江澄誕 2021 藍曦臣が蓮花塢の岬に降り立つと蓮花塢周辺は祭りかのように賑わっていた。
常日頃から活気に溢れ賑やかな場所ではあるのだが、至るところに店が出され山査子飴に飴細工。湯気を出す饅頭に甘豆羹。藍曦臣が食べたことのない物を売っている店もある。一体何の祝い事なのだろうか。今日訪ねると連絡を入れた時、江澄からは特に何も言われていない。忙しくないと良いのだけれどと思いながら周囲の景色を楽しみつつゆっくりと蓮花塢へと歩みを進めた。
商人の一団が江氏への売り込みのためにか荷台に荷を積んだ馬車を曳いて大門を通っていくのが目に見えた。商人以外にも住民たちだろうか。何やら荷物を手に抱えて大門を通っていく。さらに藍曦臣の横を両手に花や果物を抱えた子どもたちと野菜が入った籠を口に銜えた犬が通りすぎて、やはり大門へと吸い込まれていった。きゃっきゃと随分楽しげな様子だ。駆けていく子どもたちの背を見送りながら彼らに続いてゆっくりと藍曦臣も大門を通った。大門の先、修練場には長蛇の列が出来ていた。先ほどの子どもたちもその列の最後尾に並んでいる。皆が皆、手に何かを抱えていた。列の先には江澄の姿が見える。江澄に手にしていたものを渡し一言二言会話をしてその場を立ち去るようだった。江澄は受け取った物を後ろに控えた門弟に渡し、門弟の隣に立っている主管は何やら帳簿を付けていた。
列を横目に江澄の元までたどり着くと丁度先に見た子どもたちの番になっていた。三人の子どもたちと犬は江澄の前に横並びになって、手に持っていたものを背中に隠して顔を見合わせる。
「せーの」
「江宗主、お誕生日おめでとうございます!」
少し頬を赤らめながら三人の声が重なった。後ろに隠していた物を差し出し、江澄に受け取られると嬉しそうにそれぞれが持ってきたものがなんであるのかを必死に説明しはじめた。江澄はその言葉一つ一つに頷き礼と良く学び親に孝行するように言い、最後には三人の子どもと大きく尻尾を振る犬の頭を撫でた。撫でられた子どもたちと一匹は「きゃー」と小さく叫んで藍曦臣の横を駆け抜けていった。
藍曦臣は江澄の後ろに積み重なった品々を眺め、子どもたちの背中を眺め、子どもたちの言葉を思い出す。
お誕生日おめでとうございます、と言ってはいなかったか。
誕生日?
自分の血の気が下がったのを感じながら、藍曦臣は徐に指先を江澄へと向けた。もしかしなくとも、今日は江澄の誕生日なのだろう。江澄と恋仲になってもうすぐ一年になるが、そういえば藍曦臣は江澄の誕生日を知らなかったことに今更ながら気が付いた。
「あの、江宗主……?」
「申し訳ない。澤蕪君。見ての通り立て込んでいてな。中で待っていてもらえないだろうか。おそらく半刻ほどで終わる」
震える指先が江澄に触れる前に、視線をちらりと寄こした江澄に宗主の顔で言われてしまう。大人しく口を噤み、顔見知りの江氏門弟の案内に従い藍曦臣は江氏私邸内へと足を向けた。
家僕に出された茶をすすりながら江澄の私室で待つこと半刻と少し。ようやく私室の扉が部屋の主によって開かれる。
「お待たせした」
江澄の後ろから家僕が続いて茶を持って入って来た。藍曦臣の目の前にある茶杯と茶壷を片付け、代わりの物を配置する。茶請けだろうか。瑞々しい果実も添えられた。
「いえ、あの、江宗主」
「なんだ」
「先ほどのあのやり取りは……」
「あぁ、いらんと言っているのに商人どもは誕生祝いにかこつけて取引したい品を持ち込むし、民は野菜だ果物だのなんだの持ってくる。俺に渡してる余裕があるなら自分たちの生活の糧にしろと言っているのに、俺に渡す程度で破産などしないと豪語する」
江澄は舌打ちをして、家僕が置いた茶杯を掴むと一息に飲み干す。ことりと小さな音を立てて卓に戻された茶杯に、家僕が二杯目を注いだ。
「誰かさんのおかげで生活が安定してるから余計な心配するな、と言われては宗主も受け取らざるを得ません」
