虹色の箱庭③日曜日から2週間程立ったある土曜日ライナーはダンボールを抱えてジャンのマンションへとやってくる、以前から続く月に2度ほどの日用品の定期配送だ。
「お届け物です」
「…ありがとう」
久しぶりに見るジャンの表情はどこか重苦しくて少しばかり痩せたようにも思える。重たい箱をいつもの様に玄関の隅に置くと廊下の奥のリビングが見える、その様子は乱雑で薄暗くてライナーの心は落ち着かなくなる。
「ジャン、体調悪いか…?」
「いや」
「少し、痩せたな」
「ああ、なんか…忙しくて、でも大丈夫」
大丈夫、の一言にこんなに頼りなげで痛々しいものがあるのだとライナーは目の前のジャンを見て初めて思う、放っておけない。そんな気持ちも同時に芽生えた、それでも彼は顔も知らない男の物で、このままただの宅配員として知らないふりをしてしまえばそれで終わりだ、見ない振りをしてサインを貰えばそれで。
一度食事をして世間話をした、ただそれだけだ。
「嘘つくの下手だな、ジャン」
「嘘じゃねえって、」
「この前の昼飯のお礼させてくれよ」
意識せずに口から出た言葉にライナー自身も驚く、目の前で驚き目を見開くジャンの顔ともしかしたら自分は同じ顔をしているだろうかと思いながら手を伸ばす、いつも綺麗に整えられていた前髪が今日はだらりと垂らされたままでライナーはそれを耳へと掛けてやると漸くハッキリと見えた目尻には薄くクマが出来ていて余計に、痛々しさが増した。
「……あ、そうだ」
髪を梳いた手をおもむろにポケットへ入れて中を探るライナーにジャンは手元へ視線を落とす、ポケットの中から2つ溶けかけのチョコの包みが出てきてその家庭的な見た目はあまりにライナーに不似合いでジャンは思わず小さく吹き出して久しぶりに笑った。
「…子供かよ、」
「いつも配達行く家のばーちゃんが持ってけ、ってうるさくて」
「そっか、」
「疲れた時は甘い物食えって」
だから、とライナーの指が包み紙を開いてそれをジャンの唇へと運ぶ、反射的に開いた口の中に甘いチョコの味が広がる。それと同時に離れていく溶けかけのチョコの着いたライナーの指が何だか名残惜しくてジャンの手が無意識に伸びて指を追いかけ、捕まえる。
何かを食べて味を感じたのは随分と久しぶりな気がして飲み込むのもまた名残惜しい、そして誰かに触れたのも随分と久しぶりで心の中に甘いような、苦しい感覚が走ってすっかり疲弊したジャンの心に甘い味が飲み下す度に染み込む。
「…あの日、ライナーが帰った後」
「うん、」
「旦那から、連絡来てて、それが…っ、メッセージ誤爆…?浮気相手の、…。馬鹿だろ、それで、ずっと、何となく分かってたけど、それが、本当に目の前にあるとさ、あると、」
「……もういい」
「…全部、馬鹿馬鹿しくなって…今まで、何してきたんだっけって、」
一つ言葉を吐き出すともう口を閉じることが出来なくてジャンの口から次々と言葉が溢れてその声は次第に震え、濡れていく。甘かった口の中がしょっぱい、とジャンが言葉を止めた矢先強い力でライナーの腕の中へと捕まりジャンの背中へ回した手がシャツにまるでライナーの痕跡を残すように溶けかけのチョコの染みが出来る。
「ライナ、…」
「言わなくていい…もう分かった、」
ライナーのその一言でジャンの堪えていた気持ちが溢れて涙となって、言葉となって溢れ出る。いつも風の通り抜ける明るい部屋はカーテンで締め切られ空気も重苦しくて薄暗い、それだけでこの部屋にジャンを一人残してこの場を去るなんて到底出来ないとライナーはジャンを抱く腕に力が篭もる、そして背中に腕が回ってくれば到底、離すことは出来ない。
いつも余計に力を込めて肩肘を張って立っているだろうジャンを何故分かってやらない、何故放っておくんだと顔も知らない彼の夫に苛立ちすら芽生えてライナーの心は穏やかではなくなる。
(いらないならいっそ俺が、)
出会ってから何となくグラグラと不安定なまま過ぎてきた関係が途端に均衡を失って崩れていく音がする、もうとっくに配達員と客の関係なんて越えてしまった、今更だ。そう腹を決めてしまえば何の恐れもなくてジャンの返答なんかお構い無しに脱ぎ捨てたライナーの靴が綺麗に並べられたジャンの靴の側に転がる。
夫婦の、いや家庭の一番神聖な場所だろうとあの日足を踏み入れ無かった、今まで見ないふりをしてきた写真立てがあったリビングへと踏み込む、脱ぎ捨てられたワイシャツが背に掛かったソファになだれ込むとジャンの髪がカーテンの隙間から漏れ入る真昼の陽に照らされてキラキラと光を散らす。
外ではすぐそばの公園から聞こえる誰かの幸せな声が溢れていた、カーテン一枚隔てた暗いこの部屋とは大違いの幸せな空気が満ちていた。
ジャンの頬を撫でるライナーの手にジャンがスリ、と頬を寄せて目を細める。外からの音を除けば時計の秒針と互いの布擦れの音だけがやけに部屋へと響いた。
「俺もいつか、あっち側にいけるかな…」
「一緒に行こう、俺が、連れていく…」
約束なんてもの出来る筈のない二人が薄暗な部屋で約束の真似事をする、そして互いの身に纏っていた衣服がソファから滑り落ちて床で重なった。
そしてジャンの真っ白なシャツに刻まれたチョコの染みがやけにくっきりと漏れ入る日差しに照らされて浮き出る、離れまいとライナーの背中にしがみついて自分と同じく苦しげに軋んで鳴くソファの音を聴きながらジャンはすっかりもう飲み込んだはずの甘いチョコの味を思い出してライナーへとキスを強請る、当然甘い味なんかするわけは無いけれどジャンは堪らなく満たされて、もう一度、もう一度、と何度も強請ってはそれを繰り返す。
どこにいたって、ライナーはあっち側に連れていってくれる。そんな甘い言葉を吐き出す代わりにジャンはただ何度も、ライナーの名前を呼んだ。