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    shinri_doe

    @shinri_doe

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    shinri_doe

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    なないた新作書けてるとこまでタイトル未定。
    いつ恋愛すんのってくらいものすごくまごまごする。
    書いてる間孤独すぎて耐えられなくなってきたから誰か読んでそして頑張れと言って……

    未定(なないた) 感情をゴミ箱に捨てられたらいいのに、と虎杖は思う。
     顔を見るたびに、声を聞くたびに振り回されるのはもううんざりだ。
    (卒業、か)
     校庭の桜は卒業式の今日に合わせたかのように満開だ。桜吹雪の下には人だかりができ、みんなで写真を撮ったり抱きしめあって泣いたりしている。
    「悠仁くん!こっちおいでよ!」
     クラスメイトの吉野に手招きされる。おー、と曖昧に返事をしながらあたりを見回した。虎杖の探す社会科教師の姿はない。
     最後くらいきちんと挨拶したかった。これでもう、二度と会うこともなくなるのだから。



     工業系の専門学校を出て、大手運送会社に就職した。理由は単純で、車を運転するのが好きだったからだ。
     職場での朝のラジオ体操が好きだ。出勤は午前八時なのだが、虎杖は七時四十五分から始まるラジオ体操に欠かさず出席していた。営業所長がドライバーは腰を痛めやすいからと始めたラジオ体操の習慣に次第に人が集まるようになり、楽しくなった社員の一人がスタンプカードを作った。参加するとハンコがもらえる。最も、夏休みの児童向けのような気の利いたスタンプではなく「夜蛾」という所長の名前が刻まれた簡素なものだ。それでも、スタンプが溜まっていくのは楽しい。いっぱいになったら何かもらえるんですか、と聞いたら、夜蛾が手製の編みぐるみはどうかと提案してきたので丁重に断った。結果、スタンプを溜めた者が五人になったら飲みに連れて行ってもらえることになった。虎杖はあと三個だ。
     体調報告とアルコール検査を終えて仕分けされた荷物をトラックに積み込む。先輩の秤とともに配送ルートを確認する。ずっと秤と一緒に配送作業を行っていたが、今日からは独り立ちだ。
    「積み忘れなし。よし、行って来い!」
    「うっす!」
     八時半には営業所を出た。在宅率が高い午前中になるべく配達してしまいたいので、午前中はほぼ走って配達をする。隣で指示を出してくれる人がいないのは少しだけ心細かったが、流れは完璧に把握している。そのうちに先輩たちのように、どこに誰が住んでいるというのも覚えられるようになるだろう。一人でも意外とスムーズに作業が進んだ。午前中の配達は残り一件だ。
    「えーと、夏油さん。代引きですので、手数料合わせて五千二百五十円です」
     アパートの入り口で虎杖がそういうと、届け先の住人は慌てた。
    「申し訳ない、すっかり忘れていた。手持ちが足りないからすぐそこのコンビニでおろしてきてもいいかな?それか午後にもう一度来てもらうか……」
     男は起きたばかりなのか、眠たげに目を細めた。長い黒髪を耳にかける仕草が色っぽい。申し訳なさそうに謝られると不思議と許せてしまう。モテそうな人だな、と思いつつ虎杖は返事をする。
    「あ、いいっすよ。まだ時間あるんで、待ってます」
    「ごめんね。すぐ行ってくるから」
     石造りの階段をパタパタと靴音を鳴らしながら駆け降りていく住人を見送り、虎杖は段ボールを一旦地面に置いて大きく腰を反らした。隣の家の表札が目に入る。
    【七海】
     あの人と同じ名前だな、と虎杖はぼんやり考える。まさか本人が住んでいたりして……などと妄想していると、不意にその家の扉が開いた。
    「行ってきます」
     家の中に声をかける。低く、胸のあたりにズンと乗っかるような甘い声。虎杖は帽子をこれ以上ないくらい目深に被り顔を逸らした。荷物を抱えて、さも今来たかのように住人がいないとわかっている部屋のチャイムを鳴らした。
