教育的指導 若草色の髪と瞳の恩師からまだ領地に帰らずデアドラで自分の補佐をして欲しい、と言われた時ローレンツは間髪を入れず自分がベレトを支えて助ける、と宣言した。自領に戻れば今度こそ立派な嫡子として領主として生きていかねばならない。だから本当に助けられているのはローレンツの方だった。
全てを押し付けていったのだからこれくらいは使わせて貰っても構わないだろう、と嘯くベレトはローレンツの事情を知ってか知らずか主人を失った旧リーガン邸に居を構えている。ローレンツは円卓会議に出席する父グロスタール伯に随行する度クロードとデアドラで逢瀬を重ねたものだ。その中でもベレトが今、住み着いているリーガン邸が一番思い出深い。将来、クロードの自宅が職場になると分かっていればここではしたないことはしなかった。
「流石に疲れたな。お茶を淹れよう」
「それなら僕が……」
「労いたいんだ」
ベレトの見たところ近頃のローレンツは本当に参っている。心当たりはいくつもあった。それに戦争後もずっと自分の補佐をさせているせいで寛げるはずの自領にも戻れていない。
「別に僕は無理などしていない」
そう言って強がるローレンツは少しやつれている。本人に指摘すると最近書類仕事ばかりで体を動かしていないから筋肉が落ちてしまった、とだけ言う。
「鏡に映る自分がどう見える?」
「う……確かに先生の言う通り疲れているのかもしれないな……」
今ローレンツが取り組んでいるのはパルミラとの国交交渉だ。クロードは恐らくパルミラにいる。あの彼のことだから、それ以外の国にいるのであれば評判くらいはフォドラまで伝わってくるはずだ。全く消息が伝わってこないからこそローレンツやベレトの確信にも似た予感は強い。隣国との往来が自由になった後、彼を探すのか探さないのかはローレンツにもよく分からない。ただ探すことすら出来ないことがとにかく嫌だった。
「ローレンツ、もう少し自分のことを大切にした方がいい」
「だが先生とて身を粉にして働いているではないか。素晴らしいことだ」
ベレトは茶器を受け皿に置いた。目の前の教え子は悲しい誤解をしている。
「だが俺は一人で抱え込んでいない。ローレンツのことも皆のことも頼る」
「だが僕個人のことなど国の復興と比べたら些事にすぎない」
「では俺の父は立派な人物ではなかったことになるな」
ローレンツは恩師の言葉を聞いてきまりの悪そうな顔をした。少し意地悪な物言いをしてしまったが、これくらいきつく言わねばローレンツに伝わらないので仕方がない。ベレトの父ジェラルドはセイロス騎士団団長としての地位を投げ打って我が子の安全を確保した。家族に替えはきかないが役職に就く者はそれがどんなに欠くべからざる者だとしても替えがきく。父が思い切ってくれたおかげで大きな欠落を抱えながらとは言えベレトはベレトとして育つことができた。
「内心で惨めな思いをしていても他人から立派だと思われるならそれでいいのか?自分がどう感じるのかを他人に委ねるのか?」
「そんなことは……していません」
ローレンツは深く傷ついている。立ち直るには彼の前から無言で消え失せた誰かの言葉が必要だ。ベレトはもし彼と会えたなら年長者として物の道理を諭してやらねばならない。
数日後、ローレンツが戸惑いながらパルミラ王家の印章で封がされていた書簡を携え、ベレトの執務室へやってきた。交渉も大詰めだというのに何か問題が発生したのだろうか。ベレトは頷いてローレンツに説明を促した。
「王同士で署名を?」
「ええ、あちらで新しい王が即位したので方針を変えたい、と。条約がより強固なものになるのでこちらとしては構わないのですが……」
だが全権大使同士で、ということで準備していたため調印式に関することが全て仕切り直しになる。ローレンツの歯切れの悪さはそれが理由だった。
「俺自身はどこに出向いても良いな。首飾りでも先方の首都でも。もし首都に行くなら久しぶりに会いたいからレオニーとフェリクスを護衛に雇おうか」
