『今年も残すところ、あと1時間となりました。街はニューイヤーのカウントダウンを前に集まった人々で賑わいを見せています…』
テレビからよどみのないアナウンサーの声が聞こえると、オレは「もうそんな時間か」とキッチンから身を乗り出して壁にかけた時計を見た。
チキンのパイが入っていた皿をピカピカに洗い終えて水切りラックに置き、手を拭きながらやけに静かなリビングソファへ近づいていく。
ソファの上には長い脚を肘掛けから投げ出して、静かに眠りにつく人物が居た。
「も〜食ったらすぐ寝るんスから」
やれやれと思いながらもソファの傍らに畳んであったブランケットを広げて、その体にかけてやる。初めて一緒に年を越すんだから、せめてカウントダウンぐらいまでは起きていてほしかった。そう思いながらも、すやすやと寝息を立てているレオナさんを見つめる。オレと同棲を初めてから、少しばかり頬のラインがふっくらしたような気がしなくもない。
ソファの前にしゃがみ込んで黒々としたまつ毛の先に指先でふれてみる。絵筆のように扇状に広がったまつ毛が、指の腹をさわさわとくすぐって心地がよい。
「…ん」
「ね、カウントダウン見ないんスか?」
「ん…」
レオナさんは口も開かず声帯だけを震わせてオレの問いに応じた。これ、絶対起きねぇやつだな。再びまどろみの中に落ちようとしているその人の頬に、洗い物で冷え冷えとしていた手をぴたりと押し付ける。
「ッおい!!」
「あ〜あったけ〜」
冷水でかじかんでいた手に、人肌の体温がじんわりと伝わってきて気持ちがいい。何しやがると身を跳ねさせたレオナさんが、じとりとした目でオレを睨みつけた。
「…眠いんだよ」
「そ〜スか」
「つまんねぇの」と頬に添えた指先で顔をむにと押してみると、片眉が小さくピクリと動いた。
そのまま親指をすべらせて唇を撫でる。弾力があって、ぷにぷにしている。次は鼻でも摘んでやろうかと寝顔を観察しながら唇に顔を近づけていくと、呼吸が浅くなっている事に気づいた。
…起きてるのなら、相手してくれりゃいいのに。むくれた顔で耳の穴に指を突っこんでくりくりとかき回すとレオナさんは「〜やめろ!」と唸り声を上げながら首を捻った。
「ちぇ」と唇を尖らせながら身を離す。
すると、視界の片隅に映ったクッションにオレンジ色のシミがついているのを発見した。…一昨日作ったミートソースだろうか?一度目に付くとそれが無性に気になってしまい、オレは「今年の汚れは今年のうちに」とクッションに手を伸ばして素早く立ち上がった。
「…どこ行くんだ?」
「なんスか?ちょっと洗濯機回しに行くだけスよ」
「後にしろ」
「なんで」
「それより、楽しいことしようぜ」
クッションを持った手首を捕まれて、上目遣いでそう言われる。長いまつ毛の下にある、寝起きのとろんとした瞳によこしまなものを感じると、さっきまで眠いからってオレのことを放置してたくせに本当に気分屋だなと思いながら頭を掻いた。
「…あんたって、メシか、寝るか、ヤることしか頭に無いんスか?」
「分かりやすくてかわいいだろ?」
「自分で言わない。…カウントダウンまでには終わらせてくださいよ」
「それはお前次第だな」
ソファから上体を起こしたレオナさんが「来いよ」とでも言うように人差し指をちょいちょいと折り曲げると、呆れながらもその誘いに抗えなくてソファに片膝をついた。首の後ろにレオナさんの両腕が回されると、オレはテレビの音量を上げるために、後ろ手でリモコンを掴んだ。
☆
『…3…2…1…』
テレビから『ハッピーニューイヤー!』と言う歓声と共に、盛大な花火がドン、ドンと打ち上がる音がする。壁にかかった時計の長針と短針はぴったりと仲良く寄り添って、12の数字を指していた。
「ッ…全然終わんないじゃないスか!年明けちゃったし!」
