子猫ある日、体術の授業で、一、二年の全員が一つの教室に呼び集められた。
とはいえ、もともと二年は四人しかいないので、誰か一人でも任務に駆り出された日には俺も呼び出されるのが通常のこととなっていたので、別段不思議に思うこともなく、指定された教室に顔を出した。
教室にはいつも通りおっとりしたパンダ先輩と、いつも通り不機嫌な真希さん。
(乙骨先輩と狗巻先輩が任務中なのか?)
「ッス」
心ばかりの挨拶をし、空いている窓際の席に腰を下ろした。
「はーい、みんな揃ったかな?」
時間ギリギリに、右手に白い子猫を抱いた五条先生が姿を現した。子猫と成猫の間とでもいうべきか。人間の年齢にしたらちょうど俺たちくらいだろうか。五条先生の手のひらにかろうじて前足で引っかかっていて、伸びた尻尾と胴体は思いのほか細長い。基本は白猫のようでトラ猫の血も混じっているのか、額にはうっすらとMの柄が、グレーの尻尾はまっすぐスラリと長く、紫色の綺麗な瞳と、ニコリと微笑んでいるように上がった口角には、独特の二重丸。独特の二重丸?あれ、蛇の目じゃねぇのか?
「えっと、真希とパンダにはなんとなーく話したかな。数日前、棘が任務中の不慮の事故的なアレで、こんな感じになってしまい、今、代わりに憂太君に後片付けに行ってもらってます」
そこで、五条先生に掴まれて伸びていた子猫が急に暴れ出し、後ろ足で五条先生の指を引っ掻くようにしてひっぺがして、真ん中に座っていたパンダ先輩の机の上に軽い身のこなしで飛び降りた。振り返って五条先生を見上げている。
「棘〜、ずいぶん可愛くなっちゃったなあ」
「にゃー」
パンダ先輩に「棘」と呼ばれて、振り返り、子猫は狗巻先輩とは思えない、高くか細い声で鳴いた
「なんだ棘、その声、えらく可愛いな」
「にゃー」
狗巻先輩本人も、術式のせいであんなに何度も喉をやられたりしなかったら、実はこれくらい可愛らしい声だったのかもしれない。
パンダ先輩と真希さんは、そんな猫の狗巻先輩に「もう一回鳴いてみろよ」などと囃し立てて、可愛らしい鳴き声を繰り返し聞いては、普段とのギャップもあってゲラゲラと笑い転げていた。
「で」
そんな二年を他所に、五条先生は子猫の胸の下辺りに手のひらを差し入れ、無造作に持ち上げ、俺の前に運んできた。
「まあ棘自身、猫みたいなもんだったし特に問題ないとは思うけど、術式が使えないという不具合もあるので、念のため動物のお世話が得意な恵くんに、治るまで棘のお世話をお願いすることにします」
「え?俺ですか?パンダ先輩の方が良くないですか?」
机の上にひょいと置かれた子猫……狗巻先輩は、尻尾をピンと立てて、俺たちのことを順に見上げている。
「棘、嫌そうにしてる恵にとっておきの呪言をお見舞いしてやれ」
真希さんの言葉を振り返って聞いていた子猫は、俺の秘めた心を知る由もなく、まごうことなきいつもの悪ノリの延長線上であろうあざとさで、俺の正面に両手を揃えてちょこんと座り直した。
ビー玉のような澄んだ瞳で見上げ、軽く小首を傾げた、この上ない可愛さを全身で表現した、
「にゃあん」
を披露した。
そのあまりの破壊力に動けなくなっている俺の胸に飛びつき、制服を登ってくる。
今、彼はどれくらい猫なのだろうか。
スンスンと俺の首筋の匂いを嗅ぎ、そのまま登ってきて唇をペロペロと舐めはじめた。
驚いて両脇の下に手を差し入れ持ち上げると、猫は俺の動揺などどこ吹く風で大人しくぶら下がっている。その先では、教師と先輩方が笑い転げていた。
