ジェイド・リーチと海の魔女 最終話 アズールとフロイドからの連絡を意図して無視したのは僕がそれに甘えないため。
それなのに実家に出入りしていることを口止めもせず、完全に姿をくらませなかったのは僕がふたりとの繋がりを完全に断ちたいと思っているのではないと伝えるためだ。
もしもアズールとフロイドとこれまでと同じように頻繁に連絡を取っていたら、僕は間違いなくふたりの元に戻りたいと強く望んでしまっただろう。
会えなくたってそうなのに、その声を聞いたら、きっと僕はいつかそれに縋ってしまう。
そうして僕が意図せず、無意識に彼らの記憶に導くような事をしてしまったらもう取り返しが付かない。それだけは何としても避けなくてはならないけれど、僕がもう完全にふたりから離れてしまったのだとは、どうしても思われたくなかった。
ふたりを危険に晒したくはないけれど、わずかな希望も捨てられない。
そんな僕の中途半端な行動にきっとふたりは呆れるだろうと思っていた。
ささいな事で気分の変わりやすいフロイドはもちろん、案外短気で血の気の多いアズールも、勝手なことばかりする僕にきっと腹を立てているだろうと。
それなのに、久しぶりにフロイドから電話が来たのだと連絡してきた母の話に僕は言葉を失った。
フロイドが僕のことを心配していたけれど喧嘩でもしたのかと聞かれ、喧嘩なんてしていませんよと答えたまでは良かったけれど、フロイドが母に「さみしい」と言ったのだと聞かされ、心臓が止まるかと思った。
フロイドが「早くジェイドに会いたい」と、そう言ったのだと。
それだけで、僕は胸がいっぱいになってしまった。
色々な感情がいっぺんに押し寄せて、うまく呼吸もできないくらいに胸が詰まる。
きっと呆れて怒っているだろうと思ったのに、まさかフロイドがそんな風に素直に思いを伝えてくれるなんて。
わざと避けて無視しているのは僕なのに、僕だって、本当はアズールとフロイドに会いたい。
会いたくて会いたくて、でも言えなくて、伝えられない僕の思いを、フロイドも同じように抱えてくれている。
それがどうしようもなくうれしくて悲しくて、苦しくて、もう一人ではどうしていいか分からなかった。
いつだって僕を一番に理解してくれるのはフロイドだったのに、今はそのフロイドにこの気持ちを打ち明けることもできない。でもひとりで抱えているのはあまりに辛く、誰かに聞いて欲しくて堪らなかった。
それがよりにもよって、どうしてこの日だったんだろうと思う。
もしこの日一日耐えられたら、僕はまたその辛さを乗り越えていつもの日常に戻れたはずなのに、それは本当に偶然にもトレイさんと陸で会う約束をしていた日だった。
ほとんど強制的にピアスを預けてしまった対価を支払うため、なんとか無欲な彼の要望を聞き出せないかと酒の席を設けたに過ぎなかったのに、どうして。
待ち合わせたパブで会ったとき、僕はすでにひどい顔をしていたらしかった。
鏡を見る気にもなれなかったので自分がどんな顔をしていたのかなんて知らないし知りたくもないけど、当たり前みたいな顔をした自称普通の先輩に、「話くらい聞くぞ」と言われて歯止めが効かなかった。
いくら巻き込んだのが僕自身だとは言え、僕とトレイさんは決してプライベートな悩みを打ち明け合うような関係ではなかったのに、今は唯一僕らの事情を知る彼の前ではぼろぼろと本音が溢れてしまった。
彼に話したからと言って解決することなどなにひとつないのに。
ただ自分だけでは抱えきれなくて、この場限りの一瞬だとしても、楽になりたかった。
ひとしきり一方的に話した後で、僕は深くため息を吐いた。
「……海の魔女は本当に慈悲深い」
彼女が意図して僕たちの事を知る人間を残したのかは分からないけれど、もしそうならきっと彼女は分かっていたんだろう。
僕がこんな風にみっともなく、人間を頼らずにはいられなくなる日が来ることを。
「たった一人でも真実を知っている人がいると思うと、こうも縋りたくなってしまうものなんですね」
僕は苦し紛れにブランデーを煽り、余りにも情けない自分の姿を自嘲する。
アズールやフロイドが今の僕を見たらなんと言うだろう。人間に泣き付くなんて情けないと笑い飛ばしてくれるだろうか。
それとも、どうして自分たちを頼らないんだと怒ってくれるだろうか。
ふたりの姿を想像するだけで泣きたくなるのをお酒のせいにして、僕は熱くなる目頭を抑えて俯いた。
「……あなたさえいなければ、こんなみっともない姿を晒さなくて済んだのに」
「みっともなくなんかないさ。お前は本当によく頑張ってるよ」
「ふ……っ、優しい先輩みたいなことを仰いますね」
「優しい先輩だろ? たまには素直に甘えてもいいんだぞ」
「……と言われましても、素直に甘えたことがないので」
「ははっ、あいつらにもか? まぁ俺に対してあいつらと同じにしろって言ったって無理だろうけど、たまには泣き言くらい言ってもいいと思うぞ」
「泣き言……」
泣き言なら今日すでに散々聞かせてしまった気がするけれど、トレイさんにとってはどれも大したことではなかったんだろうか。
トレイさんがそんな風になんでもないみたいな顔をするから、もっと言ってしまってもいいのだろうかと思ってしまう。
それが素直に甘えるということなのかはよく分からないけど、僕はいつの間にか、決して口にすまいと思っていた言葉をぽろぽろとこぼしていた。
「………想像していたより、つらいです」
「うん」
「アズールとフロイドが生きてくれているなら、それだけでいいと本気で思っていたんですが」
「うん」
「……でも、羨ましくなってしまって」
僕にそんな事を望む権利はないのに。
魔女と契約したそのときに、僕は自分の全てを投げ打つ覚悟をした。
それなのに、アズールとフロイドが目を覚まし、ふたりが以前のように元気になって暮らし始めたら、僕はそれ以上を望んでしまった。
ふたりの命を繋ぎ止められるならもうなにもいらないと思ったのに、ひとつ願いが叶えばもうひとつと、僕はどこまでも貪欲になってしまう。
「ぼくも、ふたりといっしょにと」
僕は醜い。
魔女との契約は絶対なのに、僕が望む事でふたりの命が脅かされると知っているのに、それでも、手を伸ばしたくなってしまった。
「かえりたいです、ふたりのところに」
かえりたい。
三人で一緒にいられたあの頃に。
ずっと三人でいられると信じていたあの幸福な時に。
でもそれはもう、僕から望むことは許されないのに。
「ジェイド、ひとりでよくがんばったな」
えらいぞ、と彼は幼い子供にするように僕の頭を撫で回した。
いくら年下だからと言って僕はもう三十を過ぎたいい大人で、そうでなくとも人より背の高い僕の頭を撫でる人なんてアズールくらいしかいなかったのに。
僕は羞恥と戸惑いと、それから遅れてやってきた安堵にすこし泣いてしまった。
「……やめて下さい。どうせならアズールに撫でられたいです」
「ははっ、悪い悪い。お前にも年下らしいところがあるんだなと思うとついな」
「たったひとつしか違わないじゃないですか」
「たったひとつでも後輩は後輩だろ」
「なるほど、さすが上下関係の厳しい体育会系の職場にお勤めなだけありますね」
「ははっ、今ならなにを言われても照れ隠しにしか聞こえないな」
図星を突かれてしまえばそれ以上返す言葉もなく、僕は気まずさを誤魔化すようにひたすらグラスを傾けた。
こんなみっともない姿を他人に晒すつもりなんてなかったのに。
いくら彼が学生時代からの僕らの関係を知る唯一の人だからと言ってこんなにぼろぼろと本音をこぼして、挙句涙まで見せるなんて。
アズールとフロイドの前でだってほとんど涙を見せた事なんかないのに、情けないやら恥ずかしいやら、どうにも居た堪れなくなってお酒ばかりがすすむ。
挙句ぐだぐだになって結局トレイさんから対価を聞き出すこともできなかったし、一体なんのためにわざわざ陸まで来たんだろうと思う。
またこんなみっともない姿を晒すのはごめんだし、トレイさんとは当分会わないでおこうと決めてその日は別れ、それからひと月以上経ったある日、今度はトレイさんから連絡が来た。