家僕はどこか自慢げな笑みを口元に浮かべていた。雲夢の民らしい物言いだ。そんなことを言いそうな人を藍曦臣も一人思い浮かべることが出来る。甘豆羹を売っている店主だ。他家の宗主だろうが何だろうがどこのお偉いさんだろうが自分には関係ない。江宗主の友人だというのであれば、それは自分にとっても友人だと雲深不知処では考えられないような論理で快活に笑い、友人だからと甘豆羹を江澄の分だけでなく藍曦臣にも少し多めに注いでくれるような人だった。
実際に言ったのが甘豆羹売りの店主なのか、別の誰かなのかは分からないが、甘豆羹売りの店主が言っている姿を思い浮かべて藍曦臣は微笑ましくなる。
「あぁ。いらんと言っても減らず口をたたいては寄こしてくるから、こちらも受け取るようにした。だが、酒以外の野菜や果物は俺だけでは消費できないからな。門弟たちの食料に回させてもらっている。余れば炊き出して民に戻している」
その炊き出しも評判は良いんだと笑いながら家僕は下がっていった。ようやく二人きりになり、藍曦臣はずっと胸の内にあった問いを江澄へと投げかける。
「今日、誕生日なのですか?」
「うん? あぁ、そうだが。それがどうした?」
否定して欲しかったのにすんなりと頷かれてしまう。藍曦臣は思わず天を仰いだ。藍曦臣の様子に首を傾げながら、江澄が二杯目の茶を飲みほす。
「どうしたんだ? あなたはさっきから」
「……私、あなたが今日誕生日だって聞いていなかったんですが?!」
思わず声が大きくなる。ここが雲深不知処であれば罰を受けることだろう。それほどまでの声を出したというのに、江澄は特に驚く様子もなく鷹揚に頷く。
「あぁ。言ってないからな」
他から聞かなければ知るまいよ、となんでもないことのように笑った。
およそ一月前に江澄からしっかりと藍曦臣の誕生祝いを贈られた。当日は会えなかったが二日ほどたった後に雲深不知処へと来てくれたのだ。他家から祝いの品を贈られたが、そのどれよりも江澄からの贈り物は藍曦臣にとっては価値があり嬉しかったのだ。贈られたものは珍しい香木で、使うとなくなってしまうのがもったいなくて一かけら焚いてからは大事に取ってある。何故あの時自分は江澄の誕生日がいつなのか確認をしなかったのか。いや、なぜ江澄は教えてくれなかったのか。せめて今日の打診をした時に言ってくれさえすれば、贈り物を用意できたのに。
「どうして! 私は貴方に何にも用意していないよ! あぁ、今からでも何か祝いの品を……」
「いらん」
「何故!」
「祝いの品だか何だか知らんがいちいち挨拶をしたりされたりするのが面倒で極力知られないようにしていたんだ」
「……金宗主は?」
「私とあなたの仲なのに?」と責めたくなるのをぐっとこらえ、金凌からの贈り物の有無を確認した。これで金凌からも贈り物がないというのであれば千歩譲って自分が贈り物を渡せなかったことを我慢しても良い。競うわけでは無いし金凌が江澄にとって大事な甥であることは分かっているが、自分とて江澄にとって大事な相手であるはずなのだ。
「阿凌なら毎年毎年いらんと言っているのに贈ってくるな。昔は本人ごときた。さすがに最近は当日来ることはないがな。無駄遣いをするな、と言っているのに毎回金氏の財に任せて高いものを贈ってくる」
眉間に皺を寄せてはいながらもそこはかとなく江澄の顔は嬉しそうだ。藍曦臣とて自分が贈った物で江澄を喜ばせたいと思っているのに。それを本人から望まれないのだとしたらどうすればよいのか。
「金宗主は贈ってるじゃないか。どうして私からはいらないの?」
自分でも恨みがましい声を出している自覚はある。さすがに思うところがあるのか江澄が藍曦臣の視線から逃げるように横を向いた。
「……別に」
何かを裏に意図を隠すような態度に藍曦臣の眉が小さく跳ね上がる。
「江澄? 何か隠していませんか」
「別に隠してなどいない」
「本当?」
「……本当だ」
目を合わせてこないことから嘘だと分かる。藍曦臣が小さくため息を吐くと江澄の身体が小さく揺れた。手を江澄の頬に伸ばし顔を向けさせ目を合わせる。
「嘘ですね」
「おい。決めつけるな」
「貴方と思いを交わしてもうすぐ一年になるのに大事な人の誕生日を教えてもらえない、祝わせてもらえない私の気持ちが分かる?」
「……」
「江澄?」