「そういう冗談は外ではお控えください」
王同士であっても中間地点であるフォドラの首飾りが調印式をするのに相応しい場所であるということに変わりはない。
「なあ、ローレンツ。調印式が終わったら領地でもデアドラでもないところで少し休むと良い」
「そうですね、ゴネリルで魚介を楽しむのも良いかもしれないしアミッド大河を遡ればリシテアさんにも会える」
必死で体面を保つローレンツを見ているとベレトの心は痛んで仕方がない。きっと自分には言わずに、というか誰にも告げずパルミラで緑の瞳の男を必死に探すのだろう。ベレトは立ち上がってローレンツの頭に手を伸ばした。彼は真っ直ぐで絹糸のような髪をしている。
「僕はもう頭を撫でられて嬉しいような子供では……」
「いつまで経っても教え子だよ。よく考えて悔いがないようにして欲しいだけだ」
「考えさせていただきます」
月日はあっという間に流れ、ローレンツはベレトと共にゴネリル家の守るフォドラの首飾りに来ていた。要塞の改修費用や兵士の負担に不均衡が生じていた件でクロードと口論をしたことが懐かしい。
「間もなくいらっしゃるそうです。僕は奥に控えておりますので何かあれば合図してください」
「通詞と書記と証人を呼ぶ場合は手を三回叩いて緊急時は咳払いを二回と三回、続けてだったな」
はい、と言って微笑むローレンツはテュルソスの杖を手にしている。ベレトに危害を加える者がいれば瞬時に焼き尽くすはずだ。先方は先方できっとそういう護衛を用意していることだろう。
約束の時間より少し早めに単身で調印式を行う広間へやってきたパルミラ王を見て、ベレトは合図のことを忘れ驚きのあまり咽せてしまいそうになった。しかもローレンツと二人きりで話し合いたいことがあるので彼の時間を都合して欲しいのだという。ベレトの命令には逆らわないだろう、と計算しているのだ。クロードは故郷で異母兄弟に虐められた、と聞いているがこういうところを疎まれたのだろう。
「手短で構わないから事情の説明をして欲しい」
「付き合ううちにお互い将来のことを考えて及び腰になった」
「貴族の責務、か……」
クロードの説明はベレトが求めた通りこの上なく簡潔だった。跡継ぎを作らねばならない。セイロス教は同性婚を認めているし養子縁組も盛んだがどうせなら血を分けた子が、というわけだ。ベレトがローレンツの口癖を使って更に短く要約するとクロードが口の端を微かにあげた。分かっているなら話が早いと言いたいのだろう。
「きょうだいだって結婚していないのはそういうことだろう?」
戦争が終わって既に三年経っているがベレトはクロードが言う通り独身のままだ。しかし二人とベレトは事情が全く異なる。
現在ベレトの心臓を動かしているのは母シトリーから譲られた紋章石だ。眷属として目覚めたので長命ではあるが、我が子の心臓が動かなかったら自分は母がしてくれたようにきっと紋章石を我が子に与えてしまう。だが情勢を安定させるためにもベレトは王としてこのフォドラに君臨せねばならない。自分の権限でセイロス教が医学研究にかけていた制限を解いたがベレトは医学が進歩して憂いのなくなる日までは家庭を持たないつもりだ。
「俺は正しい決断をしたから周りも理解してくれた」
「そんなの何十年もかかる」
自らを肯定するために父の国と母の国双方を引っ掻き回さねばならなかった教え子はそれでも言い返してきた。この負けん気の強さが二つの国を改革し、私人としてのクロードとローレンツを追い詰めている。クロードはどうだか知らないがローレンツはここ数節本当に忙しく過ごしていた。調印式の準備とその後の休暇に伴う申し送りで彼は更に痩せた気がする。
「ローレンツは癒されなくてもいいと思い込んでいるようだ。最後に傷しか残さなかったどこかの誰かのせいで」
ベレトは口下手で教師になってからも戦争中も、随分と口の減らないクロードに助けてもらった。それだけに彼が最後、ローレンツ相手に言葉を尽くさなかったことが信じられない。
