督の部屋だが、あくまでも噂である。(高級布団メーカーのアクリル毛布を監督の部屋に運び込む子分の姿が目撃されており、しばらくして出てきた彼が寒そうに二の腕をさすっていたことから、冷房をガンガンに効かせた部屋で高級毛布に包まって寝ているのではないかとかなり真実に近そうな噂が囁かれている)
もふもふの重みから這い出し、ぐっと伸びをしようとしたところ後方に倒れた。頭を打ち付けてしまったかと光は一瞬焦ったが、倒れ込んだそこは枕の上であり衝撃はほとんど無く、安堵と共に違和感が押し寄せた。
それから程なくして驚愕で頭が真っ白になる。それもそのはず、起き上がろうとした光の目の前にあったのが巨大な猫の顔であるのだから仕方がない。
ぴったりと瞼を閉じた猫の、ふんすふんすと鼻で行われる呼吸が光には全身に吹き付けるそよ風のように感じられた。窓から差し込む朝の陽気でほのかに輝いて見える毛の艶、ヒゲの一本一本に圧倒され倒れたまま動けない光をよそに、猫の瞼が動いた。
くわぁっと大きく開かれた口。あくびをしたのだろう、普段であれば「可愛いな」で済まされる牙が眼前に迫っているとなれば恐怖以外の何物でもない。
猫は尻を引いて仰け反るように背筋を伸ばし、にゃーおと一声鳴いた。
『眠い……しっかり寝たはずなのにおかしいくらい眠い……今何時だ……』
まるでテレビ番組でよく見る同時翻訳。インタビューなどで外国人が喋るのに日本語の声を被せるそれ。耳では確かに猫特有の艷やかな鳴き声を聴いたはずなのである。しかし頭に響いてきたのは光のよく知る人間が喋る声。
頭を浮かせた状態ですっかり固まってしまった光の姿を猫の青い双眸がとらえた。
『ん……ねずみ? ……いや、ハムスターか』
近づけられたガラス球の表面に映った"腹をさらけ出したハムスター"が自分であると光は理解できなかった。気づきたくないというのが本心であろう。
『よく見ると光に似てるな。起きられないのか? 起こしてやるよ』
猫は光の脳内でまたしても兄の声で喋り、鼻梁で押し上げるようにして光を転がした。
おそらくは親切心からの行動。それが非常な現実を突きつけることになろうとは考えもつかないのだろうか。兄である可能性が高い猫を前に光は小さな前足で文字通り頭を抱えた。
すると今度は『毛づくろいか? ははっ、可愛いな。ちょっと手伝ってやろうか』と鳴き光の背をぺろりと舐めた。体を舐めて毛づくろいをする、猫としては何らおかしくない行動である。それが兄であるかもしれないから恐ろしいだけであって。
『ん? 俺なんでハムスターを舐めたんだ?』
自分のしたことに違和感を覚えたらしい。怪訝そうに鳴き、それから少し考え込み『まぁいいや。なんか落ち着くし』との結論に至り、光の毛づくろいを再開した。
『腹側もやってやるよ。そのほうが早いだろ』
んなーご、と玩具を見つけたような弾みを含ませた鳴き声を漏らすと、猫は爪を収納した肉球で光の体をころんといとも容易く反転させた。
またもや無防備になった腹。小さい手足と見るからにもふもふとした表面などハムスターそのもの、そこに迫る巨大な猫の顔。横腹からガブリと噛みつかれて、そうしたら猫は頭から咥え込む形になるよう器用にハムスターの体を回して――脳裏に過ぎった予感を、光は一笑に付すことができない。今はそんなことが起こり得るような姿形をしているのだ。
本能的な恐怖が、ちいさなもふもふハムスターの体に震えとして表れ、猫の方にも伝わったらしかった。
『安心しろって、食べたりなんかしないから。なぁ光』
警戒心を解くためか優しげな声で語りかけると、猫は敵意が無いことを示すように光の腹を慈しむように舐めた。テレビで見る様な、ちーちーと未発達の喉から懸命に声を出す仔猫に親猫がするような、細められた青い瞳に少なくとも光を食ってやろうとする魂胆は見つからなかった。
鼻梁をぐいぐいと押し付けられ、そのまま鼻呼吸などされようものなら毛の一本一本まで吸い込まれそうになる。地肌にまで届く生暖かい空気に思わず身をよじるとまた毛づくろいだと腹の表面を猫の舌が撫でた。それが繰り返される中で仔猫にでもなったような気分に浸っていると、止め忘れていた目覚まし時計が予備動作的にぴ、ぴ、ぴ、と電子音を鳴らし、けたたましく連続する音を部屋に響かせた。