会えば「優しい先輩」の彼にまた甘えてしまいそうで本当はできる限り会いたくはなかったけど、トレイさんがアズールとフロイドに会ったと聞いて、堪えきれなかった。
トレイさんから直接アズールとフロイドの話を聞いたりすればまた感情が溢れてしまうかもしれないと思うのに、どうしても直接会ってその口から聞きたかった。
ほんの少しでも、アズールとフロイドを近くに感じたかった。
そして実際に会ってふたりの話を聞いたとき、僕は信じられなくらいに笑ってしまった。
アズールとフロイドはあの家でふたりきりになった直後から何かが足りない違和感を感じはじめ、そしてそれが僕に関することであると気付き、その失くしたものが僕に対する愛である事にも気付いた。
そして僕たちが三人で愛し合っていたことの記憶が彼ら以外の全員から消えていることも、トレイさんだけは記憶を失くしていないことも、全て知っていたと言うのだ。
さらには僕がなんらかの大いなる力と取引をしてこうなったのだという事さえ、ふたりはとっくに分かっていると。
そんなの、笑わずにはいられなかった。
「……大丈夫かジェイド、息してるか?」
「あははは……!ふふ…っ、すみませんトレイさん、あんまりおもしろくて……」
「そっかおもしろいかー」
「えぇ、だってあれからまだ半年も経っていないんですよ? 海の魔女の魔法は絶対に破れないと思っていたのに、それをこんな短期間で……!」
かの魔女が数百年をかけて蓄積した魔力を使い、かけた魔法をこんなにも簡単にすり抜けてしまうなんてとても信じられなかった。
フロイドがいくら勘が良くて天才的な閃きを持っていても、アズールがいくら目的の為には手段を選ばず地道に努力を重ねる執念深い人魚だとしても、僕らみんなが憧れる、あの偉大なる海の魔女の魔法に敵うはずがないと思っていた。
それなのに、アズールとフロイドは。
「さすが僕のアズールとフロイドです。彼らは本当に僕を楽しませてくれますね」
「はは……、お前が楽しそうで良かったよ」
彼女が重ね掛けした思考を妨げる呪いのせいか、その「大いなる存在」が海の魔女であるという発想には至っていないらしいけれど、彼女が現代に生きているなんて僕でもまだ信じられないのだから、常識的に考えればアズールがそこに至らないのも無理はない。
でもそれにしても、アズールとフロイドがこんなにも短期間でここまで真相に迫ってくるとは本当に予想外だった。
「アズール達はどうしてこんなに早くここまでわかったんでしょう」
「それだけど、フロイドが言うにはこの魔法には意図的に作ったような『ほころび』があるらしいぞ」
「ほころび?」
「あぁ。例えばお前達の結婚式の写真」
「結婚式……」
僕は無意識に、膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめていた。
その時僕は確かにそこにいた。
アズールとフロイドと共に家族や友人達から祝福され、これ以上ない幸福の中に、三人で並び立っていた。
「結婚式の写真にはお前がどこにもいなかったらしい。そんなの逆に不自然だろ? 大勢の人の記憶をいっぺんに書き換えられるような魔法士なんだ。写真からお前だけ消す事ができるのに、ゲストの中にお前がいた様に偽装することができないはずがない。だからフロイドが言うには、わざとそこにジェイドがいた事を教えてるみたいだって」
「……そんな、なんのために」
「何のためなんだろうな。フロイドは、『見つけてみろって言われてるみたい』って言ってたけど」
「海の魔女がわざとふたりを誘っていると?」
「あぁ、アズールなんてこの魔法をかけた奴はとんだ性悪だとか言ってたな」
その性悪が敬愛する海の魔女だと知ったら、アズールはどんな顔をするだろうと思うとフッと笑ってしまったけれど、もし彼らの推測通りだとして、彼女が何の為にそんな事をする必要があるのか全く分からなかった。
アズールとフロイドの命を救ってもらう代わりに僕は彼らの愛を差し出し、彼女に生涯仕える事を誓った。
彼女にしてみれば愛なんてものはなんの価値もないけれど、それを手中に収めている限り、彼女はふたりの命と引き換えに僕を自由に使える。
ふたりが自らの力でその記憶に辿り着けば僕を自由にしてくれると慈悲をかけてはくれたけれど、僕らを知る全ての人の記憶を改竄し、アズールとフロイドが思い出そうとする度思考が阻害される様に呪いまでかけた彼女は、自分の魔法が破られる可能性など微塵も考えていないのだろうと思っていた。
それなのに、彼女自らアズールとフロイドに気づかせる様な「ほころび」を作ったのはなぜなんだろう。
あの偉大なる魔女がそんなヘマをするとはとても思えない。
だとしたら、やはりそれは魔女がなにか意図を持ってした事なのだ。
「とにかく、そういうものがちらほらとあるらしいんだ。アズールとフロイドは自分たちが感じた違和感を片っ端から洗い出してひとつひとつ検証してるらしいぞ。その中で見つけた小さなほころびを集めてここまで真相に近付いた」
「なるほど……、海の魔女の魔法が完璧であれば到底破れるとは思えませんが、そんな穴があるならアズール達が見逃すはずはありませんね」
「抜け目ないからなぁ……。まぁでもさすがに俺がフロイドのピアスを持ってることまでは気付いてなかったけどな。俺だけ記憶があるのはあの時たまたまあいつらを助けたせいでジェイドに巻き込まれたんだと思ってる」
「そうですか。では次は自分たちの記憶がピアスと指輪に閉じ込められている事にどうやって気付いてくれるかが問題ですね」
「うん、でも案外早く気付くかもしれないぞ」
そう言ってトレイさんがあまりにも自信満々ににやりと笑うので、僕は純粋に疑問に思って目を丸めた。
「なぜです?」
「もしかしたらジェイドも知ってるかもしれないけど、茨の谷は外部からの魔法の影響を受けないんだ」
茨の谷は今もほとんどの原動力を魔法に頼る特殊な土地で、妖精王が統べるその国には多種多様な妖精達が多く住んでいる。
妖精達の中には未だ他種族に対する偏見を持っている者も多く、閉鎖的な土地柄もあって外部との交流はほとんどなく領土全体が特殊な結界で守られていると聞いた事がある。
その結界によって魔法による外部からの干渉を受けないというのは納得がいくけれど、その事が今回の件となんの関係があるんだろうと僕は首を傾げた。
「これは俺の推測だけど、その効果が海の魔女の魔法に対しても発動するんだとしたら、あそこにはお前達の事を覚えている奴らがいる」
そこまで言われて僕はハッとした。
僕とした事が、いつの間にこんなにも思考を鈍らせてしまったんだろう。
もしもトレイさんの推測通りなら、茨の谷にはナイトレイブンカレッジ時代からの僕らを知っている人達がいる。
少なくともシルバーさんには結婚式の招待状を送っているし、もしも彼が忘れていないのなら、現当主であるマレウスさんは間違いなく僕たちの事を覚えているはずだ。
「学生時代の後輩が来てくれたらきっとマレウスは喜ぶと思うんだよな」
そして訪ねてきた後輩達に、もしも彼が祝福を授けてくれたら。
それはあまりに都合の良い推測に過ぎないけれど、それは限りなく現実に近い希望にも思えた。
「俺はただ、アズール達にそれを教えてやっただけだよ」
ひとつ年上の「優しい先輩」は、相変わらず普通の男みたいなフリをして悪い顔で笑うのだ。
「ふ……っ、本当に相変わらずですねあなた」
使えるものは妖精王まで使うとは。
思い返してみれば、彼は普通を謳いながら常に誰に対しても物怖じしない肝の座った男だった。
スーパースターのヴィル・シェーンハイトにもただの同級生として当たり前に接していたし、誰もが恐れて遠巻きにするマレウス・ドラコニアにも臆する事なく教えを説いたり指示を出す様な男なのだ。
今となっては一国の王として君臨する妖精王さえ、彼にとってはかつての懐かしい学友のままらしい。
「ふふ、なんだかとても楽しみになってきました。アズールとフロイドがいつ真実に辿り着いてくれるかワクワクしますね」
「はは……、この状況を楽しめるお前はさすがだよ」
「だって絶対に無理だと思っていたのにここまで辿り着いたんですから。あとはどれだけ早く迎えにきてくれるか楽しみに待つとしましょう」
