意識朦朧な鶴さんがほぼ無意識に清光を襲っちゃう話「すまん! 責任は取るから! 俺のとこに嫁に来てくれ!」
鶴丸は加州に向かって額を床にこすりつけた。
「もういいから、そんなことより早く忘れて……って、ろくに憶えてないんだっけ。じゃあとっとと水に流そうよ」
「それは、その」
歯切れの悪い鶴丸に加州は溜息をつき、
「あのねぇ、その方がお互いのためだと思うけど?」
てか嫁とか意味わかんないし、と冷静に言い放った。
とある日の夜。
鶴丸は白い装束を血で赤く染め、雪崩込むようにして帰還した。そろそろ寝ようかと支度していたところで偶然玄関の近くを通りかかった加州は、よろよろと歩く鶴丸を見つけ息を呑んだ。
「鶴丸さん!? なんで……遠征だったはずじゃ……」
今朝、遠征を命じられ、鶴丸は単騎で出陣した。時間遡行軍との戦は関係ない地であったはずだ。それが何故、こんなことになったのだろう。
「わ、っと」
なんとか框まで辿り着いたところでぐらりと傾いだ鶴丸の体を抱き留める。細身とはいえぐったりとした青年の体を動かすのは加州一振りでは難しく、立っているのも大変で鶴丸を支えながら慎重に腰を下ろした。増援を頼もうと後ろを振り返ったが、誰もいない。
背を框戸につけた加州は、覆い被さるような体勢でいる鶴丸の肩を叩き、声を掛けた。
「鶴丸さん、わかる? すぐ手入れ部屋に連れてくから、もうちょっとだけ頑張って」
か細い呼吸音を耳元で聞きながら、加州が大声を出そうと息を吸い込んだ、——その時。
鶴丸が何かをボソリと呟いて、顔を上げた。ようやく表情が見られ少しだけホッとする。
しかし朦朧としていると思われた金色の瞳が獣のように輝いているのに気付いて、加州の背筋はぞくりと冷えた。
これは、戦場の目だ。
「……鶴丸さん、本丸に帰ってきたんだよ。もう大丈夫だから、」
その殺気を収めろと言い終わる前に、鶴丸は框戸に突いた左肘を支えにして、ゆらりと体を起こした。普通より丈夫な造りとはいえさすがに戸が軋む。
「ねえちょっと、この戸すぐ外れちゃうからあんまり体重かけると——」
しかし鶴丸は全く構わずに、戸に体重を預けたまま右手のひらで加州の頬を包んだ。
「ちょ、鶴丸さん?」
鶴丸の血糊が加州の頬に移る。その手はするりと加州の輪郭を撫で、顎に添えたと思うと半ば強引に上向かせた。普段襟巻きに隠されがちな喉仏がさらけ出される。
「え」
儚ささえ感じられる美しい顔が、瞳の奥に爛々と炎を宿して近付いてくる。その唇が開くのを至近距離で見て、肉食獣に補食される草食動物を思い出し、どちらかというと鶴丸さんの方が草食っぽいのにと場違いなことを考えた。
「待っ——」
もう逃げられない。
喉笛へ噛みつかれる痛みを覚悟した加州だったが、
「んむ!?」
与えられたのは肉の柔らかさと熱。
(えっ、え、え!?)
接触したのは牙と首筋ではなく、唇と唇だった。加州は咄嗟に肩を押し返そうとしたが、傷口が開いたのか装束に新たな血が染みて、思わず力を緩めてしまった。
逃げようとしても退路は絶たれている。
「んん……っ」
戦闘で気分が高揚して起こる衝動が、破壊ではなく肉欲に向くことがあるのか。いや、これはむしろ支配欲の一種なのかも、とどこかの刀剣博士のように思いを馳せて現実逃避しかけたところで、鶴丸が唇を離した。
「——ッは、」
やっと会話ができると安堵したのも束の間。つるまるさん、と名を呼び終わるよりも早く、また食いつかれて加州は目を瞠った。
「んッ、~~~?!」
しかも今度は先程よりももっと深く貪るように。名を呼ぼうとして開いた唇から侵入した舌のぬるりとした感触に背中が粟立ち、粘着質な水音が思考を侵す。いつの間にか片耳が鶴丸の手によって塞がれていたせいで尚さら脳内に響いてしまう。
どう呼吸をすればいいのか分からないし唇が離れる合間合間では酸素補給が追いつかず、頭がボーッとしてきた。抵抗しきれない腕は申し訳程度に鶴丸の両肩に伸ばされ、血で染まった装束に皺を作った。
「ふっ、う……」
背筋に変な痺れが走る。体勢を立て直したくて膝を立てたが、ろくに力が入らずに情けなくずるりと滑っただけ。
大した拘束をされているわけでもないのに、逃げられない。びっくりするほど細くて見た目はどこをとっても儚げで、本体の刀身だって決して屈強な印象はないし、力の面では正直なめていた。ちゃんと太刀なのだ。鶴丸国永は。
心配したのに元気そうじゃんと霞みがかる意識の中で悪態をついた矢先、頭を固定していた指先が首筋を辿る感覚がして加州はビクリと身体を震わせた。
——と、次の瞬間。
体を包んだのは浮遊感。
ガターーンと深夜には似つかわしくない大きな音を響かせ、とうとう框戸が外れて後ろに倒れた。
「いでっ」
色気のない声を上げて勢いよく体を打ち付けた加州は咳き込んだ。はあはあと荒い呼吸で胸がふいごのように動いている。ぼやけた涙の膜の向こうに呆然としている鶴丸が見える。
——呆然?
