悪いこと、いけないこと、その全部【悪いこと、いけないこと、その全部】
手を、離す。風を纏い宙を駆ける。剣を振りかぶり、弓使いを上空から穿てば刃がその存在を魂ごと切り裂いて、悪魔は何事もなかったかのよう時空ゲート上へと着地する。彼を持ち上げ、宙へと投げた狼男が「お見事です」と後方から恭しく頭を下げた。
「アイテム界は癖になっていかんな」
「少々深入りし過ぎたかもしれませんね」
魔界政腐の堕落を憂い、再教育を企む二人は既に魔界下層区、中層区を制圧し終えていた。支持者を得、仲間も増えたことで大所帯になった地獄だが、今アイテム界を行くのは吸血鬼と人狼の二人だけである。志を同じくする仲間たちと言えど所詮は悪魔。何処に行くにも仲良く一緒、などということはない。アイテム界は趣味の世界ではある。攻略については各々が打倒政腐の戦略に差し支えない範囲で行うことが暗黙の了解となっていた。
一方で、その趣味の世界に足しげく通う者もいる。まさにヴァルバトーゼとフェンリッヒの両名である。二人は教育の一環としてプリニーたちを連れ立ちアイテム界へと潜ることがままあった。彼等がつまらないレベルのアイテムを選ぶことはない。故に厳しい戦闘に最後まで着いてこられるプリニーは稀であり──結局最後まで戦場に立っているのは二人だけ、ということも珍しくはなかった。そんな時、主人と従者は二人だけのささやかな時間を堪能する。無論、共に生きて拠点へ帰還したプリニーがいた時には激励とイワシで存分に褒美を与え、飴と鞭をもって更生を進めてやっていた。
此度のアイテム界攻略はと言えば、どうか。熾烈さを増す住人たちの攻撃に耐え切れず、プリニーは既に全員、退場してしまった。主人と従者は二人きりでアイテム界を潜って行く。またとない機会、ゆったりと時間を慈しめば良いのだろうが、やはり彼等は血の気盛んな悪魔である。アイテム界のロマンを前にすれば、まるでゲームを前にした少年のようにのめり込まずにはいられなかった。
そして今、アイテム界 六十六階へと足を踏み入れる。目先の時空ゲートの他に、淡く光るゲートがひとつ。二人は言葉よりも先にアイコンタクトを交わす。
「小部屋か。鬼が出るか蛇が出るか……行くぞ、フェンリッヒ。そろそろ切り上げるとしよう」
「はっ。全ては我が主のために」
アイテム界病院が出るか、易者と遭遇するか、それとも……そんなドキドキとワクワクは思わぬ形で打ち砕かれる。何せ、二人を待ち構えていたのは、言葉そのままの意味の「不思議な小部屋」だったのだから。
◆
「……こんな小部屋、今まであったか?」
誰もいない、殺風景な小部屋。在るのは唯一、部屋の中央に陳列された色とりどりの小瓶と置き手紙だけだ。置き手紙を先に読んだフェンリッヒの体がわなわなと小刻みに震えるのをヴァルバトーゼは至って冷静に眺めている。横からひょいとその手紙を奪うと、記された内容を読み上げた。
「『頑張るあなたへ差し入れです。飲んで出してしまえば次の階層に進めます。媚薬屋さんより』……? なんだこの怪文書は?」
「私が聞きたいくらいです……」
「媚薬屋など聞いたことがない。とはいえ地逝鬼振興券屋があるぐらいだ、此処では何でも起こり得るのだろうな……」
周囲を見渡すも時空ゲートは見当たらず、アイテム袋の中のデールも当然使用制限が掛かっていた。為す術もなく、机上の小瓶……その数、二十を二人は苦々しく見つめた。
「先に進むには……」
「飲むしか、ないのでしょうね……」
「ウム、まあ任せておけ」
「ええ、そうですね。ここは私が……はい?」
頭痛を和らげるようこめかみに手をやる人狼はゆっくりと顔を上げ、唖然とした。がちゃん、と空瓶同士の触れ合う音が耳に響く。その数、やはり黙視にて二十。吸血鬼の男は、人狼が意を決するよりも先に瓶の中のものを飲み干していた。
「……して、媚薬とは一体何だ?」
「今すぐに吐き出してください全部!!」
独特の甘い香りがふわと鼻をくすぐって、気付けば部屋いっぱいに満ちていく。
◆
額に汗がにじむ。それを執事は心配そうに拭う。俺は従者へと視線を合わせることが出来ないでいた。この状況を、一体どう打開したものか。
「閣下、お辛くはないですか……」
まるで病人にするかのように世話を焼く彼は、本当に良く出来たシモベである。主人の息の乱れひとつ見逃さず、気を遣う。あまりの甲斐甲斐しさにやりすぎだと言っても、そんなことはないと言いくるめられる。