     その人は丁寧な手つきで最小限の音を鳴らして鍵をかけ、虎杖のことは気にせず階段を降りていった。足音すらも最小限だ。こっそりと後ろ姿を盗み見る。ベージュのスラックスにポロシャツ。長い脚だが小股気味に歩く癖。間違いない、虎杖の母校の社会科教師、七海建人だ。
     高い身長のてっぺんで金髪が揺れる。およそ教師とは思えない派手な頭髪は地毛らしい。母方に北欧の血が混じっているということだった。七海の肌は透き通るように白く、スッと伸びた鼻筋も混血であることの証明のようだった。
     今日は土曜日だ。この時間に出かけていくということは、七海は今も部活を担当していないのだろう。スケジュールを把握しようとする自分が我ながら気持ち悪かった。
    (行ってきます、って言ったな)
     誰と暮らしているのだろう。未婚であったはずだが、恋人だろうか?それともこの二年間で結婚をしたのだろうか。こんな形で思い人の住居を突き止めてしまうとは予想外だった。
    (バカバカ……)
     とっくに捨てたはずの恋だ。誰かも言っていた。初恋は実らない。だが、二度と会えないと思っていたのに不意打ちでその声を聞いてしまった。その姿を見てしまった。ましてやここは自分の担当エリア内である。いつか七海宛の荷物を配達することもあり得る。
    「お待たせ……って、何やってるの?」
     煩悩を振り払うために無意識にその場でスクワットを始めていた。
    「あっ、はは!なんか暇で!」
    「暇だとスクワットするの?面白いね、君」
     住人はきっかり五千二百五十円を支払い、一万円札を崩すために買ったというドリンクを差し出してきた。
    「緑茶とスポドリ、どっちがいいかな?」
    「いいんすか、すみません。じゃあこっちいただきます」
    「暑くなってきたもんね」
     虎杖が受け取ったスポーツドリンクのボトルを見て住人が笑った。人見知りしないタイプの人物であるようだ。少しだけ世間話をした油断から、虎杖の口から疑問が漏れた。
    「隣の人って……」
    「え?」
     聞き返されてハッとなる。誰と暮らしてるんですかね、という問いを、危うくこの夏油という男に投げかけるところだった。個人情報を詮索するなど以ての外だ。ただでさえ、誰がどこに住んでいるかを把握できてしまう職業なのだから、それを私的に使うなど公私混同もいいところだ。
    「あ、や、なんでもないんです」
    「でも」
     言いかけた夏油に、慌てて右の手のひらを向けて制した。
    「ドリンク、あざます!またお願いします!」
     その場から逃げるようにトラックに戻り、急いで車を発進させた。
     久々に聞いた七海の声にときめいている自分を誤魔化したい。できるだけ車が揺れればいいのになどと思ったのは初めてだった。営業所に戻ってから昼食をとったが、何を食べたのか全く覚えていない。



     夜蛾所長のスタンプを五人目がいっぱいにする頃、虎杖はすでに三枚目のカードに突入していた。皆勤なのは所長と虎杖だけだ。
     七海の姿を見かけてから一ヶ月が経過していた。夏はもうすぐそこ、と言わんばかりに空の色が濃くなってきた。
     夏油家にはあれから何度か配達に行った。すっかり打ち解けてしまい、度々ジュースを差し入れてくれる。隣の家の扉が開くことは、あれ以来一度もなかった。
     固く閉ざされた扉にかかる表札を毎度眺めてしまう。自分の目線に乗っかっている未練を、認めないわけにはいかなかった。それでもチャイムを押そうとは思わない。気持ちはまだある。しかし、それをどうにもするつもりはなかった。
    「明日も仕事の奴はくれぐれも飲み過ぎんなよ!んじゃ、カンパーイ!」
     秤の掛け声に合わせてグラスが交わる。結局スタンプカードが溜まってない者も混ざっての飲み会となった。溜まっていない者の分は出さんぞ、と夜蛾は声をかける。わかってますって、と秤は答えたがなし崩し的にワンチャン、とその目が言っていたのを虎杖は見た。虎杖は酒に強い。日本酒だろうが洋酒だろうが、無茶な飲み方をしない限りはほとんど酔わない。テキーラがぶがぶ飲んだ時だけやばかったな。
