猫 俺の家は日が傾けば傾くほど、部屋の中にオレンジ色の光が差し込んでくる。西向きにバルコニーがあるこのアパートメントを、俺は案外気に入っていた。
「にゃあ」
「あ、あんた、また来たのぉ?」
洗濯物を取り込んでいると、いつもバルコニーにやってくる、少しばかりふくよかな灰色の猫がいる。首輪はついていないので、飼い猫なのか自由猫なのかは判別できないけれど、日当たりを求めてこの場所へやってくるのが日課になっているようだ。ご飯はもらっているのか、ちゃんとした家はあるのか……気にはなっているけれど、変なものを与えるわけにもいかないので今のところは声を掛ける程度に留まっている。
お邪魔しますよ。とでも言うように俺に向かって声を掛けてくる。そして、陽だまりの中に入って丸まって眠るのだ。フィレンツェでの生活は、毎日が慌ただしくて一日のうちのんびりしている時間もそう多くはない。その中で、ただ丸くなっている猫を見ている時間というのは、アニマルセラピーというべきか、自分の中で案外癒やしになっていたので、ペットを飼うのも悪くないと思う。
「俺もあんたみたいに一日寝てみたいもんだよねぇ」
人生の中で一日を布団の上で過ごしたことなんてない。何時如何なる時も、自分を磨くことを忘れずに走ってきた。そしてこれからもしばらく走り続ける予定だ。口には出してみたものの、一日を棒に振るなんてこと、自分には出来ないと思った。
「セナ! ただいま! お腹空いた~!」
玄関の方で騒がしい声が聞こえた。そうそう、俺にはもうペットがいるんだった。癒やされるかはどうかはわからないけれど、一緒にいると安心できて、俺のことが大好きで、俺の家に帰ってきてくれる唯一の存在。それがれおくんだ。
「あのねぇ。俺はお母さんじゃないんだから、あんたの帰りに合わせてご飯なんて出来てるわけないでしょ~?」
バルコニーから室内に向かって声を掛けると、パタパタとれおくんが走ってきて、ひょこっと外に顔を出した。
「お。猫だ。気持ちよさそうに寝てて羨ましいな~。いつも来るのか?」
「そうそう。だいたいね」
「ふぅ~ん?」
再び猫の方に視線を映すと、れおくんがじっと俺の方を見ているのが視界の端に映った。
「なぁに? なんか俺の顔についてる?」
「ン~? セナ、猫飼いたいのか?」
「なんでそう思うの?」
「ものすごくお世話したそうな顔してるから」
エメラルドグリーンの瞳を真ん丸にして、パチパチと瞬きをしたあと、れおくんはにぱっと無邪気に笑った。
「そんなことあるわけないじゃない。毎日忙しいし、日本とフィレンツェを往復しなきゃいけないし、時間的にも金銭的にもペットなんて飼う余裕ないでしょ」
それは事実である。猫を連れて毎回飛行機に乗るわけにもいかない。せいぜい今は、通り過ぎていく猫を愛でるのが手一杯だ。
「それに、今のペットはれおくんで充分だしねぇ?」
「どういう意味だよ~!?」
「そのままの意味でしょ」
クスクスと笑って、ボサボサのオレンジ色の髪を撫でた。指で梳かして引っかかってる部分を解いてあげる。
「にゃあ」
夕日もそろそろ沈んでいく時分だ。さっきまで丸まっていた猫は、ゆっくりと立ち上がり、のんびりと伸びをしてバルコニーから去っていく。
「またねだってさ、セナ」
「れおくん猫の言ってることわかるの?」
「ん? なんとなくな~? ばいば~い」
大袈裟なくらいに手を振ったれおくんが、取り込んだ洗濯物を抱えて室内へと入って行った。
「セナもお腹空いた? 外に食べにでも行く~?」
「あぁ、途中まで作ってたから、続き作るねぇ。れおくんは洗濯物しまっておいてくれる?」
「はぁ~い、お母さん」
「誰がお母さんだってぇ?」
わはは☆ とれおくんが笑いながら洗濯物をせっせと畳んでいってくれる。それを横目に俺は晩御飯作りに取り掛かっていく。合間にれおくんの姿を確認していると、途中まで畳まれた洗濯物の横で作曲を始めるのが見えたけれどこれもいつものことだ。やれやれ、その続きは誰がすると思ってんのぉ? ご飯が出来ても、曲ができるまで食べることはないのだろう。ほんと手がかかる。
……まったく。俺はペットを飼う余裕がないっていうか、あんたの世話で俺は充分すぎるほど手一杯なんだからねぇ?