「……パーシヴァルか」
夏の終わりの夜に特有のほの甘い暗がりのなかで、闇に溶け出しそうな黒い服の後ろ姿が振り返りもせずにパーシヴァルの名を呼んだ。
夜更けが揺れる。だれもいない幽寂。町外れの宿を背にすれば眼前を暗闇の草原が覆い尽くし、煌々とひかる円月が闇夜を静かに照らしている。
「どうした。こんな時間に。眠れないのか?」
後ろ姿がゆっくりと振り返る。ジークフリートの横顔が見えて、彼が微かにわらっていることを察して、パーシヴァルは深く安堵した。それでもなお目を離したら居なくなってしまいそうな不安に押されるままジークフリートの傍へと急ぐ。真夜中のさなかで何をするでもなくただ棒立ちになっている彼は、近づいてくるパーシヴァルを一瞥したのみで特にそれ以上の反応を見せることはなかった。
「それはこちらの台詞だ。何をしている?」
「いや、特には。お前は俺を追ってきたのか?」
「……。俺はたまたま目が覚めて窓の外を見たら、お前が草原にぽつんと立っていたから様子を見に来ただけだ」
「そうか」
魘されたか悪夢でも見たか、いずれにしろ眠れないのだろう。眠れないから散歩に来ただけならばそれはそれで構わない。ただ、この男に単独行動をさせると往々にして身勝手に危ないことをするので、ひとりでいるところを見てしまった以上は捨て置くことができないのだ。
まして、このような夜更けに。
人間どころか魔物や獣の気配すら無いような暗闇の中にこの男を放したら夜の闇に攫われて居なくなってしまいかねない。放っておくことはできなかった。
「このようなところで何をしているんだ。夜更けだぞ」
はぐらかされていることに気づかぬふりで、何度でも問い直す。
ジークフリートは気を悪くするような素振りもなく、正面を向いて上空を見上げ、ぽつりとひとりごとのように呟いた。
「月が綺麗だったから見に来たんだ」
「……月?」
「ああ。今宵は、明るいな」
短い会話ののち暫く、沈黙が続いた。ふたりはただ黙ったまま夜に魂を投げるようにして丸い月を見上げ続けていた。月を浮かべた南西の空は美しく静かで、ずっと見ていると瞬く星々の天球に吸い込まれてしまいそうな気分になってくる。
軽く首を振りながら隣で空を見ているジークフリートの横顔を覗くと、意外にも彼の金色の瞳は眠気を隠さずに細められてとろりと溶けそうになっていた。
ふとした油断を見せつけられ、パーシヴァルは思わずどきりとする。
「……眠いのか?」
「お前の顔を見たら少し眠たくなってきた」
声には甘えるような響きがある。
月に照らされた端正な輪郭が光を溜めていて、綺麗だ。
「……ふふ、お前と一緒ならばこころよく眠れそうだ。なあパーシヴァル、俺の部屋に来ないか」
「なんだそれは……一緒に寝てくれとでも言いたいのか?」
「それがな。宿の部屋の空き状況のせいだと思うんだが、俺の部屋はひとりで眠るには持て余すほど、やたらにベッドがでかくてな」
満月と同じ色に煌めく瞳を気怠げに撓ませてそう語るジークフリートの声音は軽やかだ。
眠気に任せて叩く軽口か、あるいは些細な冗談なのかもしれない。
パーシヴァルは瞳を細めてジークフリートの表情を窺いながら、ぼんやりと、彼の眠るベッドに己も共に入る夜を思い描く。広いベッドならば身体が触れ合うことはないのだろうが、それでも寝返りをすればその揺らぎが直に伝わるような距離感で、ひとつの寝台で、一枚の寝具を分け合う夜を。体温、匂い、寝息の音。籠もる熱に汗ばむ感触までもを奇妙な臨場感と共に生々しく想像し、少しずつ、身体の芯に熱がおちてゆく。