「俺だってあいつ相手にどんなことをやらかしたのかきちんと分かってるよ……」
彼が傷しか残さなかったからローレンツは傷を治したくないのだ。死ぬまで保留すれば成功も失敗しない。真実は永遠に隠されてしまう。こんなに周囲を馬鹿にした話があるだろうか。クロードが流石にばつの悪そうな顔を見せたので、ベレトはきっかけだけは提供してやることにした。どんなに思うところがあったとしてもあとは若い二人に任せるべきだ。
「ひとつ条件がある。ローレンツと話す時に"でも"と"だが"を使わないと誓うなら協力しよう」
クロードは一瞬、怪訝な顔をしたが勝算はあると踏んだらしい。彼がすぐに無言で頷いたのでベレトは手を三回叩いた。ローレンツとパルミラの官吏たちによって整えられていた通り、調印式がつつがなく進んでいく。クロードとベレトの間に通詞を置くなど茶番も良いところなのだがローレンツも含めて当事者たちが表情を全く崩さなかったのは見事としか言いようがない。調印式が終わると少し疲れたので休む、と告げベレトはローレンツを伴って控室に下がった。
調印式の間、クロードはずっとにこやかな表情を崩さなかったが直前に食らったベレトの強烈な一言が脳裏から離れなかった。クロードはこれでも隣国の王になったというのに全く容赦がない。最後に傷しか残さなかった、と口下手なベレトから言われたのは流石に堪えた。
ローレンツがまだ結婚していない。
戦争が終わってもう三年も経っている。彼が無言で姿を消した自分に見切りをつけて、どこかの誰かと結婚していたならばクロードはローレンツに再びちょっかいを出すつもりはなかった。単なる戦下の恋として生涯、胸の奥に秘めたままでいただろう。だが今も独身であることが彼の答えのような気がして身勝手ながらとても嬉しかったのだ。しかし恩師はクロードの浮かれた頭に冷や水を浴びせ、躾けられた犬のように隣室で合図を待てという。
「先ほど二人で話す時間を作って欲しいとクロードから直々に頼まれた」
「隣国の王の機嫌を損ねない為の王命ということであれば時間を作ります」
控室に戻ったローレンツの声は震えている。客観的に見れば、素性を隠していた大国の王子に弄ばれたも同然だ。クロードはその生死すら判明していなかったから生きていてくれて嬉しい、という気持ちと弄ばれた悔しさや置いていかれた悲しさが混ざっているのだろう。
「俺に命令されないとクロードには会えないかな?」
ベレトは二人分の紅茶を淹れながらわざと緑の瞳の男がフォドラで名乗っていた名を使った。
「今となっては立場が違いすぎますので……」
「クロードにはひとつ条件を出してある。クロードがローレンツ相手に"でも "と"だが"を一度でも使えばその時点でこの面会は終わりだ。二度と会うことを許さない」
教え子の真っ白な顔が真っ青になった。ローレンツはベレトが決めたことを絶対に覆さない、と知っている。エーデルガルトに事情があったと分かっていてそれでも容赦なく切り捨てた。
「それは……王命ですか」
ベレトがローレンツの問いに答えず二度手を叩くと先程の広間に繋がる小さな扉が開いた。何も言わずに失踪したクロードが、困り果てた顔をしてローレンツの目の前に立っている。去り際に耳元で囁かれた、結果がどうであれ悔いのないように話し合いをして欲しい、というベレトの言葉が胃に響いた。
自分の選択が正しいのかどうか未だにローレンツには分からない。共に過ごしている間は遂に見せて貰えなかった、クロードの真の姿は目が眩みそうなほど輝いている。それでもフォドラの王から悔いがないように、と後押しをされたからには二人で小さな卓を挟んで話し合いをするしかなかった。
「何やら禁止用語があるらしいので僕から先に話す。言い終える前に話し合いが終わるのは嫌だ」
ベレトは別に聞き耳など立てていないだろう。それでもローレンツはクロードが例の言葉を使ったらすぐに部屋を去るつもりでいた。口数の少ない恩師の言葉には深い意味がある。