それにしても、困ってしまった。フェンリッヒに抱きしめられる身体をもじ、と捩る。
媚薬。執事からの渋々の説明で、それがどういったものかは大方想像がついた。要は催淫剤……そういう趣向の「お薬」なのであろう。効能も知らずに二十本も飲み干してしまったのだから、ただでは済まないだろうとそれなりの覚悟はしていた。しかしこれは、どうしたものか。
「大丈夫だ、何ともないから……」
「強がりはおやめください。ヴァル様はいつも痩せ我慢をなさる」
こういう時、我慢をする方が身体に毒なのです。そう言って、善意でシモベは俺に触れる。俺はその手を振り払えない。それは、快楽を身体が求めるからではない。熱を発散したいと願うからでも、ない。心配するよう、探るように俺の身体にそっと触れる、その指付きがただ、とても心地良かった。
結論を言うと、媚薬によって引き起こされると懸念された事象……淫らな行為を求めてしまうであるとか……衝動に駆られるようなことはこの身には何ひとつ生じなかった。あの意味深な手紙は何だったのだと怒り出したくなってしまうような、拍子抜け。
この部屋は何者かのイタズラに起因する空間で、小瓶の中身はただの砂糖水だったのではないか。或いは本当に媚薬だったとして、その効果はプラシーボ、思い込み程度のものだったのではないか。はたまたセット中の魔ビリティ〈状態免疫〉が運良く媚薬の効果を跳ね除けたのか……考えれば考えるほど、その謎は深まっていく。そも、媚薬など存在自体が眉唾ものである。粉末状マンドラゴラやすっぽんエキスを調合した精力剤がその類の飲み薬としてはせいぜいと言ったところか。媚薬が実在するならばこの魔界においてとっくに蔓延り、悪魔たちの堕落、或いは悪用に繋がっていたに違いない。そうだ、あれはただの砂糖水だった。俺はそう結論づけ、一人こくこくと頷いた。
「ご不安ですか。大丈夫ですよ、閣下」
背後からとん、とん、とあやすように抱え弄られれば、媚薬云々関係無く、生理現象として身体が反応する。忙しない地獄での毎日で、そういえば恋人と触れ合うこともままならなくなっていたと気付かされる。
「身体……少し火照っておられますね。一度出して楽になりましょうか」
「いや……ぅ、ン」
胸の突起を虐める指と、下半身を扱く手がほんの少し乱暴になる。こうしてじっくりと服の下に触れられるのはいつぶりになるだろうか。
狼男の献身が甘い恋人のそれで、つい真実を言い淀む。媚薬のせいにして、シモベに奉仕させている。いけないことだ。ずるいことだ。でも、悪魔なのだから良いのだろうか。燻る熱を少しずつ放つよう触れる。その触れ方は、優し過ぎて、じれったい。雄を緩く包むフェンリッヒの指へ自ら腰を振って、快感を誘う。
「ご自身で腰を振って……やはりそういう気持ちになってしまわれましたか?」
「そうだな、お前ともっと……触れていたい、そんな気にもなる」
「煽るのはおやめください。私は聖人君子ではありませんよ」
悪魔、それも、狼男なのですから。そう言って柔らかく笑ってみせた。その目は決して欲に濡れたものでは無い。俺は、この男のこう言うところが好きだ。欲の発散をしたいならいつだって俺を押し倒せば良いところを、こいつはそうはしない。それが言い表しようもなく、いじらしい。
「ところで、この部屋は『出せば』……次の階層に進めるのですよね」
俺の腰の動きを遮ってフェンリッヒは思い付いたようにぽつり呟く。その顔は、何かを企む時の表情だった。動きを止められた俺は不満の声を漏らす。
「何が言いたい」
「出さなければ……どうなるのでしょうか」
「なんだ、このつまらん部屋で生涯を終えようとでも言うのか?」
「貴方様と居られるのなら悪くない話だな、と」
此処を出てしまえば、ヴァル様と触れていられなくなる。次に触れられるのはいつになるかも分からない。それは、寂しい。そんな言葉の余韻を残して、狼男は眉を下げた。
「なら、もう少し居てみるか?」
フェンリッヒの尾が揺れる気配がした。この男も存外に可愛いところがあるではないかと、そう思ったところまでは良かった。俺は、自らに責め苦を与える茨の道を選んでしまったことに気付かない。
◆
どれだけの時を過ごしただろうか。気が遠くなるような永遠だったようにも思えるし、一秒を惜しむほどに刹那だった気もするのだから不思議なものだ。