兄の遅刻予防のため幼少の頃より体内時計を整えているため光はたいてい決まった時間に目を覚ますのだが、たまにうまく作動しないときもある。そんなとき寝坊しないための最後の砦として使っているのだ。早く止めろと急かすように音を発する目覚まし時計を止めようにも、今の光には机の上にあるそれの元にたどり着くことすら困難に思われた。
光を包むように巻いていた猫の尻尾が激しく上下に振れる。
猫は徐に立ち上がると俊敏な動作で机に飛び乗り。
『うるさい!』
不機嫌を隠そうともしない声を発してけたたましく鳴る目覚まし時計に一撃を食らわせた。ぷにぷにの肉球から放たれた強烈な打撃で吹っ飛んだ目覚まし時計は壁に激突し、静かになった。
猫が離れたその隙に光は枕から滑るように降り、廊下に繋がる扉を目指す。慣れない四足歩行でたどたどしくベッドの端にまで到達したところでぷにぷにの肉球に捕まった。
『どこに行くつもりだ? もし見つからなくなったら、踏み潰されたりしたら大変だろう? 目の届く範囲なら守ってやれるから……俺のそばにいろ、光』
抱きしめるように引き寄せられ、もふもふで全身を包まれた。はからずもときめいてしまいそうになって猫の目を見ると、『改めて見るとやっぱり光に似てるんだよな』とからかうような口調が頭を反響した。
目の前にいるハムスターが実の弟であると知ってか知らずか。兄がハムスターの仮称として自分の名前を使っていることに光は複雑な心境だったが、そんなこととは露知らず一方の猫はというと前足に捕まえた光を眺めてこころなしか嬉しそうにしている。
『ふわふわしてて可愛いな』
満足げな声とともに後頭部から耳の裏側を舐められ、光は「ふわふわしてるのは兄ちゃんの方こそ!」と言い返してやりたい気持ちになった。しかし如何せんハムスター。思うように声が出ない。そもそもハムスターが鳴いているところなんて見たことがなかったと思い至り、苦悩を表すには小さな前足で頭を抱える他なかった。
現実か夢かすら曖昧な現状をどちらか確かめるため頬を抓るという最も典型的な手法をとろうとしたものの、小さな指ではふわふわの頬をどうにかすることは難しい。それならばと指の先を噛んでみると鋭い痛みがしたので光は声を上げることも出来ないまま落胆した。現実である可能性が高まったのであれば現状を打破する必要がある。しかし、小さくなった脳みそで人間のつもりで考え事をすると、回路が焼ききれそうな頭痛がして思考を止めた。
熱を持った頭を抱えているとじっとしていられなくなり、光は気分転換をかねて寝転がる猫の腹からよじ登り背中を歩いてみることにした。猫の毛並みは上を歩けばてんてんと足跡が残るほどであり、足の裏からも柔らかい毛の感触が伝わってくる。後ろ脚の膨らみ付近に足を踏み入れたところ『くすぐったいからやめろ』と艷やかな尻尾の先でもふりと叩かれ、猫の前足と後ろ脚の間に転がり落ちた。
『まだ朝ごはん食べてないから腹減ったな』
そんなことを呟いて数秒光を見つめ、そのうえでくわぁっと大口を開けてあくびをされたものだからたまらない。忘れかけていた恐怖心を思い出し体を強ばらせた光に、猫は『冗談だよ』と短く鳴いて光に頬を擦りつけた。頭に響く充の声が目論見の上手くいったイタズラっ子のように弾んでいたせいか、猫の顔も笑っているように見えた。
ベッドから降りようとすると捕まるし、ハムスターの身でチームメイトの元に行ったところで練習などできようもないのも確かであったためしばらく猫と遊んで(遊ばれて)いると、廊下が少し騒がしくなり扉が叩かれた。
「二人ともどうしたんだ? もうみんな朝ごはん食べ終わってるぞー?」
行儀よくノックしたつもりだろうがそれでもなお力強い。代表して声をかけたのは円堂だ。
裏の無さそうな爽やかな声に答えようにも光は声が出せず、唯一発声できる充の喉から出るのは猫の鳴き声。大きめのにゃーおが『ちょっと体調が優れないみたいだ、遅れるけど心配しないでくれ』と言っているのだと分かるのは悲しいかな光だけ。
「なんか猫の鳴き声しなかった?」とよりいっそう不思議がられるのも当然のことである。