「全くいい根性してるよ。この前会った時のしおらしいジェイドはどこに行ったんだか……」
「トレイさん、僕が大笑いしていた事はアズール達に言わないで下さいね。僕がひとりさみしく泣いていると思っていてくれた方が早く辿り着いてくれるかもしれないので」
「お前なぁ……。まぁ俺としても早く解決してくれた方が助かるしな」
「そうでしょう。一刻も早く厄介ごとから解放されたければ僕に協力してくださいね。頼りにしていますよトレイ先輩」
それからというもの、僕は逐一ふたりの行動を追うよになった。
彼らが誰と接触しどんな話をしたかを確かめては、アズールとフロイドが少しずつ僕に近づいてくれているのを見てその日を心待ちにしていた。
茨の谷へ行く方法を探して四苦八苦していたのもずっと見ていたし、学園長に接触するためだけに開かせた新装モストロ・ラウンジのパーティにも変身薬で別人になりすまして参加したりした。
以前はふたりの事を考えるだけで身を裂かれるように辛かったけれど、この頃にはもう僕は確信していた。
そう遠くない未来、僕がふたりの元に帰れる日は必ず来る。
そうしてふたりの動向を追いながら、僕は自分たちが本当にたくさんの人たちに支えられているのだと実感した。
リドルさんやトレイさん、ヴィルさんにルークさん、カリムさんはもちろんのこと、不本意な顔をしながらずっと協力してくれていたジャミルさんも。それからイデアさんは裏で色々とアズールに情報提供をしてくれていたようだし、茨の谷の皆さんに至っては、アズールとフロイドが真実に辿り着けるように惜しみなく力を貸してくれた。
茨の谷から戻ってきたフロイドが転移魔法をマスターしていた事には心底驚いたけれど、そうやってまた一歩ずつ、ふたりが僕に近付いてくれているのが、僕は本当にうれしかった。
そうしてあの事故から半年。
フロイドは遂に、その手に揃いのピアスを取り戻した。
トレイさんからその事実を聞かされた時の感慨は、本当になんと言い表したらいいのかわからない。
辿り着くまで何年かかるか、いやきっと辿り着けないだろつと思っていた真実に、ふたりはたった半年で辿り着いたのだ。
僕にしてみればその半年は途方もなく長くもあったし、短かったようにも思う。
あともうひとつ、僕の結婚指輪を取り戻せばふたりの記憶は完全に戻る。
そうなればやっと自分の居場所に帰れるのだと思う一方で、僕はずっと疑問に思っていたことがあった。
海の魔女は、本当に意図して魔法のほころびを作ったのだろうか。
もしそうだとしたら、それはなぜ。
彼女は、その言動とは裏腹にやはり慈悲深い魔女だった。
契約を交わしてからと言うもの、僕は多くの時間を彼女と共に過ごしたけれど、その間彼女はずっと僕の拠り所でもあったのだ。
欲深き人魚達を導いては慈悲を与え、その願いを叶える為にあれこれと彼女の指示に従って働きながら、僕は多くのことを学んだ。
アズールよりよほど人遣いの荒い彼女に仕えるのはとても忙しい日々だったけれど、僕の時間はかつてナイトレイブンカレッジで学んだ頃のように充実していた。
毎日毎日新しい発見と学びに出会い、アズールとフロイドに会えない寂しさのなかでも僕は楽しさを見出していた。
そして彼女も僕の働きに満足し、いつの間にか僕をかつて仕えた忠実なウツボと同じように可愛がっていてくれていたように思う。
だから僕は踏み込むべきではなかったのかもしれないけれど、どうしても気になって彼女に訊ねた。
「アズールとフロイドにヒントを残すようなことをしたのはなぜです?」
目も口もどこにあるか分からないただの岩である彼女の表情を伺うことはできないけれど、彼女は明らかにすっとぼけたふりをして「なんのことだい」と言う。
「……やはりそうなんですね、おかしいと思ったんです。あなたほど偉大な方の魔法に欠陥があるはずもないのに」
「おやおや買い被り過ぎじゃないかい坊や。アタシだってちょっとした失敗くらいはするさ。案外おっちょこちょいでね、可愛いところもあるだろう?」
「えぇ、あなたはとてもチャーミングで魅力的な方ですが、そんな重大なミスをするとはとても思えません」
「重大? なにがそんなに重大だって言うんだい」
「色々です。アズールとフロイドが違和感を持つきっかけになった僕たちの家だって、あなたなら簡単に作り変える事もできたでしょう? それに僕たちの結婚式の写真をわざと不完全な形で残したり、乗船者名簿や会社の勤怠記録をそのままにしたり、それから茨の谷のようにあなたの魔力の及ばない場所があることも初めから分かっていたのではないですか? 分かっていながらあなたはふたりがそこへ向かう事を妨害しようともしなかった。契約で不利益を被る事にならないようにアズールならきっとどんな手を使ってでも妨害したはずですが、あなたはそうしなかった」
「おやおや、アタシをなんだと思ってるんだい坊や。いくら魔力量が多くたって細かな微調整は大変なんだよ。魔法の強さはイマジネーションの強さだって学校で習わなかったのかい? そんな細かいところまでいちいち想像してなんかいられないね」
「それが出来るからあなたは偉大なる海の魔女なのではありませんか」
「……そもそもそれだよ。アタシは確かに慈悲深いけどね、アンタが言うように何百年も語り継がれるようなご立派な魔女サマなんかじゃないんだよ。人違いじゃないのかい?」
「いいえ、あなたは間違いなく慈悲深き海の魔女です」
「あぁそうかい、勝手に言ってな」
彼女はそれきり機嫌を損ねたように返事をしてくれなくなったけれど、僕には彼女が海の魔女であるという確信があった。
それがなぜかと聞かれれば明確な答えは言えないけれど、海に産まれた者の本能としてそう感じるのだとしか言いようがない。
たとえ今はただの巨大な岩に成り果てたとしても、彼女は確かにあの偉大なる、慈悲深き海の魔女だ。
彼女がなぜこんな誰の目にも付かない海の底で眠っていたのかは分からないけれど、普通の人魚ならこんなにも長い間その身に魔力を蓄え続けることなどできない。
並の人魚ならここまで巨大な魔力の塊と化す前に、その魔力に己を飲み込まれて死んでしまうだろう。
それなのに彼女は生き続け、こうして身動きの取れない体となりながらもまだ自我を保って魔力を操っている。
そんな彼女の持つありとあらゆる知識、魔法を生み出すイマジネーションの強さ、そして僕を惹きつけて止まない彼女の求心力、その全てが、この巨大な岩礁が海の魔女であると僕に告げていた。
彼女がただ魔力が強いだけの魔法士であったなら、僕はこんなにも彼女に惹かれなかったはずだ。
僕が彼女に誠心誠意尽くし、それを傍らで支えたいと思うのは最早契約のためだけではなかった。
僕は知りたいのだ。
彼女の知識の全てを、彼女が産み出す魔法の奇跡を。
もちろん、一日でも早くアズールとフロイドの元へ帰りたい。
でもそれと同時に、僕は海の魔女をずっとそばで見ていたかった。
僕は何も言わなくなった彼女にぴたりと寄り添い、そのごつごつとした硬い岩肌に尾鰭を巻きつける。
「僕ではあなたのお役に立てませんか」
この半年、僕は全て彼女の望む通りに働いてきた。
この場から動けない彼女の代わりにあらゆる海を泳ぎ陸を歩いて彼女の欲するものを手に入れた。
哀れな人魚達を集めその悩みを聞き、彼女の言葉の通りに調合した魔法薬を渡して対価を搾り取ってきた。
「僕ではあなたの尾ひれにはなれませんか」
あなたが望むならどんな事でもするのに。
アズールとフロイドの命を救い、僕に新たな居場所を与えてくれたあなたの為なら僕はなんだってできる。
あなたが海の魔女ではなく女王になりたいと言うのなら、僕は王殺しだって厭わない。
でも彼女は一度だってそんな事は望まなかった。
僕が自分の為ならなんでもすると分かっていながら、慈悲深き海の魔女は迷える人魚達に手を差し伸べる以外何も望まなかった。
それどころか、魔法にわざとほころびを作ってアズールとフロイドを導くようなことをするなんて。
彼女がなぜそんな事をしたのかずっと分からなかったけれど、ここへ来て僕はある可能性に気付いた。