「決まりだね。恵、お世話よろしく。ちなみにお水をかけると猫に、お湯をかけると人に戻るけど、戻ったとき服とか着てないから。まあ、普段歩いてて急な雨に降られることはあっても、お湯かぶることのほうが少ないだろうから、昼間は猫でいた方が逆に安全だと思うよ」
「しかも棘本人が猫を楽しんでるからなぁ、ご愁傷さま」
パンダ先輩が哀れむように俺の肩を叩いた。この人(人?)は、俺の気持ちの何かを察しているのではないかという発言をたまにする。
「ま、お世話って言っても、猫のときにご飯あげるとか、寝る前に部屋のドアを開けるとか、そんな程度だから、そんなにやることないと思うよ」
「まぁ、それくらいなら全然やりますけど」
そうして俺は、思いを寄せる相手が、俺の気持ちなど少しも知らないで、文字通り子猫になってしまうという、天国なんだか地獄なんだかわからない日々を過ごすことになった。
カラカラカラ………トトッ。
ポスッ、トストストス、トスン。
深夜。小さな来訪者が部屋の窓を開けて、俺のベッドの足元で身体を丸める音で目が覚めた。
猫になった狗巻先輩は、度々夕飯を摂らないことがあり、気になって玉犬に追わせてみことがあった。
コンビニの前で一人弁当を掻き込む塾帰りの小学生、独りぼっちで食事をとる高齢者、夜遅くに帰宅する単身者。とにかく呪いを生みそうな人々のところを転々として、色々な名前で呼ばれ、そこで食事をとって回っていた。
俺だってツミキと二人で暮らしている時にこんな可愛い子猫が懐いてきたら、毎晩現れるのを楽しみに食事を用意していたに違いない。
今日も、パトロールか。そんなことを考えながらウトウトしていると、狗巻先輩によって開けられた窓から、雨音がしているのが耳に入った。
まてよ、雨?
嫌な予感がして、身を起こし、足元で丸くなる子猫を確認した。
案の定、雨に濡れ、足は泥だらけ、子猫が歩いた肉球の跡が、窓からベッドへと続いていた。
「ったく、泥だらけじゃねえか!!」
思わず声に出し、驚いて逃げようとするびしょびしょ泥まみれの子猫をすんでのところで捕まえた。
「あ!こら!」
暴れまくる子猫をなんとか抑えつけ、キッチンに連れて行き、シンクにぬるめのお湯をためた。
可愛い子猫といえど、中身は狗巻先輩な訳で。俺が何をしようとしているのかは理解できるはずだ。
それなのに、なぜか子猫はこの世の終わりが迫っているのかの如く暴れまくっている。
「大人しくしてください!!」
程よくお湯が溜まったところで、温度を確認して、必死に抵抗する子猫を、湯船に浸からせた。
その瞬間。
「おかか」
俺の目の前には、一糸纏わぬ姿の狗巻先輩が現れた。仏頂面で、俺のことを若干見下ろしている。
シンクに座る狗巻先輩の開いた脚の間に、俺は立っていた。顔が近い。この、体勢は、少し、マズいぞ。
『お湯をかけると人に戻るけど、戻ったとき服とか着てないから』
五条先生の言葉が頭の中に再生された。
「す、すみません」
「………しゃけ」
顔を真っ赤にした狗巻先輩は、後ろ手でシンクの栓を抜き、水を出し、もう一度猫に戻った。
予想外の出来事に高鳴る鼓動をなんとか抑えつけ、タオルで子猫を拭きながら、これじゃあ先輩の身体、冷え切ってしまうんじゃないだろうか。部屋に戻って風呂入ったほうが良いんじゃ、などと考えていた。
そんな心配は杞憂でしかなく、いつもは布団の上に丸まって眠る子猫はすっかり乾いてふかふかになった後、平気で俺の布団に潜り込んできて、朝までぬくぬくと眠り、俺はそんな先輩に胸をかき乱されながら、一睡もできず朝を迎えた。