自身の欲望へと手を伸ばし、触れる。慰めて、欲を吐き出したい。そこへ覆うように手を重ね、シモベは優しく制止する。
「我慢、ですよ。閣下」
「も、無理だ……出したい…っ」
「駄目です。私はまだ貴方といたい」
ヴァル様、貴方は? あざとさの滲む瞳に腹の奥で何かが疼く。きゅっと脚を閉じ、何とか射精を堪える。
己の中心を緩急つけて扱かれる。この部屋で、数え切れないほど寸止めされて、焦らされた。もう楽になりたい。出したい。イかせて欲しい……でも、まだ触れ合っていたい。
先端は透明な液を滴らせ、張り詰め、限界が近かった。肩を震わせ、己が身に愛撫を落とすシモベの指付きをただ恍惚とした表情で眺めていた、その時。不思議な小部屋には遂に変化が訪れる。
「ん?!」
「床が崩れて……!? 閣下、お手を!」
みし、と異音が響き、足元が少しずつ崩れて行く。空間を占めていた甘い香りが決壊し、何処へともなく漏れ出て行く。咄嗟に羽織らされたシモベのジャケットが巻き起こる暴風に飛ばされてまわぬよう、そしてもっと大事なものと離れてしまわぬよう腕を引き寄せれば、フェンリッヒは照れ臭そうに笑う。抱きしめ合い、二人で闇の中へと真っ逆さまに落ちて行く。
◆
「誘致ミス?」
「不思議な小部屋のラインナップを増やそうと思ってさ。秘薬、霊薬、神水。君たち、好きだろー? 入手が捗るようにって秘薬屋さんを誘致したつもりだったんだ」
アイテム界の門番、シーフが腕を組み物々しく唸る。しばらくの沈黙の後、にゃははと気まずそうに笑い、様子を窺うようにこちらを見た。
「でも、手違いでいかがわしいお薬屋さんを誘致しちゃったことに気付いて、ついさっき出て行ってもらったんだけど……えーっと……大丈夫、だった?」
「し、心配には及ばん。どうということはなかった」
「おいお前、まさか秘薬(ひやく)屋と媚薬(びやく)屋を取り違えたなんてアホみたいな話じゃないだろうな……?」
「CERO:A設定〈ディスガイア〉でこれはヤバいって非を認めたから拠点まで強制帰還させてあげたんでしょ?! 許してよ〜っ」
「そんなことが出来るなら普段からやれ! アイテム界の事故でこれまで何度死にかけたと思ってる」
ぎゃんぎゃんと言い合う二人をよそに、ヴァルバトーゼはとある異変に気を取られていた。
身体が、熱かった。風邪を引いた時のような、内側からじわ、と滲むような火照り。戦闘後の冷めやらぬ興奮とは全く別の何か。下腹部が疼いて、切なくて、おかしい。焦らされた名残にしては、波が大き過ぎる。高められ、このまま気持ち良く跳んでしまいそうな……そんな快を感じていた。
もしかして今になって媚薬の効果が? いや、まさか。自問自答し、冷静を保とうと躍起になる。それでも静かに、嫌な気配は迫り来る。
「まあ良い、お前の処遇は追って考えるとして……閣下は少々お疲れのご様子。しばらく、執務室にはプリニー一匹来させるんじゃないぞ」
険しい表情を一変させ、優しく此方を振り返る男の目は、主人の疲れを労る、良く出来た従者のものだった。
「行きましょうか、閣下」
「ああ……」
一方で、俺はと言えば。限界がすぐそこまで来ていた。服が擦れるそれだけで胸の蕾は快感を拾い、息が上がった。下半身は淫らな体液に塗れ、人知れず服の下を伝っていく。溢れ出すそれを最早理性では止められない。このままでは、本当にどうにかなってしまう。
俺の異変に今回ばかりは気付かぬフェンリッヒがわざとらしく咳払いをし、律儀に主人へとお伺いを立てる。
「閣下、その……不躾ながら……先程の続きをお許しいただけるなら……」
欲を隠し切れないシモベの表情に、とくとくと心音が早まるのを感じた。フェンリッヒの送る視線だけで肌の熱が弾け、蕩けていく。期待に身体中が疼き、下着の中はまるで事後のようにじっとりと濡れた。
「……良いだろう」
返答と共に狼男の手を掴み、その手をそのまま己の胸へと誘う。刻まれる速い心拍を感じ取らせてやれば、驚いた様子のフェンリッヒの喉がごくり鳴った。
手を引かれ、引き、足早に執務室へと向かう。ああ、そうだ。悪魔に正しさなんかなくて良い。執務室のドアの内側、見慣れた小部屋で俺を押し倒せ。媚薬の熱をお前に分けて、何もかもを暴かせてやる。
ようやく辿り着いた長い廊下の突き当たり。執務室の扉をがちゃり閉じれば、俺は目の前の男の腰元まで屈み、遠慮なくファスナーを落とした。続きを早く、教えてくれ。
「寄越せ、お前の、」
fin.