世界を変えるほどの強大な力を持ちながら、それを一切自分のために使おうとはしなかった海の魔女。
もしかして彼女は、初めから何か別の目的があって僕と契約したのではないか。
「もしかしてあなたは、僕をふたりの元へ返そうとして下さっているのですか」
「……フン、バカをお言いでないよ。アタシは愛になんてこれっぽちも興味がないと言っただろう。坊やはアタシが死ぬまで下僕としてこの海で暮らすのさ」
「あなたが死ぬまで……」
彼女が余りにも当然の事のようにそう言ったのが、僕にはどうにも引っかかった。
これまでどれだけ長い時間を彼女が生きてきたのかは分からないけれど、彼女はこれからもずっと魔力を蓄え続け、ここで悠久の時を過ごしていくのだと思っていた。
それはもう僕の人生など取るに足らないくらい、長い時間をひとりで。
だから「海の魔女の死」というのが、僕にはうまく理解できなかった。
それなのに彼女は当たり前のように、「アタシが死ぬまで」と言ったのだ。
「僕が死ぬまでではなくてですか?」
彼女はまた返事をしなかった。
黙り込んだその意味を追求するように僕は言葉を続ける。
信じ難いことだけれど、可能性はゼロではない。
「もしかしてあなたは、もうご自分の終わりが見えているのですか」
長い長い沈黙があった。
彼女は何も言わず、僕もただ彼女の言葉を待つ。
そして遂に、折れたのは彼女だった。
「はぁ………。この数百年、ずっと寝たり起きたりしてきたけど、アタシが目を覚ますのはこれが最後だ」
「そんな……、なぜです」
「さてね、でも分かるのさ。そういうもんだろ? 坊やがアタシを間違いなく海の魔女だと言うように、アタシにも自分の最後がわかる。それだけの話さ」
「それは、いつなのですか」
「さぁてそこまではね。ただ分かるのは今回が最後ってだけ。そして次に眠りについたら、アタシはここで本当にただの岩になる」
「どうにかならないのですか、何か僕にできることは……」
「ないね。アタシは長く生きすぎた。だからもうこれ以上どうにかしようとも思わないさ。安心おし、アタシが死ねば坊やも解放されるしあの子達が死ぬ事はないよ」
彼女の言った言葉を、僕は上手く飲み込めなかった。
海の魔女は僕と契約した時から、とっくに自分の終わりが見えていたという事なのだろうか。
そして彼女は、その運命を受け入れていると。
「……あなたは本当にそれで良いのですか」
「命が終わること自体はどうだっていいよ。ただ、」
ただ、その言葉の先に、海の魔女の本当の望みがある。
「ここで永遠に動けない岩のままで終わるのはつまらないと思ったのさ」
「それは、どういう……」
「坊やと契約した時、アタシは自分自身に呪いをかけたんだ」
「呪い……?」
「あぁそうさ。何度も言うけどアタシは真実の愛なんて反吐が出るほど嫌いなんだよ。そのせいで散々な目にあったからね。この数百年は一度も見ることがなくてせいせいしてたくらいさ」
彼女は本当に吐き捨てるようにそう言って、でもそれから、少しだけその声が柔らかく変わる。
「でもね、最後にもう一度くらい、見てやってもいいかと思ったんだよ」
彼女の瞳はどこにあるのかも分からないのに、その時僕は確かに、彼女温かく見つめられているような心地がした。
「まぁあんまり簡単に見せつけられちゃシャクだから、あの子達にも強めの呪いはかけたけどね。そしてついでにアタシ自身にも呪いをかけたのさ。もしもあの子達が真実の愛の記憶にたどり着く事ができたら、その時アタシは泡になって海に消えるって呪いをね」
「なぜ……! なぜそんなことを……」
「だってここで岩のまま死ぬよりずっといいだろう? アタシは最後の最後に泡になって海に還るんだよ。そして自由に泳いでやるんだ。海に溶けてしまえばどこへだって行けるからね、こんな辛気臭い海の底とはおさらばさ!」
「……それがあなたの望みなのですか」
「望みなんかじゃない。『呪い』さ。自分に呪いをかけるのは中々大変でねぇ……、それ相応の対価が必要になる。そこでアンタ達が現れたのは本当に都合が良かった。『真実の愛』はこの世で一番強い魔法だからね。それと引き換えなら、魔力を蓄え過ぎたこのアタシにも呪いをかけられる」
「ではあなたは、その呪いを発動させるために、わざといくつものほころびを……」
「さぁどうだったかね。あぁ楽しみだ! あの子達はこのアタシの魔法を破って『真実の愛』とやらをアタシに見せられるかね」
嬉々としてそう言った彼女の前で、僕は何を言っていいかわからなかった。
彼女は、はじめから自分に呪いをかけるために僕と契約したのだ。
僕らの愛の力を利用して呪いを発動させ、自分を泡にするために。
はじめ乗り気でない素振りを見せたのもきっと僕を逃さない為で、僕はまんまと彼女に策にハマって契約をした。
彼女からすれば僕は本当にいいカモだったのだろう。
僕は今までずっと騙されていたのだとこの時初めて知って、でも、僕の中に彼女を責める気持ちは微塵も湧かなかった。
それどころか、彼女の気持ちが痛いほど分かってしまった。
海に産まれながら、自ら陸を歩いていく事を選んだ僕らとは違う。
海に産まれ海に生きる人魚でありながら、母なる海を自由に泳げない苦痛を僕は容易に想像できてしまった。
こんな暗い海の底で誰とも会わず、気の向くままに泳ぐこともできず、数百年をたったひとりで生き続ける孤独なんて僕は耐えられない。
それを耐え抜いた彼女が泡となって海に還りたいと望むのを、どうして僕に責められるだろう。
むしろどんな手を使っても最後の望みを叶えようと、貪欲に手を伸ばした彼女を褒め称えたい気分だった。
やはり彼女は僕が憧れ続けた魔女だった。
慈悲深く、そしてどこまでも己の欲望に忠実に、絶えず足掻き続けるアズールと同じように、僕が心から尊敬する気高き海の魔女だ。
「……僕はまだあなたから学びたいことがたくさんあります」
「おや、騙されてたってのに懲りない子だね。このままあの子達が記憶にたどり着いてくれれば坊やは元に戻れるし、アタシもこんな陰気な場所とはオサラバできてウィンウィンじゃないのさ。それなのにあの子達を裏切るってのかい?」
「裏切る?」
「坊やはあの子達がアンタを取り戻すために必死になっていたのをずっと見て来たじゃないか。それなのにこんな土壇場になって逃げようってのかい? あぁかわいそうに! 真実の愛が聞いて呆れるね。坊やにとって、自分の命を差し出してもいいと思うほどの愛はアンタの幼稚な憧れなんかと天秤にかけられる程度のものだったのかい? アタシが本当に坊やの言う『海の魔女』かどうかも分からないってのに全く嘆かわしいね」
大げさに抑揚を付けて饒舌に話す彼女は、まるで僕に早くふたりの元へおかえりと言っているようだった。
自分に同情することなどない。
自分は既に死にゆく運命なのだから、それがいつ消えようがお前が嘆くことはないのだと。
彼女がその望みのために僕を利用して騙していたのが本当でも、彼女は今、間違いなく僕のために[[rb:悪役> ヴィラン]]を演じようとしてくれている。
やはり彼女は、どこまでも深い慈悲の心を持った、偉大なる海の魔女だった。
僕にとって何よりも大切なのは間違いなくアズールとフロイドだ。
彼女の言うようにその思いを天秤にかけたすれば、それは間違いなく海の魔女への尊敬や憧れよりもアズールとフロイドへの愛に傾く。
突然の事故でふたりの命が危険に晒されたあの日のように、今日ある命が明日も間違いなく続く保証がどこにもない事はよく分かっていた。
海の魔女が救ってくれたふたりの命が、全く別の原因で今日突然失われる事もあるかもしれない。
でも僕はそれも全て承知の上で決意した。
アズールとフロイドが真実に辿り着く日はそう遠くない。ならばその日まで、僕は僕にできる事を全力でしようと。
ふたりが迎えに来てくれた時、後悔なくその場所へ戻れるように。
「もう少しだけあなたのお側に居させてください」
「……フン、勝手にしな」
突き放すように言いながら、心なしかうれしそうなその声に僕は思わず笑みをこぼしてしまう。
彼女もまた僕と過ごした時間に喜びを見出してくれていたのだろうか。
