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    さかえ

    @sakae2sakae

    姜禅 雑伊 土井利

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    さかえ

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    ぽいぴくでは「いずれ土井利になる話」として上げていた文章の続きです。今回は利くん視点で、くっつくところまで。まだまだ途中で、利くんも無自覚です。
    ラストの一文は閑吟集から「あまり言葉のかけたさに」です。

    #土井利
    toshiDoi

    春やむかしの 続き夏のこと

     目を閉じるのは聴覚を研ぎ澄ませるためだ。風の中、水音の中、鳥たちの鳴き交わす中に、利吉は注意深くその音を探す。枝を払い、草を踏み分けゆく足の、こちらへと向かうその音が何人分なのかを、ほとんど祈るような気持ちで探る。
     ――目を開けたのは、だから、祈ることをやめたということである。利吉はあぐらを解いて座り直すと、姿勢を正した。
    「ただいま帰ったぞ」
     戸が開く。思った通りに父が立っている。その向こうに人の姿を無意識のうちに探してしまう自分に気がついて、利吉は思わず苦笑した。先ほど祈るのはやめたばかりのはずなのに、それでも捨てきれないこの慕情は、なんと青臭く、悲しく、惨めったらしいことだろう。年ばかり重ねたところで、自分は結局十二のあの頃からまるで変わってやいないのだと、こんなところで自覚することになるとは。
     ほとんど諦念のようなものを覚えながら、それを押し隠した利吉が「父上、よくぞご無事で」と言って笑むと父は軽く頷いて、まるで息子の未練を断つかのように呆気なく戸を閉めた。


     張り切ったのよ、という母の言葉通り、いつもより品数の多い夕餉であった。久しぶりに帰宅した父はもちろんのこと、利吉も料理に舌鼓を打ち、その美味さをひとつひとつ褒め称えた。母も「おおげさよ」と笑いながらも、嬉しそうにそうした言葉を受け止めている。父は機嫌が良さそうに笑いながら、あれこれと近況を知らせた。学園でのことから世の情勢に至るまで――彼が伝えうる範囲で、という但し書きはつくものの――伝蔵の話題は尽きることなく溢れて母子を楽しませた。利吉も負けじと茶屋で働いていた間のことを面白おかしく取り上げて、場の空気を和ませる。食事を終えて、片付けまで済ませてしまっても続く親子三人分の笑い声は、家屋の隅々までを余すところなく満たして、そうして利吉の胸を優しくあたためた。家族水入らずの時間。幼い頃は、それさえあれば他には何もいらないと思っていた。
     けれども今、利吉はおのれの心の中にそれだけでは決して満たされることのない空白があることを知っていた。……甘酸っぱく、切なく、利吉の心の一番やわらかな部分を占めるその空白は、ただ一人の男の形をしている。
    「ねえ、あなた。子どもたちの話もいいけれど、半助さんはどうしてるんです。もう担任はもたれたのかしら」
     頑なにその話題に触れようとしない利吉を気遣うように、母はそっと口を開いた。利吉は努めて涼しい顔を繕いながら、「そういえばそうですね」などと白々しく調子を合わせてみせた。
     十三才の時には、父に会うなりまずその所在を尋ねていた。そのたびに「今回は戻らないそうだ」と返されて、ひどく胸を痛めたものだった。それでも「また今度会いに来ると言っていたよ」という慰めを、心の底から信じられるくらいのいとけなさは持ち合わせていた。
     十四才の時には、何気ない会話の流れでそれを探ることを覚えた。けれども返ってくる答えは同じで、そのことに対して利吉は変わらず大きな寂しさを感じるのと同時に、「やっぱりそうか」という諦めをどこかで抱くようになった。この頃には「来年こそは」という言葉も素直には受け取れなくなっていた。
     十五才になった今、利吉はもう大人であった。心持ちがどうであるかには寄らず、もはや大人として独り立ちせねばならぬ時機がやってきていた。だから土井のことを自分から探ったりはしないし、たとえ『思いがけなく』その話題が出たとしても、自分から飛びついていったりはしない。あくまでも何気なく、気のないふうに、むしろ何かのついでくらいの気持ちでなくてはならない。
    「あれは相変わらずだ。仕事に没頭しおって、昼も夜もない」
     だから父の返答を聞いても、決して心を乱されたりなどしないのだ。
     ――今年は私の元服の年なのに!
     吐き出す代わりに、利吉は膝の上に乗せていた手をぎゅっと握りしめた。自分はもう子どもではない。子どもではないのだから、彼の話題ひとつで一喜一憂したりしない。
     でも、この前は「来年こそは」と言ったというではないか。その前には「今度会いに来る」と。今度とはいったいいつなのだろう? 来年というのはいつのことを指していたのだろう? うそつき、うそつき……うそつき!
    「利吉」
     返事もできずにじとっと視線だけを上げる我が子に、父は呆れたように肩を竦めた後、懐から小さな包みを取り出して利吉へと差し出した。利吉はわけもわからずに受け取る。促されてふくさを広げると、
    「……矢立……?」
     そこには携帯用の筆記具がおさめられていた。美しい塗りとしっかりとした作りを見れば、上等のものとわかる。矢立は忍び六具の中の一つに数えられるほど、忍者にとっては重要な道具だ。利吉ももちろん元々所持してはいたものの、だいぶ古びていたので道々購おうとは思っていたのだった。
     これから忍者として独り立ちをする利吉に、まさしくぴったりの品であった。誰からの贈り物だろうか。利吉は父を見る。父は利吉を見る――そうして、にやりと笑った。
    「半助からだ。……元服の祝いに、と」
     すう、と息を吸い込むのに従って、胸が大きくふくらむのを感じた。驚きと、喜びと。言葉には表せないような感情のうねりで、利吉の胸はそのままどきどきと高鳴り始める。
    「半助さんが」
     吐き出した声は、少しだけ震えていた。
    「半助さんが、私に……?」
    「ああ。ずいぶんと悩んで、あれこれ見てたが」
     父の語りから、利吉は頭の中に線を描く。やわらかな頬、すっと通った鼻梁。線はそのままするすると懐かしいあの人の姿を描き始める。固い髪は手入れをしようとしないから少しぱさついていて、口元がほころぶとどこか幼く見えた。なのに、何かを考えている時のまなざしは、なんだか別の人みたいで。
     そんな目で、この矢立を選んだのだろうか。真剣に、真摯に……利吉のために。
    『そんなにかしこまらなくていいんだがなあ』
     父の言葉に、あの人はこう言って笑ったのだという。
    『いいえ。利吉くんには、よいものをあげたいんです』