    「お疲れさん」
     声をかけてきたのは同期の釘崎だった。ドライバーではなく事務を担当している女性だが、性格は男まさりと行った感じで性格は荒い。あと口調も。
    「虎杖ってさあ、遠恋とかしてんの?」
     薮から棒に釘崎がそんなことを言いだし、虎杖は一瞬唐揚げを喉に詰まらせた。
    「な、んで」
     かろうじてそう言ったあとグラスを煽ってから続ける。
    「いないよ」
     釘崎はふーんと口を尖らせ、手に持ったカシスオレンジのグラスを傾けた。
    「そっかあ。なんか彼女いるかんじじゃないけど心に決めてそうっていうか、そういうカンジだと思ったんだけど。ただ何にも考えてないだけか」
    「何にもって」
     反論しかけてやめた。初恋を何年も引きずっているんです、しかも高校の先生で、男で……なんて話をした日には、ただこの宴会のツマミになるだけだ。
     釘崎はそこでハッとした顔つきになり、虎杖に向き直る。
    「あ、勘違いしないで欲しいんだけど、別に狙ってるわけじゃないから安心して。先を越されてないかどうかの確認だから」
    「はあ?」
    「負けたくないのよ、アンタには」
     釘崎はグラスを持つ手の人差し指だけを虎杖に真っ直ぐ突きつける。妙なライバル心を抱かれているのは入社当初からだ。なぜか釘崎は虎杖に「負けたくない」らしい。何においても。
     突如、後ろでグラスの割れる音が響いた。店員がお客さん困りますよとしきりに騒ぐ声が耳に届いた。何だろう。
     釘崎と共に、数人の野次馬に混ざって音がした方を覗く。金髪の男が大きな体躯を折り曲げて店の壁に凭れ座り込んでいるのが見えた。立とうとしても足元がおぼつかないらしく、ふらふらとまた倒れる。割れたグラスに触れたのか、男が素早く手を引く仕草を目撃した釘崎がウッと小さく呻いた。虎杖の目が見開かれる。その男には見覚えがあった。
    「ナナミン!」
     虎杖が立ち上がって駆け寄る。女性の店員がおしぼりを七海の手にあてがいながらオロオロとガラス片を拾い集めた。ガラスを避けながら七海の脇に膝をついて頬を軽く叩いた。大した怪我では無さそうだ。
    「ナナミン、起きて」
     七海は嫌がるように顔を背けるだけで返事をしない。相当飲んでいるらしい。
    「よかったあ、知り合い?タクシー乗っけてやってくんないかな、夕方からずっとカウンターでボトル飲んでたんだけどね。気付いたらへべれけでよぉ。途中で止めればよかったよ」
     頭上から、捻り鉢巻をしたごま塩頭の男が虎杖にそう言った。床を拭いている女の子に指示も出しているので、もしかしたら店長なのかもしれない。
    「ええ、俺がですか」
     都合がいいか悪いかで言えば、悪かった。幸い住居は把握しているわけだが、個人的な関わりは持ちたくない。だが、このまま放っておけるほどの冷血さはなかった。少し悩むが、小さくため息をついた後にうなずく。
    「わかりました、送っていきます」
     状況を見ていた釘崎が、タクシーを手配し虎杖の荷物を持ってきてくれた。
    「どういう関係?」
     意識を混濁させる七海の顔をじろじろと見ながら釘崎が尋ねる。
    「高校の先生。こんな風に飲む人だとは思わなかたな。普段はクソがつくほど真面目なんだけど」
    「仲良かったの?あだ名で呼んでたもんね」
    「あー……、うん、まあね」
     ズリ落ちそうになる七海の腰を支え直す。寄せた体から懐かしいコロンの香りがした。七海の横顔はあの時と何一つ変わっていない。綺麗な鼻筋、太い首。今は少し乱れている髪も、朝はきっちりと分けられていたことだろう。
     タクシーが滑り寄ってくるのに釘崎が片手をあげて合図を出した。
    「アンタがラジオ体操頑張ったから開けた会なのに、残念ね」
     七海をタクシーに詰め込む虎杖に鞄を手渡しながら釘崎は言った。
    「そうでもない」
     その言葉は本心だったが、釘崎は強がりだと受け取ったらしく虎杖の頭に軽く手を置く。
    「今度飲み直しましょ。アンタの奢りで」