そうであったらいいのにと思いながら、僕は次にすべき事に思考を巡らせていた。
すでにトレイさんからピアスを受け取ったふたりが、指輪の手がかりに辿り着くのはきっとすぐだろう。
エマさんにはアズール達が自分から訪ねて来ない限りアクションを起こさないように伝えてあるので問題ないとして、その前に必ず接触するであろう人物、ハロルド・ブラウンを彼らから隠す必要がある。
彼が僕に協力してくれるかは五分五分だけれど、アズールとフロイドが迎えに来てくれるまでに、僕はまだどうしてもしておかなければならない事があるのだ。
ハロルド・ブラウン。ナイトレイブンカレッジを三年で退学した元オクタヴィネル寮長。
アズールがまだ寮長になる前に過去の歴代寮長を調べていた時、僕はその人物を知った。
二年生で寮長になるくらい優秀でありなら、途中で退学してしまったというその男のことが気になって僕は方々のツテを使って詳しく調べたのだ。
学力も優秀で魔力にも優れていた彼は確かに素行がいいとは言えなかったけれど、退学の理由は素行不良などではない。
その本当の理由は、彼を調べる上で浮かび上がったもうひとりの人物にある。寮長時代の彼の相棒、オクタヴィネルの副寮長は、人魚だった。
破天荒で豪胆な寮長の相棒として、冷静かつ狡猾に寮長を補佐するふたりは完璧なコンビだった。
何かと悪知恵が働き大掛かりな悪戯を仕掛けることが大好きだったふたりは、しょっちゅうシャレにならない騒ぎを起こしては教師陣を悩ませていたが、しかしそのどれもこれもが上手くルールを掻い潜って違法スレスレに行われるものだから、教師陣は頭を抱えたけれど生徒たちから絶大な人気を誇っていたらしい。
それでも一部の生徒からやっかみを受けたりイタズラの被害者から恨みつらみを向けられるのはいつもの事で、そんなある日、事件は起きた。
その日も、彼と人魚の副寮長は翌日のために大掛かりなイタズラの準備をしていた。そして準備万端整えじゃあまた明日と別れた後で、副寮長だけが他寮生に呼び出しに応じて寮を出た。
彼は冷静沈着ながら人魚らしく交戦的な面もあり、荒事となればむしろ寮長よりも嬉々として積極的に出向くような男だった為、その日も相棒には何も告げず、ひとりで呼び出されたプールへ向かった。
彼を呼び出したのは、オクタヴィネルに恨みを持つ複数の生徒達で、明日彼らが何かをするらしいと知ったその生徒達はそれを邪魔してやろうと企んだのだ。
オクタヴィネルの悪徳コンビはふたりでひとつ。
寮長がいくら悪知恵の働く優秀な男でも二人揃っていなければイタズラは成功しない。
ならば副寮長を捕まえてしまえば奴らの計画は失敗に終わり、間抜け面をするハリーを拝めるだろうと、その程度の気持ちだった。
数で勝る男達は計画通りに副寮長を拘束し、変身薬を強制的に解除して人魚の姿に戻すと、マジカルペンを奪ってプールに突き落とした。
そしてプールから出られないように水面を硬い物質に変化させる魔法をかけ、その場に放置してそれぞれの寮へ帰って行った。
妖精達に様々な種があるように、僕たち人魚にも多くの種がある。
そしてその生態や特性も多種多様で、全ての人魚が僕らやアズールと同じようにどんな水でも生きられるわけではない。
そして彼の相棒である人魚は淡水では生きられない種族だった。
翌日、約束の時間になっても現れない副寮長を探して彼が見つけたのは、変わり果てた相棒の姿だった。
水中でもがき苦しんで死んだ人魚の相棒を見た時彼が何を思ったのか、それは誰にも分からない。
犯人達はその生態を知らなかったとは言え当然全員が処分されたが、「未来ある若者の将来を考慮して」刑事事件にはならず退学処分だけで済まされ事件は有耶無耶に処理された。
そして彼もまた、その事件をきっかけに学園を去ったのだ。
あの船で彼を見つけ、協力を仰ぐ為に僕らが人魚である事を伝えたのはそれが理由だ。
相棒を救えなかった事を悔いて自ら学園を去った彼なら、人魚の頼みを跳ね除けられるはずがないと思ったから。
彼にとってはむごい事だったと思うけれど、あの時はなりふり構ってはいられなかった。
そして僕はあの日以来初めて彼に会いに行った。
面倒ごとに巻き込んだ事を非難される覚悟で行ったのに、彼の態度は実にあっさりとしたものだった。
僕の顔を見るとなんの抑揚もなく「生きてたのか良かったな」と、「良かった」などと微塵も思ってもいなそうな顔でそう言って、「なんか用か?」とまるで興味なさそうに言ったので僕はなんだか面白くなってしまった。
彼はあの日の事を特に何も聞かなかったし、僕たち三人の関係にも全く関心がないらしかった。
助けてやったんだから対価を寄越せと言うこともなく、ここまで欲がないのでは逆に扱いにくいかもしれないと思ったのに、彼は僕の提案に驚くほど簡単に乗ってくれた。
可能な限りアズールとフロイドから逃げて欲しい、情報や逃走ルートは僕が用意するし、その間にかかる費用も全て僕が負担するからと言うと、なんと二つ返事で「いいぜ!」と返ってきたのだ。
なんだか懐かしい学友を思い出すような清々しい返事だったけれど、理由はどうでもいいが他人の金で遊べるならそんなに楽しいことはないと、アズールなら卒倒しそうな事を言うので僕は益々愉快になってしまった。
それからと言うもの僕はアズールとフロイドの動向に注視しながらハリーさんと頻繁に連絡を取り、徹底的にアズール達から彼を遠ざけた。
別にそんな事をしなくとも口止めをすればいいだけの話かもしれないけれど、それはしたくなかった。
僕にはまだ海の魔女の側ですべき事があるけれど、彼らの元へ帰りたいという気持ちがなくなったわけではない。
むしろ今だって一日も早く彼らの元に戻りたい。だからどんなに妨害をしてもふたりがそれをくぐり抜け、たどり着いてくれたなら僕はそれを喜んで受け入れるつもりだった。
でもできる事なら、あと少しだけ時間が欲しかった。
アズールとフロイドを遠ざける工作をしながら、僕は僕の目的の為に必死になっていた。
海の魔女と過ごせる時間はもう残り少ない。
彼女が完全に消えてしまう前に、僕はどうしてもやり遂げなければならなかったのだ。
そんな日々を続けている内に、僕は彼女の変化に気付く。
彼女と意思疎通の取れない時間が増えたのだ。
彼女はこれまで何年も眠っては少しだけ起きる事を繰り返して何百年も過ごしてきたようだけれど、細切れに眠る時間が増えた。
以前はほとんど覚醒状態で、機嫌が悪くない限りいつでも僕の言葉に応えてくれたのに、最近では僕の声が聴こえていないように沈黙する時間が長くなったのだ。
もしかして、彼女の終わりが近付いているのかもしれない。おそらく彼女は完全なる眠りにつく準備段階に入っているのだろう。
きっともういくらも時間はない。
そう確信してから、僕は極力彼女のそばを離れなくなった。
アズール達の動向を追うのを止め、ハリーさんへの連絡も絶って彼女に寄り添い続けた。そして彼女が覚醒している時間は必ずそばに居られるようにつとめ、僕は僕のやるべき事を貫き通した。
そして、遂にその時が来た。
胸の中の空っぽだった部分が急激に満たされていくようだった。
そしてそれと同時に、彼女の全身から激しく泡が噴き上げる。
「あぁ……、待って……!」
そう言ってすがるように張り付く僕を彼女は
「往生際が悪いね」と鼻で笑う。
「いい加減あきらめな」とそう言いながら、それでもやっぱり、その言葉は慈愛に満ちていた。
彼女から噴き出す泡が優しく僕を包み込み、僕の背を撫でるように海面へ上っていく。
ここは冷たい海の底であるのに、僕を撫でるその泡はとても温かく、じわりと沁み込むような魔力が僕を癒してくれた。
「ねぇ坊や、もしもアタシがアンタの言う海の魔女だとしたら、坊やはアタシの名前を知ってるかい?」
「あなたの名前……」
忘れるはずもない。
物心ついた頃から繰り返し繰り返し読んだ海の魔女の物語。
その偉大なる魔法の数々に、彼女の慈悲に救われた多くの人魚たち。
そしてその傍に常に寄り添っていたウツボ達が呼んだ、彼女の名前。
「アタシは忘れちまったんだ。もうずっと長い間誰も呼んでくれなかったからさ。アタシの最後のお願いだ。坊や、アタシの名前を呼んでくれるかい?」