「一星、大丈夫か? 入るぞー?」
『大丈夫だって、本当に大丈夫だから! あぁ、なんで伝わらないんだ!』
円堂を筆頭に一星兄弟の相部屋に踏み込んだ面々が目にしたのは、みゃおみゃおと鳴きまくる猫。それに捕まる哀れなハムスター。
皆からはそんな風に見えているのだと思うと光は兄がしているように叫びたくなった。
「えっ……猫、とハムスター? 一星たちどこ行ったんだ?」
「かわいいでゴスね、あのハムスターよく見ると光くんっぽいでゴス」
「言われてみると……って、なんだよそれ。じゃああの猫はお兄さんかな」
「なぁ、あのままだとハムスター食べられるんじゃないか?」
稲森の一言で二匹(二人)を見る皆の表情は微笑ましいものを見守るものからホラー映画でも見る様な緊迫感に変わった。
『光を食べるわけないだろ!』
ハムスターを前足に捕まえたまま気を荒らげた猫を見て、誰が「弟に似たハムスターを食べるわけがないだろう」と主張していると思うだろうか。大半の目には餌を横取りされるかと思って怒り狂う猛獣であるように映ることであろう。
「どこかの家のペットかもしれない。助けた方がいい」
灰崎や不動までもがそう口にするものの、自身の肉球をぺろりと舐める猫とヒビ入った目覚まし時計に気圧され遠巻きに見守るばかりだった。
二メートルの間を開けていた人集りの中、スッと一本の腕が掲げられた。
「僕が行くよ。皆は下がってて」
「野坂さん、危険です! ああ見えて相手は猛獣なんですよ?」
「大丈夫。猫相手に負けるようじゃ皇帝なんて名乗れないからね」
「……分かりました。貴方を信じます」
多少なりとも面白がっているのか野坂と西蔭は大袈裟な会話を交わして二匹(二人)のすぐ近くに歩み寄った。
猫は差し伸べられた手のひらを鼻梁でグイと押し返す。意識がこちらに向いている限り同じことの繰り返しだと気付いた野坂は猫の腰辺りをもふもふと撫で、少しだけ警戒が和らいだのを確認すると空いたほうの手で素早く光を掴みにかかった。
猫の魔の手から救出せんとする手が光の視界の一切を埋め尽くす。皺の一本一本がはっきりと見えるほど近付いたヒトの手、圧迫感。なにかの絵本で見た巨人に襲われる場面を思い浮かべた光は反射的に猫の毛を引っ張った。
ハムスターを捕まえようとする手を視認した途端、まんまるな猫の目が一転して鋭く変わり、野坂の色の白い肌に思いきり噛み付いた。
『光に触るな』
ゔーと唸り耳を後方に引くように倒し野坂を睨みつける。耳の動きに伴って半眼になった顔はまさしく猛獣のそれであり、気の弱い誰かが「ひいっ」と情けない悲鳴をあげた。
「なかなか手強いね」
野坂は困り気味に眉を下げもう一度同じ手を使うも、一瞬の隙を作り出すことには成功してもハムスターの救出となると猫の牙に阻まれた。
野坂は無言でゆるゆると頭を振りチームメイトの方に向き直った。
「余計に刺激するとハムスターの身に危険が及ぶかもしれない。ひとまず食べる気は無いようだし、落ち着くまでそっとしておこう」
いつ小さな頭にかぶりつくかも分からない猫を前にして「確かにあまり刺激しすぎるのも良くないよね」というのが皆の総意となり、以降誰も喋らず順々に部屋を出ていった。
「それにしても、あいつらどこ行ったんだろうな」
疑問の声と足音が遠ざかっていくにつれて猫の緊張が解けていく。最後の一人が出ていってから足音を追うように耳を傾けていたが、戻ってこないと判断したところで正面に戻した。光の様子を観察することに意識のすべてを向ける猫の顔は、すっかり愛玩動物としてのイエネコのものに変わっている。
『もう安心だ』
状況はひとつも変わっておらず全く安心できるものではないが、脳内に響いた兄の声で光は安堵を覚えていた。眼前に迫ってきた手に少なからず恐怖したのも確かであったのだ。
「守ろうとしてくれてありがとう、兄ちゃん」
それだけは伝えておきたいと思い猫の腹に体を擦り寄せると、きゅう、きゅう、と震える喉から甲高い音が出た。
猫は驚いた様子で目をまんまるに見開き、それからふっと細めて光の口をぺろりと舐めた。
😽🐹
目が覚めると宿舎内部はひっそりと静まり返って、朝とは思えない日盛りが窓から差し込んでいた。