うしろから抱き締めてしまえば何処にも行けまい。腕と脚を絡めて捕らえてしまえば、知らないうちに姿を消すような真似はできなくなる。抱き締める感触を想像する。血の通う肉体はきっとあたたかく、あるいは熱く、肌の匂いは生命の気配に満ちていることだろう。ふいに恋慕が燃え立った。ジークフリートをつかまえておきたいという願いに、不純な我欲が混じり合って物狂おしさがこみ上げてくる。
「……ふふ。そんなに困った顔をするな。無論、ひとりで眠れるから安心してくれ」
笑う吐息と掠れ声に想いが募り、脳裏が赤く熱くなった。敢えて冷静さを手放しながらパーシヴァルはジークフリートの名を呼ぶ。ヒクッと揺れた身体の奇妙な無防備さに甘い隙を見る。
「ならばお前の部屋に行く」
「いや、大丈夫だ。すまんな、本気にしたなら……」
「監視のためだ。また勝手に出歩かれたらかなわん」
一歩を踏み込み距離を詰めつつジークフリートの手を取ると、彼は抵抗もせず大人しいまま俯いて顔を隠してしまった。わざと指と指が擦れるような接触を経た後に手首を掴み、軽く引く。戻るぞ、と声を掛けてゆっくりと歩き出すと無言でついてきて、ふたりは黙ったまま月夜の中で草むらを踏み分け宿へと向かった。
ただずっと同じ体勢で、同じ位置関係と距離感を保ったまましばし歩いて、もうあと何歩で宿の裏口に辿り着くかというあたりでパーシヴァルはきつく握っていたジークフリートの手首を離した。解放された手がまるで縋り付くかのようにパーシヴァルの手にぶつかってくる。無意識か、意図があるのか。こちらの恋心を察して煽っているのかもしれない。
「……!」
まとわりついてくる手をぎゅっと握ると、ジークフリートが息を呑む気配が伝わってきた。挑戦的で攻撃的ですらある感情が細かなさざなみを起こしながら胸の底で揺らめいている。
「お前の部屋は何処だ。上の階か?」
身体を寄せ、耳元に言う。
そこの階段をのぼってすぐ右だ、と、声音を聞く限りでは冷静そうな返事が寄越された。
こうして物理的に捕まえてしまったためか、今はもう彼のその気配に不穏な浮遊感や儚さを感じることはない。それどころか逆に、むしろ重たく生々しいまでの存在感と色気がある。指を絡め合った手は汗ばんでいて熱いくらいだ。力強く、頼もしく、官能的な生命の温度。何処にも行かないよう、このまま繋いで閉じ込めてしまうことができればいいのに――。
「鍵は?」
「開いている」
「不用心だな。開けるぞ」
「ああ……」
扉を開け、ジークフリートの手を引いて部屋へ入る。小振りな荷物といつもの大剣と武具が部屋の隅に置かれている様子を横目に見ながら、扉を閉め、鍵を掛けた。月明かりの射し込む窓にカーテンを引いて、水差しを傾けて空のグラスに飲み水を注いでやる。それをベッドサイドに置いたのち、パーシヴァルはふたつある椅子のうちのベッドに近い方へと腰を下ろした。
「パーシヴァル、俺は、ほんとうに、ひとりでも……」
「寝ろ。俺はここに居る」
端的に命じる言い方をしたためか、ジークフリートは食い下がることなく素直な様子でベッドに腰掛けた。そのまま無言で靴を脱ぎ、寝苦しさがあったと窺える乱れた寝具を引いて整えながら、彼は身体を横たえる間際にパーシヴァルのほうへ視線を流す。目が合う。何か言われるかと思うも言葉は無かった。何か声を掛けてやろうかと思うも何を言うべきかはわからなかった。
恋の気配は邪魔に思えた。
ただ、惑わず何も思わぬままで大切に見守りたいのに。
「……」
名を呼ばれた気がした。
それも、定かではなかった。
ジークフリートはそのまま掛け布をかぶって身体を隠し、まるで眠ってしまったかのように無反応となった。
夜明けはまだ、遠い。