「あなたの名前は……」
その望み通り、自身にかけた呪いで泡となり海へ還っていく海の魔女。
その最後の願いを聞いてしまったら、彼女はきっとなんの未練もなく消えてしまうだろう。
後悔も遺恨も残さず、その欲望を叶えるために彼女が足掻き手を伸ばすことはもう二度とない。
アズールとフロイドが取り戻した真実の愛の力で泡となっていく彼女を、最後に送り出すのは僕の仕事だ。
海へ還っていく彼女への[[rb:餞> はなむけ]]に、僕はその名を呼んだ。
「あなたは慈悲深き海の魔女、アースラ」
「アースラ……」
その瞬間、弾けるように泡が噴き上がり大量の魔力が放出された。
「それがアタシの名前」
海が、歓喜に満ちているようだった。
彼女から溢れ出した魔力は海に溶け、その全てが生命の源となって海に生きる全てのものに活力を与えていく。
「ありがとうアタシの可愛いウツボ、これで本当にお別れだ」
「あぁ……、本当に行ってしまわれるのですね」
「坊やももうお行き。ほら、お迎えが来たよ」
僕が彼女の声を聞いたのはそれが最後だった。
その全身から激しく泡を噴き上げ続け、そして完全に沈黙した彼女の代わりのように、懐かしいふたりの声が僕を呼ぶ。
「ジェイド!!」
長い長いジェイドの話が終わった時、その背後にあったはずの巨大な岩礁はすでにジェイドよりも小さな岩になっていた。
はじめ辛うじて確認できた蛸足の吸盤はとっくに見る影もなく、あと数分もすれば、その岩は完全に消えてなくなるだろう。
それを切なげに見下ろし、慈しみを込めて撫でるジェイドにアズールとフロイドは何も言えなかった。
ここに辿り着くまでの真相を聞かされ、ジェイドの苦悩も意味不明だった行動の裏も全て分かった上で、それをすぐには処理しきれない。
目の前で消えゆく岩が海の魔女だというのもまだいまいち信じ切れてはいないけれど、ジェイドの様子を見る限りとても虚言には思えない。
しかしそれが本当なら、アズール自身も憧れ続けた偉大な魔女と出会えるチャンスが今目の前で永遠に失われているわけで、それは死ぬほど悔しいけれどジェイドは取り戻せたし、とにかくアズールは自分の感情をどこに置いていいか分からず混乱を極めていた。
せっかく迎えに来たと言うのにジェイドは悲しそうだし、悲しそうなジェイドを前に喜んで騒ぎ立てる事もできず感情のやりどころがない。
「くそ……っ、なにがなんだか……」
「まじでなんなの……意味わかんねぇんだけど」
混乱しているのはフロイドも同じで、フロイドは目の前の光景をただ呆然と見つめていた。
探し求めていた片割れをやっと見つけて連れ戻せると思ったのに、肝心の片割れは迎えに来た自分達よりもぶくぶくする岩を愛おしげに見つめているのだ。
そりゃジェイドは小さい頃からずっと海の魔女に憧れて尊敬していたし、その魔女と実際に会う事ができたうえ、目の前で死んじゃうのが悲しいのは分かるけどオレたちは? という具合である。
もちろん今の自分達が生きているのはジェイドが海の魔女と契約して命を救ってくれたからで、その間ジェイドだけが自分達と離れてさみしい思いをして苦しんでいたのも分かる。
それが分かるから感情に任せて暴れることもできないけれど、どうしても、行きどころのない思いが胸に燻ってしまう。
そうして三者三様に泡を噴き上げ続ける岩をじっと眺め、それが完全に跡形もなく消え去ると、ジェイドはようやくアズールとフロイドの方を向いてにこりと微笑んだ。
「さぁ、帰りましょう」
もう全くなんの未練もないように微笑むジェイドに、アズールとフロイドはとてつもなく複雑な心境だった。
帰りましょうってそれだけ? 別に迎えに来たことに感謝しろとか労えとかは言わないけれど、本当にそれだけ??? と口には出さずにモヤモヤしてしまうのはアズールもフロイドも同じだ。
「あー……、さすがに三人一緒に転移すんのはキツイからとりあえず近くの陸まで泳ぐよ」
「分かりました。ふふ、三人で泳ぐのは久しぶりですね。アズール、僕の背につかまりますか?」
「いえ……、ちょっと疲れたのでゆっくり帰りましょう」
「おや、それでしたら尚更速く泳いで帰った方が良いのでは? 気が変わったらいつでも仰って下さいね」
「はぁどうも……」
あれ……? 確か一年ぶりに会った気がするんだけどこいつ普通過ぎないか?
ねぇ久々の再会ってこんな感じでいいんだっけ? とアズールとフロイドは無言でアイコンタクトをかわし、その後も三人は延々と無言で泳ぎ続けた。
悶々とするアズールとフロイドとは違ってジェイドだけは上機嫌で、純粋に三人で泳ぐ事を楽しんでいる様子にふたりのもやもやは更に溜まっていく。
やっぱりどう考えてもおかしい。
そりゃジェイドだってずっと辛い思いをしてきたとは思うけれど、自分達だってジェイドを取り戻すためにずっと必死だったのだ。
魔法のせいとは言え愛する心を失ってしまったことを深く悔い、一分一秒でも早くジェイドを迎えに行かなければとそれだけを目標に頑張ってきた。
進展のない日々に打ちのめされ、時にはケンカをして険悪になったりしながらも、最後には必ず三人に戻れる日を信じてめちゃくちゃ努力してきた。それはもう寝る間も惜しんで死ぬほど頑張ったのだ。
それなのにあとちょっとのところでジェイドが邪魔してくるし、かと思えば突然ぱったりと気配が見えなくなるし、それはもう本当に心配したのだ。
ジェイドはもう自分達の所に戻りたくないのだろうかとか、ジェイドに何かあったんじゃないかとか。
でもそんな全てもジェイドに会えば全て解決すると思ってここまで来たのだ。
今日で全てが終わってまた始まる。
ついに取り戻したジェイドと三人、新しい幸福な日々が待っていると信じて。
それなのになんだこいつは。
勝手にひとりでいなくなってあっさり帰ってきて。
やっぱりこれ怒ってもいいのでは?と一度思ってしまえば、アズールとフロイドの胸にふつふつと湧き上がるのは明確な怒りだった。
そしてふたりは思い出す。
そうだ。ジェイドが帰ってきたら、とりあえず一度ぶちのめしてやるつもりだったのだ。
陸に上がるとすぐにアズールが用意していた変身薬を飲み、アズールが魔法で体を乾かし三人分の衣服を整えるとジェイドがニコニコと笑う。
「ありがとうございますアズール」
上機嫌なジェイドの言葉は流し、靴までしっかりと履いて砂浜を踏み締めると、アズールはぴたりと止まってジェイドの方へ振り向いた。
「ジェイド、まずは僕たちの命を救ってくれて本当にありがとうございました。今僕とフロイドが生きているのはお前のおかげです」
それはなにがあろうと、アズールがジェイドに最初に伝えようと思っていた言葉だ。
どんな経緯でジェイドがそれを選択し、これまでにどんな辛いことがあったとしても、ジェイドの選択がなければ今自分達はここにいない。
「……いえ、あなた達を危険に晒したのは僕のせいですから」
「は? お前があの噴火を起こしたとでも言うんですか」
「そうではありませんが、僕がそばを離れなければあなた達があそこまで窮地に陥ることもありませんでした」
「ふぅん……。じゃあジェイドはあの子のママを助けた後悔してんだ?」
「それは……」
後悔は、ひとつもしていない。
今に至るまでジェイドは自分の選択を一度も後悔したことはなかった。
自分の心に従って海に飛び込んだことも、ふたりの命を繋ぎ止めるために愛を差し出したことも。
そしてその結果産まれた新たな命に感動を覚え、自分は間違っていなかったと強く確信した。
あの子がこの世界に産まれただけでも、自分がしたことに意味があったと思えたのだ。
「ねぇジェイド。僕たちも小さなジェイドに会ったんですよ」
「え……」
「そりゃジェイドが船に残ってればオレらは死にかけなかったかもしんねぇけど、そしたらあの子は間違いなく産まれなかったよ。ジェイドはその方が良かった?」
「……でも、あなた達にとっては関係のないことでしょう。人間のこどもひとり、死のうが生きようが……」
ジェイドにとっては大切な少女の家族でも、アズールとフロイドにとっては見ず知らずの人間に過ぎない。