光は寝転がったまま隣のベッドに顔を向ける。すると健やかな寝顔は思いのほか近くにあった。抱きしめるように回された腕を体の上からどけ、光は気持ちよさそうに眠る兄を叩き起こした。
「なんだよ、そんなに慌てて……いま何時だよ……」
「何時って、もう……」
机の上に目をやるも、あてにしていた目覚まし時計の姿はそこにない。
「目覚まし時計ならあそこにあるぞ」
くいっと充が顎で示した方向に、床に落ちたそれはあった。気持ち急ぎ目で歩み寄って拾い上げると、少しヒビの入った画面に表示される時間を確認して光は愕然とした。
「もう……お昼休憩も終わってる頃だよ」
焦燥感と尋常ではない空腹感を抱えて食堂に向かおうと扉を開けると、足元には食堂のトレー。わんぱくなおおぶりのおにぎりと共に添えられた『無理しなくてもいいけど来れそうだったら練習来てくれよな。ところで朝どこ行ってたんだ?』という躍動感のある字は見るだけでもあの熱血ゴールキーパーの声が聞こえてきそうだった。
「こんなに食べきれるかな」
「朝ごはん食べてないし、ちょうど朝昼二食分だな」
おそらくはヨネさんが作ってくれた分に追加して握られたであろう大きめおにぎり含め、持ち上げたトレーはずっしりと重い。持ったままのトレーで目覚まし時計をずらし、机に置く。向かい合うようにベッドに腰掛けて手に取ったおにぎりはほんのりと温かい。くしゃくしゃに巻かれたラップを解けばふわりと湯気が立ち、白い艶に引き寄せられるようにかぶりつけば朝と昼の二食をまだ摂っていない体にほのかな塩気が沁みていった。
一個目のおにぎりは合間に水分を摂ることすらせず、あっという間に食べ終えた。
「がっつきすぎだぞ光。ほら、飲み物」
各部屋に備え付けられた冷蔵庫からスポーツドリンクを持ってきた充は小さな子供をあやすような言い方こそしているが、口元にご飯粒が付着している。
「ありがと兄ちゃん。ご飯粒ついてるよ」
光はご飯粒をひょいと摘まみ、そのまま自らの口に運んだ。スポーツドリンクで喉を潤してから二つ目に手を伸ばしたとき、ディスプレイにヒビが入った目覚まし時計が目についた。
「なんだか、変な夢見たなぁ」
ラップを解く音に紛れて「どんな夢だったんだ?」と興味深そうに続きを促す声がした。
「ハムスターになる夢。ここ……ちょうど枕の上にいて、しかも猫になった兄ちゃんも出てきてさ」
「へぇ、それで?」
「食べられちゃうって思ったけど、兄ちゃんずっとおれの毛づくろいしてたんだよ」
「……こんな風に?」
半分ほど食べたおにぎりを机に置くと、充は光が座るベッドに手を付き身を乗り出し鼻の先が触れるくらいに顔を近づけ、光の唇をぺろりと舐め上げた。
突然のことに驚いている光の手からまだ口をつけていないおにぎりが奪い取られる。そのまま肩を掴まれ気が付いたときには背中がベッドに沈み込んでいた。
光の制止の声も聞かず、充は光の首筋や耳、腹に舌を這わせる。現実のような夢、もしくは夢のような現実で猫にされた毛づくろいに似た力加減に、光は頬が熱くなるのを感じながら頭に浮かんだ考えを口にした。
「もしかして、兄ちゃんも同じ夢見て」
充はピタリと静止して腹から顔を離し、光を見下ろした。
「……そうだな。まだ夢から覚めきってないみたいだ」
青い目が逆光による暗がりの中でぎらりと輝いているように思われた。光から見た今の充を例えるならば、愛玩動物のイエネコでもハムスターを前足に捕まえた猛獣じみた猫でもなく、獲物を前にした狼。
窮鼠猫を噛む、とは言えども窮鼠が狼を噛むような言葉など光の辞書には存在しない。
光の想像する、狼に覆い被された鼠にできることと言えば。
「ちょっとどいてくれる?」
今にも食らいつかんとする充の胸元をそっと押し返す。すると一瞬眉をひそめつつも体を引く。
自由になった光はすぐジャージの裾に手をかけた。飢えた狼が食べやすいよう自ら身を護るものを取り去ってしまうのだ。早く食べたいという視線に気付かないふりをして少しだけ勿体つけてやる、タダでは食べられないぞという被食者としての細やかな抵抗を交えつつ。
そうして無防備な姿になると屈服した犬の姿勢を取り「いいよ、来て」と下拵えが終わったことを狼に伝えるのだ。