    「嫌だよ、なんでだよ」
     笑いながらそう言うと額を人差し指で弾かれる。
    「いってえ。本気のやつじゃん、なんだよ?」
    「ムカついただけよ」
     タクシーの扉が閉まる。釘崎は軽く手を降ると店内へと戻って行った。
    「井の頭通り通って、下連雀の方までお願いします」
     細かくナビをしながら目的のマンションのすぐ脇につけてもらう。タクシーから引っ張り出す時には、七海は少しだけ意識を取り戻したようだった。
    「いたどり、くん?」
    「そうだよ、ナナミンちここで合ってる?」
     七海は虎杖に支えられながら周囲を見渡し頷く。
    「……はい、合ってます」
    「誰かいる?」
    「いえ、誰も……」
     言った瞬間、七海の顔に暗い影が落ちたような気がした。
     あの時行ってきますと声をかけた恋人とは、別れたのだろうか?ずく、と音を立てて胸が痛んだ。心のどこかで七海の恋愛がうまく行ってなければいいとほくそ笑む自分がいたからだ。虎杖は軽く頭を降って邪な自分を追い払う。今日深酒をした理由はもしかしたらそこにあるのかもしれない。
    「鍵どこ?ポケット?」
    「あ……上着の、ポケット」
    「こっちか」
     自分の荷物とともに抱えていた七海のジャケットを探る。右のポケットから、使い込まれた本皮のキーケースが出てきた。七海に代わってケースをあける。鍵はふたつ。家の鍵らしきものと、もう一つは小さなロッカーの鍵らしきものだった。恐らく学校のロッカーか、机などの鍵だろう。
     鍵を差し込み、電気の灯っていない部屋へと上がる。かろうじて自立した七海が電気をつけたあとバスルームに駆け込んだ。吐くのを我慢していたのだろう。家につくまで耐えられたのはすごいことだなと虎杖は思った。最も、居酒屋でかなりの醜態を晒した後ではあるが。
     1DKの部屋は物が少なく綺麗に片付けられていた。広めのリビングには小さな出窓があり、植物の鉢植と霧吹きのボトルが並んでいた。七海が毎朝それに水をやる姿を想像する。奥の間は和室のようだった。そこまで見て、あまりジロジロ見るのは良くないと思い目を逸らした。
     バスルームから顔を拭きながら出てきた七海を見て虎杖は思わず笑った。
    「顔真っ白」
     七海は吐いて頭が冴えたのか、ハッキリした口調で答えた。
    「お恥ずかしい」
    「あと、割れたグラスで指切ってたよ。見して」
     七海の手を取る。自分の手は震えてはいない、大丈夫だ。
    「石鹸で洗った?」
    「はい」
    「なら大丈夫だと思う、絆創膏あれば貼るよ」
    「絆創膏……そのへんに確か」
     食器棚についた三つ並びの引き出しを七海が指差した。一番左の引き出しにあった箱を取り出し、七海をテーブルに座らせる。
    「何から何まで、すみません」
    「いや……偶然居合わせてよかった。職場の飲み会で」
     言い訳がましくならないように言葉を最小限にした。余計なことまで喋ってしまいそうだ。絆創膏は貼り終えたが、なんとなく七海のことが気にかかる。そんな虎杖の様子を察したのか、七海は困ったような顔で微笑んだ。生徒たちからは鉄仮面と呼ばれた七海だが、たまにこうして柔らかく笑う時がある。懐かしい笑顔だった。
     虎杖は初めて七海をいいなと思った日のことを思い出していた。



     高校の中庭ベンチ裏で寝転がると、そこは植え込みに隠されてちょうど死角になる。このスポットを見つけたのは、昼休みに弁当を食べ終わり、寝こけた虎杖を同級生たちがふざけて置いていったことがきっかけだった。ふと目を覚ますと昼休みのザワつきは消え、授業が始まった校内が別世界のように静まり返っていた。しかし時折遠くから聞こえる笑い声や、体育の授業で声を出す生徒の声が届いてくる。その瞬間から、この場所は虎杖のお気に入りの「サボりスペース」となった。
     秋のはじめのその日に、虎杖が体育の授業をサボったことに理由はない。強いて言えば、着替えるのが面倒だった。体育教師の高木にしごかれる同級生たちの声を聞きながら、虎杖はイヤホンをポケットから取り出しひとつ欠伸をした。お気に入りの曲でも聴きながら目を閉じようとした時、頭上からバサバサ、と紙束が落ちるような音がした。