いくら人間の社会に馴れ親しんだとは言え、そんな赤の他人を自分達よりも優先させたとなればアズールとフロイドは当然怒るだろうとジェイドは思っていた。
「ひっでぇの。オレらのことなんだと思ってんの」
「本当ですよ。言っておきますけど僕らはお前よりよほど情に溢れてますからね。あの子、翠の瞳がとてもきれいな可愛い子でしたね。聡明な顔立ちをしていました」
「あはは! あんなちっせぇのにもう贔屓目で見てんのウケる」
なぜか誇らし気なアズールをフロイドがアハハと笑って、しかしジェイドは、そんな光景が信じられず目を疑った。
「……怒っていないんですか、僕があなた達より人間を優先した事を」
「怒る以前に、お前が人間を助けるために海に飛び込んだと聞いた時は耳を疑いましたね」
「ね。オレらにしてみればその方が意外だったけど。でもオレらは別にそれを悪いなんて思ってねぇよ」
「なぜです……?」
「え、だってジェイドがそうしたかったんでしょ? ならそれでいいじゃん」
「えぇ、ですからお前が僕らより人命救助を優先したことには全く怒ってませんよ」
むしろ助けた面々があまりに富豪揃いだったので、今となってはよくやったと褒めてやりたい所だがそれは一旦置いておくとして、アズールはどうしてもジェイドに腹を立てている事があった。
「でも僕、ずっとお前に言ってやりたかった事があるんです」
アズールは呆然と立ち呆けるジェイドをじとりと睨みつけ、次の瞬間、ノーモーションで渾身の一撃をジェイドの右頬に打ち込んだ。
一切身構えることなくアズールの全力のパンチを食らったジェイドはそのまま後ろに跳ね飛び、格好付ける暇もなく無様に砂浜に尻もちをついた。
一瞬なにが起きたか分からず、尻もちをついたまま目を白黒させるジェイドに爆笑するフロイドをそのままにして、アズールはジェイドの上に乗り上げて襟首を掴み上げるとそのまま左頬にもう一発ぶち込んだ。
今度は来ると分かっていたのに避けることもできず、ジェイドは目を見開いて目の前のアズールをぱちくりと見つめる。
「お前はあの時、本当に死ぬ気で考えたのか?」
ジェイドはアズールから目を離す事ができなかった。
アズールのスカイブルーの瞳が、今燃えるような熱を持って自分を睨みつけている。
「僕たちが死ぬもしれない状況で、考えるうる限りの最善を探ったか?」
ジェイドはアズールの言う「あの時」を思い返す。
海の魔女にアズールとフロイドはもう長く保たないと言われた時、ジェイドは自分にできる限りの最善を探ろうとした。
探ろうとはしたけれど、着々と過ぎていく時間の中で、いつもの冷静な思考はうまく働いてくれなかった。
「時間がなかったのだとしても、契約を結ぶなら可能な限り自分の不利益にならないように交渉するのは当然だろう。この僕とずっと一緒に働いていながらお前は一体何を学んできたんだ」
「……申し訳ありません、あの時はただ、あなた達の命を繋ぎ止めることしか考えられなくて……」
「はっ、まさかこの僕の右腕であるお前が冷静さを欠いて判断を誤ったとでも言うのか? 違うだろ、お前は単に諦めたんだ。僕たちを救えるなら自分のことはどうでもいいって、簡単に」
アズールはそれが一番悔しかった。
ジェイドは人一倍我が強くて、頑固で、変なものに夢中になって、自分勝手なくせに、そんな時ばかり、無欲なのだ。
「このバカ……ッ! 勝手に諦めるな! そんな風に自分を切り捨てたりするなよ!!」
アズールはもう泣きながらジェイドを殴りつけていた。
「僕なら絶対諦めたりしなかった! 自分だけ貧乏くじなんて引いてたまるか! 僕ならなにがあってもお前たちを二人とも連れて帰ったのに!!」
アズールなら間違いなくそうした。
自分だけを犠牲にする道なんて選ばない。
ジェイドかフロイド、どちらかひとりだって選ばない。
だってもう決めたのだ。
一生三人で生きていくと。
それなのに、ジェイドはそうしなかった。
「……違うか。お前は諦めたんじゃない。最初から考えもしなかったんだ」
アズールはようやく殴る手を止めてジェイドを見下ろした。
「僕たちにとっての最善は三人でいる事じゃないのか。それなのにお前は、はじめから僕たちだけ救う事を考えてた」
「……すみませんアズール、僕は、」
アズールの言う通り、あの状況でジェイドは三人で一緒に帰る道を考えもしなかった。
海の魔女と契約してふたりを救う道を考えた時、差し出せる対価は自分しかなかったから。
ただアズールとフロイドに生きていてほしくて、それが叶うなら、何を捨ててもいいと思った。
ふたりの命が助かるなら自分の幸せなどどうでもよかった。
アズールならきっと別の方法で交渉しただろうに、アズールのように貪欲に、三人でいる事を望まなかったのは自分だ。
それが結果として、アズールとフロイドを傷付ける事になるとも知らずに。
「アズール、フロイド……、本当にすみません、僕は……」
何も分かっていなかった。
自分がアズールとフロイドを思うように、ふたりもまた、同じくらい自分のことを思ってくれている事を。
「過ぎた事を謝らなくていいです」
アズールはズッと鼻を啜り上げ、真っ赤な目でジェイドを睨みつける。
「ただ二度はないですよジェイド。同じことをしたらもう許さないからな」
「……はいアズール。承知致しました」
アズールの渾身の力でこれでもかと殴られたジェイドの顔はひどい有様で、ようやく興奮が覚めて冷静に見つめ合った瞬間アズールは吹き出してしまった。
「ぶは……っ! ジェイドっ、お前なんて顔してるんですか、男前が台無しですよ」
「はぁ……、申し訳ありません」
「あーあ、ジェイドだっせ。てかアズール自分でやっといてひどくね」
そう言いながらフロイドがひょいと抱えたアズールをジェイドの上から下ろすと、尻もちをついたままだったジェイドの腕を引いて立ち上がらせ、腰に腕を回して支えながらその顔を覗き込む。
「本当はオレもボコボコにしてやろうと思ってたのに、アズールにここまでされたらオレ殴れねぇじゃん」
「いいんですよフロイド。甘んじて受けましょう」
「えー……その顔見たら萎えたらからもういい。その代わりオレは甘やかす役ね」
そう言いながらフロイドは、アズールに殴られて腫れたジェイドの顔を優しく撫で、慈しむようにキスを送ってその体をぴたりと抱き寄せた。
「おかえりジェイド」
ジェイドが帰ってきたら一番に言いたかった。
おかえりジェイド。
オレ達の場所におかえり。
ぴたりとくっついたフロイドにもっとぎゅっとしがみつき、ジェイドはその肩にぐりぐりと額を擦り付けて片割れの匂いをいっぱいに吸い込む。
「……ただいまフロイド」
「こんなに離れてたの生まれてはじめてじゃん。会いたかったぁ」
「僕もです。フロイドに会えなくてさみしかったです」
「オレもぉ。うちに帰ったら美味しいものいっぱい作ってあげんね」
「ふふ、ありがとうございますフロイド。とっても楽しみです」
「……おいコラお前達、僕をのけ者にしてふたりでイチャイチャするんじゃない」
「えぇ〜? アズールにボコられたジェイドをオレが慰めてあげてたんじゃん」
「そうですとても痛かったですしくしく」
「かわいそ〜! ヨシヨシもう大丈夫だからねぇ」
「はぁ……、ほら、治してやるからこっちを向きなさいジェイド」
「自分でやって自分で治すのウケる」
「そういう性癖をお持ちなのかもしれません」
「げぇ……マニアック過ぎじゃん」
「もう一発殴られたいのか?」
三人でギャーギャーと騒ぎながらなんとか魔法で治療をして、すっかりと元に戻ったジェイドを見上げてアズールは満足気に笑う。
「よし、コレで元通りですね」
「ありがとうございますアズール」
「あぁそうだ、先にコレを返しておきますね」
「あ、じゃあオレも」
フロイドはポケットを探って小さな箱を取り出し、「じゃーん!」とそれを開いて見せる。
そしてそこにしまわれていたチョウザメのピアスを取り出すと、「付けてあげんね」とジェイドの左耳に手を伸ばす。
そして一年ぶりにそこに感じる重さを、ひしひしと実感しながらジェイドはふふふと笑った。
もう十年以上もずっとそこで揺れ続けたフロイドとおそろいのピアスが、今やっと自分の元に帰ってきた。
