その指先を知っている留置所の冷たい石壁に、足音が反響している。
ランプを手に現れたのは記憶を取り戻してまだ日の浅い亜双義一真。
足を止め、照らす牢の中にいるのはバロック・バンジークス。
かつての従者に視線は向けても、立ち上がり近寄ることはない。
「なぜ、彼を殺した」
亜双義が問う。
寡黙な従者としての彼しか知らぬバンジークスは、こんな声だったのかと思いながらも
その声色に込められた困惑を感じとる。
「私は殺していない」
「証拠は全て、貴様が犯人だと告げている」
「知っていることは全て話した。何も嘘はついていない」
不毛な論争の最中、鉄柵に置かれた亜双義の指先は震えている。
いかに証拠がバンジークスを犯人と指していても、殺人を犯す人間には思えない。
この数か月を共に過ごした亜双義は心の奥でそう感じていた。
そうでなくては、わざわざここを訪れない。
どこかすがるような視線でバンジークスを見つめている。本人にそのつもりはないだろうが。
「このままでは、殺人犯として裁かれるぞ」
「真実を求める心あれば、必ずや法廷で明らかにされるだろう」
バンジークスの堂々とした態度は崩れない。居心地のよくはない牢の中にいても
その品位も眼差しの強さも少しも損なわれることはない。
「それが、師としての最期の教えか?」
答える替わりに、その目を見据える。その視線がぱちりと合った瞬間、亜双義は目をそらした。
「恩返しなど期待せぬことだな」
吐き捨てるようにそう言うと、また足音を響かせて去っていった。
遠ざかる灯りを目の端で追いながら、バンジークスはかつての裁判を思い出す。
先ほどの亜双義の、震える指先には覚えがあった。
兄を殺した男を告発したあの時、己が検察席の卓上に置いた手は落ち着くことなどなかった。
今の亜双義一真は、かつてのバロック・バンジークスだ。
では、今のバロック・バンジークスは?
一言の弁明もなく罪を受け入れた黒髪の男の、何か悟った横顔が脳裏をよぎる。
もしや、本当に―
この10年、ずっと晴れなかった疑念が鎌首をもたげてバンジークスを締めつけた。
-完-