     植え込みから頭だけ出して中庭を確認すると、社会科教師の七海が両手で何冊もの教科書を持って歩いていた。落とした教科書拾い上げようと片手に持ち替えて屈み、屈んだ瞬間に山の一番上から違う教科書が落ちる。慌てて体勢を立て直そうとした結果、殆どの教科書を地面にばら撒いていた。
    「…………」
     七海は無言で足元に散らばった教科書を眺めてから、ひとつ息をついた。七海が気を取り直して一冊拾おうと手を伸ばすと、そこに空から何かが降ってきてピシャリと跳ねた。鳥のフンだ。
    「……〜〜ッ!!」
     七海はフンの落ちた場所から飛び退くように立ち上がると、スーツの袖口や頭に被害がないかを確認する。そうこうするうちに一冊の教科書を踏み、滑って植え込みに尻から着地した。その姿は映画に出てくるコメディアンのようで、虎杖は思わず声を上げて笑った。
    「くっ、ははは……!最高、七海センセー」
     近づいて差し伸べた虎杖の手を、七海は取らずに銀縁の眼鏡を掛け直した。
    「虎杖くん、授業は?」
    「聞くなよ。立てそう?」
    「立てます」
     七海は虎杖の手は借りずに立ち上がろうとしたが、尻がはまってしまいうまく植え込みから抜け出せない。
    「やっぱり……手を貸していただいても?」
    「完璧かよ」
     褒め言葉だが今のは完全に皮肉だろう。虎杖は豪快に笑いながら引っ込めた手を再び差し出す。助け起こされた七海は小声でボソボソと「ありがとうございます」と言った。
    「どうすんの?コレ」
     教科書を指差して虎杖が尋ねる。七海は神経質にスーツを払いながら答えた。
    「捨てに行くんです。今使ってる教科書ではないので」
    「手伝ってあげる」
     鳩が豆鉄砲を食らったような顔で七海は虎杖を見つめた。教師にサボりを見つかった生徒が、場所を変えてサボりを継続するでも、授業に戻るでもない七海を手伝うという選択肢は七海の中にはない。カルチャーショックと言っていいほど、それは不可思議な提案だった。
    「焼却炉でいいんでしょ?」
     断る間もなく虎杖は教科書を拾い始めた。フンのついたものは摘むように持ち、残り頼むな、と言うと歩き出してしまう。七海は残り半分の教科書を拾い上げて虎杖の後を追った。
    「もっと隙のない人だと思ってたよ、センセーって」
    「隙がない、とは?」
     歩きながら言う虎杖の言葉の意味を測りかねて七海が尋ねる。
    「余裕があるというか、すべてをスマートにこなせるというか」
    「ミスがあるのが当たり前じゃないですか。人間なんだから」
    「うん、だから完璧だなって」
     不思議な言い回しだ。七海には目の前の若者の感覚が全く理解できない。
    「さっきも言ってましたが、虎杖君は完璧という言葉をどのような意味で用いているんです?」
    「パーフェクトってことだよ、全部が……整ってる?っていうのかな」
    「ミスをするし、落とし物をしても?」
    「そこに鳥のウンコが落ちてきて植え込みに突っ込むまで含めてすべて」
     七海が眉間に皺を寄せ、不快を露わにした。だが虎杖は気づいていないのか、それとも七海を怒らせても構わないのか、微塵も気にせずに続けた。 
    「全部できちゃう人は疎まれるでしょ。バランスがいい感じがする。冷徹に全部できる頭のいい人が、実はちょっと間抜けなんて完璧じゃない?」
    「個人の嗜好によるのでは」
    「そうかも。だから個人的に完璧だわ、ナナミンは」
    「今なんと?」
    「ナナミン」
     自分のことらしい。生徒たちからあだ名で呼ばれている同僚は多い。だが、七海の教師生活の中で、生徒にこのように馴れ馴れしくされたことはない。それは七海の生真面目な人間性が理由なのだろうが、それを打ち破ろうとする人間がいなかったということでもある。
    「あなたはどこまでも自由な人ですね」
     この少年の奔放さを少し羨ましいと感じた。はるか昔、誰かにそう呼ばれたことがあるような気がする。子どもの頃だろうか?