「僕は成功したはずなのに、鏡の中の自分を見ていると空虚な気持ちになる。自分の評価を他人に委ねたからだ」
立派な嫡子、有能な政治家と言う他人からの評価で取り繕っても、現状は愛する人に無言で失踪された男でしかない。それを認めるのが辛かったからローレンツは自分の気持ちに蓋をした。クロードは珍しく黙ってローレンツの言葉に耳を傾けている。
「僕はそれこそが君が何も告げずに姿を消した理由だと思っている」
他人から褒められなければ保てない矜持しか持てない男にクロードが出自を告げられないのは当たり前だった。正直に自分の過ちを認めなければクロードが残した傷は癒やされず成長も望めない。今からようやく時が動いてくれる、そう実感できたローレンツにもう恐怖心はなかった。上着の隠しから天鵞絨の小箱を取り出しクロードの顔を正面から見つめる。一目でいいから会いたい、と願っていた人の顔を見られるのは今日が最後かもしれない。
「僕は君が生きていてくれて嬉しいよ。まだ君のことを愛している。だから受け取って欲しい」
パルミラでは指輪に結婚や婚約という意味を持たせない。結婚するときに交わすのは首飾りだ。だからパルミラで王となりフォドラでの名を捨てた彼に指輪を贈っても全く意味はない。だが結果はどうあれ渡さなければ、どれほどクロードが好きだったのかを形にしなければきっと後悔する。
クロードはそっと小箱を受け取り右手の親指で蓋を撫で回した。その小指には王家の印章が付いた銀の指輪が嵌っている。ローレンツはあれで封がされた書簡をデアドラで何通も受け取っていた。
「ありがとう。俺も言わなきゃならないことがある。箱の中身を確かめるのはその後にさせて欲しいんだ。俺が例の言葉を使ったらいつでもこの部屋から出ていって構わない」
ベレトが"でも"と"だが"をクロードに禁じたのはそうしなければ昔の自分がローレンツに対して何をやらかしたのか理解している、と彼に伝わらないからだ。自分の過ちを認め許しを乞う際に言い訳や説得は有害である、とベレトは言いたかったのだろう。相変わらず口下手にも程があるが。
「俺も同じだよ。王位についたのに鏡の中に映る男は王の顔をしていない。愛してくれた人へ何も言わずに逃げ出した碌でなしの顔が見える」
クロードは自分自身を肯定するために二つの国を引っ掻き回し、その結果フォドラは統一されパルミラ王にもなった。大成功を収めたがその為に自分を愛してくれた人を深く傷つけている。傍らにありたいという彼の望みを知った上で無視したからだ。
「信頼できる男のふりをして何年も惑わせて本当に申し訳なかった。お前が嫡子としての立場に固執し続けたのは俺のせいでもあると思う。心の底から詫びたい」
思い人に無視されて貴族の責務まで放棄したら、ローレンツは自己を保っていられない。だから彼は狂おしいまでに良き嫡子であろうとしたのだろう。クロードはローレンツにこんなことを言うつもりはなかった。だがベレトの強烈な介入のおかげで調印式の際に互いの視線が交差した瞬間、ローレンツの瞳に浮かんだ喜びを汚さずに済んでいる。
クロードは王という立場で圧倒し説き伏せ、ローレンツの情の深さに甘えれば簡単に自分の望み通りになると思っていた。だがそれでは単に丸め込んで問題を死ぬまで先送りにしているのと変わらない。
「君の謝罪を受け入れる。どんな形であろうと君の人生の一部になれて光栄だ」
こんなに幸せそうな顔をしているローレンツを見るのは本当に久しぶりだった。一片の後ろ暗さもない晴れやかな気持ちでクロードは受け取った天鵞絨の小箱を開けた。この大きさなら指輪以外はあり得ない。中には白金で出来た細めの指輪が入っていた。ローレンツ好みの瀟洒な細工を施してある。これなら弓を引く時にも邪魔にならないだろう。
「ありがとう。すごく気に入った。好きな指につけて構わないか?」
クロードはそういうと迷うことなくローレンツの思いがこもった指輪を左手の薬指に嵌めた。