「………………加州?」
金色の瞳にようやくまともな光が灯った。
組み敷かれた華奢な身体。
簡素な夜着は蒲柳さを更に際立て、普段は赤い襟巻に隠れている首筋がさらけ出されているのがやけに危うげである。荒い呼吸の中ごくりと喉仏が上下した。
加州の透き通るような白い頬は耳まで紅潮し濡羽色の髪が汗で湿った肌に張り付いている。眉は顰められ、てらてらと艷めく唇が呼吸によって悩ましげに震える。
背けられていた顔がようやくこちらを向き、潤んだ紅い瞳が切なげに鶴丸を射抜いた。
「つるまるさん……」
吐息混じりの声が名を呼ぶ。
——これは、これでは、まるで、
「かしゅ、」
言いかけたところで。
「どうしたんだい、こんな時間に……って、鶴さん!? と加州くん!」
音に気付いて駆けてきた燭台切光忠が、框戸の上に重なるようにして倒れ込む二つの人影に大声を上げた。
下は夜着を着た加州清光。それに覆い被さるような体勢で放心している血塗れの鶴丸国永は、確か遠征だったはずだ。
「……光坊」
「やっと来てくれたぁ……」
加州はもはや半泣きである。
「燭台切、このひと手入れ部屋に連れてって……俺一人じゃむり……」
「え、ああ、分かったよ。——ええと、」
遠征に行ったはずの鶴丸が重傷帰還して、大怪我を負った状態で打刀の少年にのしかかっているとは、一体どういうことか。燭台切が戸惑うのも無理はない。
「あー、あの、事情は俺もよく知らないけどさ」
言葉を失ったままの二振りに、言いづらそうに加州が切り出す。
「……とりあえず離してくんない?」
鶴丸さん、と改めて名指しされようやく我に返った。よくよく見れば、仰向けに倒れた加州の手首を、自分の手が上から押さえつけている。
「すっ、すまん!」
慌てて離すと、加州は即座に手の甲で口元を拭って上体を起こした。
その様子を冷や汗混じりで見ていた鶴丸は「加州、その、俺はきみに何を」と恐る恐る尋ねたが、加州は「え、それ俺に言わせんの?」と切り捨てた。
手入れも忘れて気まずい空気が立ち込める中、遅れて山姥切国広がやって来た。異様な光景に真顔で驚き、それぞれの様子を見比べる。そして乱れた格好の加州の姿を見るなり、
「……あんた、まさか貞操を」
などと言い出したため、加州は被せるように「無事だから!!」と否定した。燭台切は額に手をやっている。
「俺のことはいいから、まずは主に」
立ち上がろうとした加州だったが「うわ!?」と声を上げて転がった。
「どうした」
「……たっ、」
加州は頬を赤らめたまま苦笑う。
「立てない………」
視線が無言で鶴丸に集まる。何故そこで俺を見るんだと言いたいところではあったが、こうも状況証拠が揃ってしまうと流石にそういうわけにもいかないだろう。第一、何もしてない自信がない。
「申し訳ない!! 俺はきみに無体を働いたんだな!?」
「改めて言わなくていいよ恥ずかしい!」
やっぱりそうかと鶴丸は項垂れた。「鶴さん……」と言う燭台切の呆れた声が刺さる。
「……その、いくら戦闘で気分が昂ったんだとしても、誰彼構わずああいうことするのはどうかと思うし……今日みたいな突然は無理だけど、今後そういう気が起きたら花街行った方が、あっちはプロだしいいんじゃないかな……」
「面目ない……」
「わかったら早く手入れされてきて」
「はい……」
燭台切の手を借りて立ち上がる。くらりと目眩がして、自分が重傷を負っていたことを思い出した。支えてもらいながら手入れ部屋へと向かう。
単騎遠征中に時間遡行軍に襲われ、数体の敵を一振りで相手して——本丸に帰ってきてからの記憶は、あるような、ないような。
……ない、か?
丸く見開かれた、ほとばしる血潮と重なる紅い瞳は、ぼやけた視界の中でも鮮やかだった気がする。
手のひらに感じた熱。強ばる身体。普段からは想像できない、ひくりと引きつった怯えるような表情と蕩けた眼差しに、——ああ、そうだ。ぞくぞくした。
「やらかした……」
自らに呆れ果て、嘆くように呟く。さすがの燭台切にもフォローはできなかった。
「大丈夫か」
腰が砕けた加州を案じ、山姥切国広がしゃがむ。
「ごめ……かっこわる……」
「顔に血がついてるぞ」
頬に手をやると乾いた血液がかさりと音を立てた。意外と元気そうではあったが大怪我を負っていたのは事実である。無事に帰ってこられてよかった。
「鶴丸国永にも困ったものだな。遠征先で襲撃に遭ったのは同情するが」
「……ん、ほんと、困る」
誰彼構わず? 本当に誰でもよかった?
獣の眼をした鶴丸が加州の耳元で呟いた言葉。その時は気にも留めなかったが確かに聞こえたのだ。
——加州、と。