「何もすべてをあなたに言わなければいけないなんてことはないだろう」
戸惑うように揺れる瞳に、もう一押しと名を呼ぶが江澄は小さく首を振るばかりだ。こうなると江澄は頑なで、たとえ牀榻の中で少し意地悪をしたとしても教えてはくれないだろう。
今までの江澄の言動を鑑みるに、大方この関係が終わった後に藍曦臣から贈られた物が手元にあるのがいやだとかそんなところだろう。藍曦臣に贈られた贈り物が香木と言う消耗品であったことを考えると当たらずとも遠からずなのではないかと胸中で結論付けた。
「……分かりました。後日送るよ。何か欲しいものは?」
「特にはないし、今年はもう十分貰ったからいい」
「何もないよ?」
「偶然とはいえ、貴方が誕生日に隣にいてくれた。それだけで十分だ」
はにかむ様にして口にされた言葉に江澄への愛おしさが溢れ藍曦臣は胸がわし掴まれたような心地になる。贈るという行為に拘りかけたが何よりも誕生日に自分が江澄の私室にいることを許された幸運に感謝すべきだ。もしも逆の立場であれば、自分も同じことを言っただろう。
「……」
「阿凌以外で近しい相手に祝われるのは久しぶりだ」
「金宗主はいつからお祝いを?」
「五歳ぐらいだったかな。絵をくれた。今でも取ってある。気を利かせたのか俺の誕生日の三日前くらいから金凌を雲夢に寄こしていた」
誰がとは江澄は口にしなかったが金光瑶のことだと察し、藍曦臣は目を伏せる。甥に甘く同じ叔父として金凌を介して二人に交流があったことは知っていた。金光瑶であればそういった気遣いをしただろうことは容易に思い浮かぶ。彼のことを思うとまだ藍曦臣は心の端で出来たばかりのかさぶたをはがされるような小さな痛みを覚える。だが今は彼と自分の過去のことよりも自分が知らなかった江澄の誕生日を知っていたことの方に衝撃を受けた。
「彼が知っていたのに私が知らなかっただなんて……」
「俺に興味がなかったんだろう?」
「そんなこと……!」
ない、とは藍氏の家規故言い切れなかった。宗主同士のやり取りは行っていたが、その枠を超えた関わりはほとんど持っていなかった。また私的なことに踏み込もうとしなかったのも確かだ。この時期に金麟台に訪れていたこともある。金凌が不在なことを金光瑶に尋ねていれば理由は聞いていただろう。それを覚えていないのは、その情報が当時の藍曦臣にとっては些末なことだったに違いない。
押し黙ってしまった藍曦臣の頬を江澄が面白そうに突いてくる。よほど情けない顔をしていたのか、江澄が噴出した。
「宗主になってからは俺の誕生日をわざわざ祝いに来る暇があるなら金氏内の地盤を固めろと言ってある。だから、当日金凌以外の誰かに私邸で祝われたのは久しぶりだ」
目を細めて江澄は口角をあげて微笑む。藍曦臣を見ているようでどこか遠くを見るような瞳に藍曦臣は奥歯を噛んだ。民に祝われ門弟からも祝われていても江澄を家族として祝ってくれる人間は長らく金凌以外いなかったのだ。江厭離の生前か、温氏襲撃を受ける前まで遡るのだろう。
衝動のままに藍曦臣は椅子から立ち上がると江澄の元まで三歩で移動し、座ったままの江澄を前から椅子ごと抱きしめた。
「おい。痛い。どうしたんだ突然」
「これからは私が毎年祝いますから」
生まれてきてよかったと、年を重ねることが出来て良かったと思ってもらえるように必ずや自分が傍にいなければ。心に誓い、抱きしめる力を強めると、なだめるように背中を二回叩かれる。ゆっくりと腕の力を抜いた。
「そうか。楽しみにしている。まぁ、今日は精いっぱい俺を甘やかしてくれ」
「えぇ。喜んで」
耳を薄らと赤くした江澄に藍曦臣は満面に笑みを浮かべると掬うように江澄の両頬に手をあて、甘やかすべく瞼に唇を寄せた。
二か月後。
本人とともに一枚の絵が蓮花塢に到着した。「遅くなりましたが」の言葉とともに藍曦臣から贈られたその絵は奥に雲深不知処と思われる山と寒室に見立てた小さな家が描かれ、手前には美しく蓮が咲き誇る蓮花塢と江氏の私邸が描かれていた。現実ではあり得ない構図ではあったが、藍曦臣の手によるその絵を江澄はいたく気に入り、私室のどこからでも見える場所に飾られている。