    「ナナミンか……ナナミン」
     食べ物を咀嚼するように、七海はそのニックネームを口の中で繰り返した。虎杖と七海の目が合う。
    「悪くないですよ」
     七海はそう言うと、少し困ったような顔で柔らかく笑った。虎杖の心臓が七海を見るたびにうまく機能しなくなったのは、この瞬間から。



    「お茶を淹れましょう。酔い覚ましに」
    「立たなくていい、俺やるよ」
     七海に茶葉の場所を聞きながら虎杖が湯を沸かす。二口のガスコンロに使い込まれた鍋が乗っている。やかんは口の細いドリップ用のものだった。料理が好きなのかもしれない。蛇口のそばには歯磨き粉と歯ブラシスタンド。白い歯ブラシが一本。
    「前にも、こんなことがありましたね」
    「前にもって?」
     七海の言わんとしていることをわかりながら、虎杖は聞き直した。七海があの日のことを覚えていてくれることが嬉しい。その口から、あの日の話を聞きたいばかりにとぼけて見せる。
    「いつかの、中庭の。あなたには醜態を晒してばかりだ」
    「ああ、あれね。鳥のフン事件」
    「今更ですが、君はよくあそこで昼寝を?」
    「はは、本当に今更だね。うん、居心地よかったから」
    「……鳥のフンの被害には?」
    「あったことがないね。ついてないんだ、運が」
    「若者なのに古風な駄洒落を言いますね」
    「じいちゃん子なんで」
     やかんからシュンシュンと音が鳴った。虎杖は火を止め、茶筒から茶葉をいっぱい急須に移した。マグカップに湯を入れて温めながら、その湯の温度が落ちるのを待つ。緑茶の淹れ方は祖父のために覚えた。
    「近いのですか?家は」
    「いや日野なんだ、一本だけど」
    「ここから三鷹駅までは十分くらいなのですが、終電は……」
     七海は左手首に巻かれた腕時計を確認した。深夜0時を回ってから更に四十分が経過している。いかに天下の中央線と言えども望みは薄い。
    「ないかもしれませんね」
    「いいよ、明日俺休みだし。駅前にネカフェあるから始発までは……」
     急須のお茶を二つのマグカップに振り分けながら虎杖がそう言うと、七海がそれを遮って提案した。
    「泊まっていってください。親が来た時用の布団がありますから」
    「いいの?」
    「何を言ってるんです、あなたは恩人ですよ」
     例え社交辞令でも嬉しかった。舞い上がる気持ちをおさえる。七海とどうこうなろうなんて考えはないが、この夜のことを想い出に生きていけそうだ。虎杖は照れたようにはにかみながら、じゃあお言葉に甘えます、と言ってお茶をゆっくりと胃まで落とした。
     シャワーを借りる間、鼻歌を歌いそうになるのを我慢した。大勢の中の一人。それが虎杖のポジションだと認識していた。だが今日彼を送り届けたことによって、虎杖はそこから頭ひとつ分は抜きんでたのだ。七海にとって虎杖はただの教え子ではない。恩人に格上げしたのだ。
     虎杖と入れ違いに七海も風呂場へ向かった。丁寧に敷かれた二組の布団の片方は新しい枕カバーでふかふかの大きな枕。もう一つは蕎麦殻の枕だった。おそらくふかふか枕の方が自分用だろう。虎杖はその布団の上に腰を下ろした。