それはまるで、失くしていたフロイドとの時間を全て取り戻せたかのように満たされた心地だった。
「ありがとうございますフロイド、久しぶりでなんだかくすぐったいです」
「あはっ、すぐ慣れるよ。これでやっとジェイドって感じ」
「ふふ、またフロイドとお揃いになれて嬉しいです」
「オレも! はい、じゃあ次はアズールの番」
「分かってますよ。ジェイド、手を出しなさい」
「はい……。なんだか結婚式みたいで緊張します」
「嘘をつくんじゃない。お前は結婚式本番だって全く緊張なんかしてなかったじゃないか」
アズールがぼやくようにそう言うと、指輪待ちの左手を出したままジェイドがにやにやと笑う。
「……なんですかニヤニヤして気持ち悪い」
「いえ、本当に思い出して下さったんだなと思いまして」
そう言われて、アズールは指輪をはめようとしていた手をふと止めた。
そうだ、今日この指輪を取り戻すまで、アズールとフロイドはジェイドと三人で結婚式を挙げた事すら忘れてしまっていた。
しかしその日の記憶も今はもう、ちゃんと三人の思い出の中に刻まれている。
「主役は食事をする間もないのが普通だと聞いてましたけど、パーティの時お前ゲストより食べてましたよね」
「ふふ、燃費が悪いもので」
「知ってます。それからこの指輪を渡した日のこともちゃんと覚えてますよ」
「う……っ、それは忘れて下さっても構わないのですが」
「僕が忘れるわけないでしょう! あんな風に泣きじゃくるお前を見たのは初めてでしたからね。……これからはもう二度と忘れません」
「オレも。もうぜ〜ったい忘れない」
「……はい。僕も忘れません」
「約束ですよお前達。僕たちはこれからも、ずっと三人一緒です」
そう言って今度こそアズールがジェイドに指輪をはめようとすると、次はフロイドが「あっ」と声を上げた。
「アズールちょっと待って!」
「なんです?」
「指輪、裏見てうら!」
「あ、そう言えば……」
アズールはジェイドの結婚指輪を目線の高さまで持ち上げ、すっかり暗くなった浜辺に魔法で明かりを灯し、その裏側に刻まれた文字を確かめる。
ふたりが記憶を失っていた時、ひとつだけ消えてしまっていたイニシャル。しかし今は確かに、そこにJの文字が並んでいた。
「戻ってる……」
「あっ、ほんとだ! オレのも戻ってる〜!」
「……本当に戻ってきたんですねジェイド」
「え? はい、ずっとここにおりますが……」
「ふふっ、さぁ手を出しなさい」
「おややっと返してくださるんですね」
ジェイドがもう一度粛々と左手を差し出すと、アズールがその手を取ってジェイドの薬指に指輪差し込む。
そうしてぴたりとはまったそれを見て、アズールはやっと笑顔をいっぱいにしてジェイドを見上げた。
「おかえりなさいジェイド」
「はい、ただいま帰りましたアズール」
ジェイドをぎゅっと抱きしめたアズールをジェイドが抱き返し、そんなふたりをまとめてフロイドが包み込むように抱きしめる。
そうして三人一緒にぎゅうぎゅうになって、ジェイドはやっとアズールとフロイドの元へ帰ってきた。
もう二度と離さないし離れない。
アズールが教えてくれたように、三人の最大の幸福は三人が共にあること。
この先何があろうと三人であることを絶対に諦めないと、ジェイドは魔女が溶けていった海に誓った。
「さぁジェイド、フロイド、僕たちの家に帰りますよ」
エピローグ
「ところでジェイド。僕たちが迎えにいく前にお前がやらなきゃいけないことってなんだったんです?」
「あ、そういやソレ聞いてなかったね。わざとオレら遠ざけてまで何してたの?」
「ふふふ、知りたいですか?」
「うるせぇさっさと言え」
「まぁそう焦らないで。せっかくあの憧れの海の魔女と出会えたのに、あなた達が迎えにくるまでの間、僕がただ指を咥えて待っていたと思いますか?」
「……まさか、この僕の右腕たるお前がなんの土産話もないなんてことはないでしょうね」
「はいもちろん。彼女は言い伝えと同じように人魚達のお悩み相談を受けていたのですが、僕はそこで彼女の助手として働いていたんです」
「……なるほどそれで?」
「あなたもよくご存知の通り、人魚達の悩みは本当に尽きる事がない。けれど彼女はその豊富な知識と経験でどんな悩みも解決してしまう。ですが、あなた方も見た通り彼女は自ら動くことの出来ない大きな岩でした」
「だから何? ね〜……もったいぶらないで早く言えって」
「今日はずいぶんせっかちですねフロイド。彼女自身が動けないということは、代行する者が必要だということです」
「それはつまり、人魚達の悩みを解決する魔法を使っていたのはお前だと……?」
「ふふ、その通りですアズール。僕は彼女の膨大な知識を授かり直接に技術指導を受けて魔法を学んだのはもちろん、魔法薬素材の収集から調合まで全てこなしていたんです」
「ということは……」
「はい。現代には伝えられていない彼女独自の呪文や秘薬のレシピを、僕は受け継ぎました」
「え……」
「それはもうあなたが喉から手が出るほど欲しがるようなものばかりですよ。僕がずっと作ってみたかった薬もアズールはご存知でしょう?」
「ま……っ、まさかそれって……」
「えぇ。『喉の病気と無縁になる秘薬』です」
「お前……! そのレシピを入手したんですか!?」
「とても難しい調合なので本当にギリギリでしたが、最後の最後に間に合いました。あなたに会社まで手放させてしまったとあらば、なんの手土産もなしに帰ることはできませんので」
「え〜、それ単にジェイドが作ってみたかっただけじゃねぇの? その為にオレらの邪魔するとかひどぉ」
「何を言ってるんですかフロイド! どんな魔導書にも載っていない海の魔女の魔法や秘薬のレシピが手に入るなんて……、これは世紀の大発見ですよ!? 金になりすぎる……!! よくやりましたジェイド!! もちろん全て書き留めてあるんでしょうね!?」
「ふふ、もちろんです。それを人間向けに改良して大量生産すれば製薬会社として成功することも可能でしょうね」
「なんだって……、それは現実的に可能そうなんですか……?」
「えぇ、僕の見立てでは十分可能です。いかがですかアズール。対価次第では、僕が受け継いだ全てのレシピをあなたにお譲りしますよ」
アズールは一瞬でビジネスマンの顔になってサッと表情を引き締めた。
「なるほど。それで、お前の望む対価は?」
そしてジェイドが片割れに目配せをすれば、だらりとソファに寝そべっていたフロイドは一瞬で全てを察したように座り直し、ジェイドとふたりでアズールを挟むようにしてその両手をひとつずつ取った。
「それでは、あなたの残りの人生のすべてを僕とフロイドに」
ジェイドが恭しくアズールの指先に口付けると、フロイドも同じようにアズールの手に唇を寄せる。
いつかはアズールに先を越されてしまったプロポーズを、二度目はふたりから。
「もう一度、僕たちと結婚してくださいアズール」
アズールが三十歳を迎えたあの日、自分からのプロポーズにあられもなく号泣したジェイドをもう笑えないなと思いながら、アズールは必死に涙を堪えてふたりの手を握り返した。
「式場の手配は頼みましたよジェイド」
答えなんて分かりきっていただろうに、パッと表情を明るくしたウツボ達にアズールは泣きながら笑ってしまう。
このウツボ達はきっとこれからもずっと、こうやって僕の言葉に一喜一憂してくるくると変わる表情を見せてくれるのだろう。
そして僕はいちいちそれを愛してしまうのだ。
そうやって長い長い生涯を、僕はふたりと共に生きていく。
アズールは今こうして三人で一緒に過ごせることの幸福を噛み締めながら、ここに至るまで本当に多くの人に支えられてきたことをしみじみと思い返す。
そしてアズールはとても大切なことを思い出した。
「それからジェイド」
「はい、なんでしょうアズール」
アズールとフロイドがこんなにも早く記憶に辿り着けたのは、かの王の祝福があったからに他ならない。
それを忘れて約束を反故にするような事があれば、今度は三人まとめて雷に打たれても仕方ないなとアズールはくすりと笑う。
「最初の招待状は、必ず茨の谷のマレウスさんに」
Fin