     そのためにこれまで給金を貯めてきたのだから。

    「そういうわけだから、拗ねてばかりいないで、それで礼の一つでも書きなさい。渡してやるから」
    「――はい」
     ふくさごと胸に押し抱くと、胸から広がった熱がじわじわと広がって、もう指先までが熱く感ぜられた。ぎゅっと目を閉じると、どくどくと己が身のうちをすごい勢いで流れる血の音が聞こえる。
     ……忘れられてなんかいなかった! あの人はきちんと自分のことを覚えて、考えてくれていた。矢立も嬉しいが、そのことが何よりも嬉しい。嬉しくて、切なくて、なぜだかすぐにも笑い出したいような、泣きだしたいような気持ちになってしまう。むずむずそわそわとして、とてもじっとしていられない。そんな気分を味わわせてくれるのは、この世を隅々まで探したってただ一人しか居るまい。
     ああ、この気持ちをなんと呼ぶのだろう。父とも違う、母とも違う、茶屋で出会ったどの人とだって違う。特別で大切で、些細なことで利吉を天にも地にも連れて行ってしまう、ひどく衝動的な気持ち。
     あの人を想うこの気持ちをなんと名付けるだろう、世の人は、利吉は、あの人は――半助は。

     翌朝、鳥もまだ寝覚めぬうちに利吉は生家を後にした。もともと父に一目会えたら時間を置かずに経とうと考えていた。あと一刻、あと一日と言ってずるずると情に流されることは、利吉にも父母にもよい結果をもたらしはしないことをよく分かっていたからだ。
     文は二通用意した。一通は父母にあてたもので、これまで育ててもらった恩に対する尽きせぬ感謝の念と、この世で必ず身を立ててみせるという誓いを書き綴っておいた。昨晩の内に直接伝えてあるとは言っても、文字に起こすといかにも身が引き締まるように思われて、これはこれでよいものだ。
     逆に、もう一通を書くのは利吉にとって難儀なことだった。伝えたいことはいくらもあったが、そのどれもが書いたそばから重さを失って、上っ面だけのものになるような気がして、どうしても筆が止まってしまうのだ。
     結局矢立の礼を伝えるのみの簡素な文になってしまい、苦笑する。まあいいだろう、大切なことは直接会って言うに限る。
     そこに一文を付け足す気になったのは、たまたま墨が余っていたからだ。ふと思い出したのは茶屋で働いていた時によく聞いた小歌の一節で、思い返せば返すほど、なるほど今の自分の気持ちにちょうどよく合っているように思えた。

     ――空行く雲のはやさよ

     書き付けたあの言葉の意味に、半助は気づくだろうか。
     甘い想像にほころぶ口元をふと引き締めて、利吉は出てきたばかりの生家を振り返った。そうして深々と一礼する。……己を見送るやさしい二対のまなざしに向けて。
     きびすを返せば、後はひとりの道である。この身ひとつで果たして利吉はどこまで行けるのか。それを試すための道。
     大きく一歩を踏み出せば、吹き抜ける風がどこまでも心地よい。
     山田利吉、十五の春の終わりであった。
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