     ここが、七海の生活している空間なのだ。七海が普段使うシャンプーの香りがこれなのだ。ドラッグストアで売っている安価な量産品が、まるで高級ホテルのそれのように価値が釣り上がる。自分もこのシャンプーにしようかな、と考えたあと、その思考の気持ち悪さに自ら吐き気を覚えた。
     ふと、部屋の角にある小さな文机の上に乗っている白い陶器の入れ物が目に入った。
    「骨壷?」
     その形には見覚えがあった。祖父の骨壷を思い出す。質量を失い小さく軽くなってしまった祖父を両手で抱えて、お経を聞いた日のことを。目の前の骨壷も、あっけないほどに無機質で、小さくて……いやでもこれは小さすぎるな?スモールライトで照らされたみたいな大きさだ。
    「猫です。飼い猫が最近亡くなりまして」
     音もなく背後に立っていた七海に急に声をかけられて虎杖の体が一瞬跳ねた。
    「ねこ?」
     七海を振り返りながら、素っ頓狂な声が出た。ペットは家族などと言うが、まさか遺骨を残すサービスがあるなんて知らなかった。動物を飼ったことのない虎杖にはわからなかったが、もしかしたら一般的なのかもしれない。
    「本当に可愛かった……」
     小さな骨壷にそっと手を添え、心から悲しそうな顔をする七海に、なんと声をかけてあげればいいのかわからない。大切な家族だったんだね、悲しいね、元気出して?なんだかどれも違うような気がする。
     七海は布団の枕元にあったドライヤーをコンセントに繋ぎながら、心はまだ骨壷のそばにあるようだった。
    「もう、この世にいないのだと思うと悲しくて泣けてきます。時間が戻らないことも、お葬式が済んだこともわかってはいるのですが……」
     七海はそこまで言うと、ドライヤーのスイッチを入れた。自然と会話はそこで途切れる。
     虎杖はそこで、あっ、と一つの結論にたどり着く。もしかしたら、部屋の中に行ってきますと声をかけたのは猫に対してなのではないか。七海はずっと一人暮らしなのではないだろうか。
     どうせ寝癖がついてしまうというのに、七海は櫛を使って丁寧に髪を乾かした。髪を下ろしているのも、眼鏡をしていないのも新鮮だ。意外と前髪が長いことに今更のように気が付く。今日一日で、知らなかった七海に関する情報を一気に取り込みすぎてキャパオーバーになりそうだった。
    「虎杖くん、髪が濡れたままですよ」
     七海が虎杖の頭が湿っていることに気が付きそう声をかけた。
    「ドライヤーとかしたことねえもん。すぐ乾くよ」
     虎杖があっけらかんと言うと、七海は少し逡巡したあとこう提案した。
    「私が乾かしてもいいですか?」
    「え?い、いいけど……」
     大きな体を縮こまらせて七海の前に座った。正座をしたらやりづらいと言われてあぐらで座り直す。人に頭を触られることは稀有なのだと虎杖は気付く。俺の頭触るのってじいちゃんくらいだったんだ。
     湿った髪の毛が思い切り空気を取り込んで、雨のあとの草木のように生命力を取り戻していく。時間をかけて風を当てる間、どちらも喋ろうとはしなかった。七海の手が首すじに触れるたびに跳ねる心臓を隠すのに必死だ。気軽にいいよなんて言うんじゃなかった。これは思っていた以上に苦行だ。
    「ふわふわだ……」
     ふと後頭部に温かいものが触れ、すぐにそれが七海が顔を寄せているのだと分かった。スゥ、と間近で息を吸われる。
    (におい……嗅いでる……!?)