「ハハ!」
ハァハァと肩で息をしながら叫ぶオレを見て、レオナさんが小さく笑った。
「オレ、ヤってる最中に新年迎えるなんて生まれてはじめてスよ」
「そうか、お前のヴァージンが貰えて俺は光栄だなァ?」
「アンタねぇ…」
クツクツと喉奥から小さな笑い声を漏らすレオナさんを見下げる。
こうなったらこの余裕げに薄笑いを浮かべている恋人を、とことん乱してやろうかという気分になってきて喉を鳴らした。グルルと咽頭が震えて音が出ると同時に、机の上に置いてあったスマホがそれよりももっと大きな音で震え出した。
「あ、ばあちゃんからなんでちょっといいスか?」
「ああ」
ディスプレイを確認して通話ボタンを押す。
今の今まで裸で恋人と抱き合っていたのでなんとなく引け目を感じながらも、スピーカーから聞こえてくる穏やかなばあちゃんの声に応じた。
ばあちゃんからの電話の内容と言えば、ほとんど決まっている。いつも通りのオレを案じる言葉の数々。これに関してだけ言えば「いつも心配してくれてありがとう」の一言に尽きるのだが、最近はそこに『レオナさんに迷惑はかけていないのか』というものが加わって、照れ臭さに食い気味で相槌を打った。
「あ〜…レオナさん、ばあちゃんがオレを今年もよろしくって」
「こちらこそ」
気恥ずかしい身内の言葉に、レオナさんは意外にも素直な言葉を一つ返してくれたので驚いた。自然と顔がほころんで、笑みがこぼれる。通話しながら空いた手でレオナさんの髪を梳かすと、サラサラと指の間から髪の一本一本がすべり落ちていく。今日はオレがちゃんと風呂上がりにドライヤーで乾かしてあげた甲斐もあり、手触りはバツグンだ。
「はいはい…ばあちゃんもね。ハッピーニューイヤー」
これまでに何十回と聞いた「体調に気をつけて、しっかりやるんだよ」という労りの言葉にうなずきながら、通話を切ってスマホを置いた。
「…続き、ヤるスか?」
「いや、いい」
ばあちゃんと電話をして、性欲という性欲が完全に削がれた。オレ同様に気が変わったらしいレオナさんも、いつの間にか見慣れた部屋着のトレーナーに袖を通していた。
「レオナさん、それオレのトレーナー」
「そうか」
「そうかじゃないスよ。自分の着てくださいよ、どこやったんスか?」
「脱がしたのお前だろ?」
「…たしかに」
あたりを見渡しても、服らしきものは落ちていない。まだそんなに激しい事はしていなかった…と言うのに、どこにやったんだと首を傾げていると腰をたしたしと長い尻尾で叩かれて「ラギー、腹が減った」と、メシの催促を受けた。
「も〜、さっきメシ食ったじゃないスか!今日食うもん無くなっちまうスよ?!」
「今食おうが夜に食おうが一緒じゃねぇか」
「つーか、自分で作ったらどうスか?オレが居ない時にレオナさんがたまに簡単な料理してるの、オレ知ってるんスよ」
「お前が作ったメシのほうがうまいだろ」
「………」
調子の良い答えにぐっと言葉を詰まらせる。こんな見え見えの愛想の言葉にすら、嬉しいと感じてしまうオレも相当安いと思う。
きまりが悪くなって目線を落とすと、ソファの影に落ちていたレオナさんのトレーナーを見つけたのでそれを拾い上げて頭からかぶった。
「ハンバーガーが食いたい」
「今からハンバーガー作れって言うんスか?!」
「ラギー、食い終わったらお礼してやるから、な?」
そう言うとレオナさんはオレのパンツのゴムに指を引っかけて、そのまま軽くパチンと弾いた。その巧みなおねだりに、もはや皮肉の言葉すら返せなくなったオレは「んぐ…」と奥歯を強く噛み締める。
してやられた気持ちになりながらキッチンに向かうオレの背中に「今年もよろしくな、ダーリン」と声をかけられると「本ッ当に、調子いいスね!アンタ!」と語気を荒げて返しつつ、冷蔵庫の扉を強く開いた。