     七海の吐いた息がうなじに当たる。柔らかな春の風が稲穂を撫でるようなその気配に、背筋がぞくぞくと痺れていく。しかし虎杖は拒むでもなく、目を細めてその甘やかな時間を享受する。享受するしかできない。
     七海の手が体に回った。後ろから抱きすくめられ、虎杖の体が強張る。
    (もしかして、ナナミンも俺のこと……?)
     とろんと目を潤ませた虎杖が、身体に回された手にそっと自分の手を重ねた。七海は夢中で虎杖の頭部に顔を埋めている。
    「トラくん……」
     七海の呟きに我にかえった。オイ、俺もしかして猫の代わりか?
    「似てる?」
    「え?」
    「俺、猫に」
    「す、すみません」
     七海は慌てて虎杖の体を離した。
    「どうかしていました。酔いが残っているのかも。寝ましょうか……」
     電気を消そうと立ち上がった七海の手を、虎杖が掴んだ。七海をまっすぐと見上げて問う。
    「酔ってなきゃ」
    「え?」
    「酔ってなきゃ、だめなん」
    「何を……」
     言いたいんです、という疑問より前に虎杖は結論を放つ。
    「俺が、触ってほしい、って言ったら……?」
     七海の腕を掴む手が少し震えた。これ以上は、だめだ。
    「虎杖くん、君も」
    「酔ってねえよ、俺。酒かなり強いから」
     決定的なことを言われるより前に逃げたい。自分はそんな下心があって虎杖に泊まれと言ったわけではないのに。
    (どうすれば……)
     虎杖はもう迷わなかった。ここまで来て、自分の気持ちをなかったことになんてできない。腕を強く引っ張ると、七海が布団に膝をついた。顔が近い。
    「わかんねえかな。アンタのことが好きなんだよ。高校の時からずっと」
    「そ、れは……」
     気付いていた。うっすらと、そんな気はしていた。だが、慎重なもう一人の自分がそれを打ち消していた。まさかそんなことがあるわけない、期待するな、望むなと。
     

    .
    .
    .


    ここまでよ。
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    shinri_doe

    SPUR MEなないた新作書けてるとこまでタイトル未定。
    いつ恋愛すんのってくらいものすごくまごまごする。
    書いてる間孤独すぎて耐えられなくなってきたから誰か読んでそして頑張れと言って……
    未定(なないた) 感情をゴミ箱に捨てられたらいいのに、と虎杖は思う。
     顔を見るたびに、声を聞くたびに振り回されるのはもううんざりだ。
    (卒業、か)
     校庭の桜は卒業式の今日に合わせたかのように満開だ。桜吹雪の下には人だかりができ、みんなで写真を撮ったり抱きしめあって泣いたりしている。
    「悠仁くん!こっちおいでよ!」
     クラスメイトの吉野に手招きされる。おー、と曖昧に返事をしながらあたりを見回した。虎杖の探す社会科教師の姿はない。
     最後くらいきちんと挨拶したかった。これでもう、二度と会うこともなくなるのだから。



     工業系の専門学校を出て、大手運送会社に就職した。理由は単純で、車を運転するのが好きだったからだ。
     職場での朝のラジオ体操が好きだ。出勤は午前八時なのだが、虎杖は七時四十五分から始まるラジオ体操に欠かさず出席していた。営業所長がドライバーは腰を痛めやすいからと始めたラジオ体操の習慣に次第に人が集まるようになり、楽しくなった社員の一人がスタンプカードを作った。参加するとハンコがもらえる。最も、夏休みの児童向けのような気の利いたスタンプではなく「夜蛾」という所長の名前が刻まれた簡素なものだ。それでも、スタンプが溜まっていくのは楽しい。いっぱいになったら何かもらえるんですか、と聞いたら、夜蛾が手製の編みぐるみはどうかと提案してきたので丁重に断った。結果、スタンプを溜めた者が五人になったら飲みに連れて行ってもらえることになった。虎杖はあと三個だ。
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