ひらひら おにぎり屋の店の二階、木造の部屋の窓を開けて風を招く。四月になっても陽が沈めばひんやりする空気にベランダに出る気にはならず、その手前に座り込んでカッとなった体温を冷やした。
大して広く無い部屋だ。視線を向けるだけでここからでも冷蔵庫が見えて、その中に入れた物のことを考えた。
「はぁ…」
一緒に食べようと思って持ってきた時には、まさかこうなるとは思わなかった。どちらも悪くないのに、喧嘩するほどのことでもないのに、治は頭を冷やすと言って外に出て行ってしまった。
正しいことを言えばいい、というだけではないことはわかってる。でも、他にどう言えば良かったのかも、まだわからない。お互いを思えばこその衝突だって、わかってる。
やはり恋愛は、俺には難しい。
◇
「あれ…きたさん…?」
「おう、もう起きてええんか?」
「えっ、待って…今、何時?」
治が側のスマホを見た。寝ぼけていた顔が見る見るうちに覚醒していく様子が見てとれた。
「五時?…夕方の?…うそやん」
北は畳み終わったシャツを布団の側の収納ケースにしまった。
「ははっ。ええって、気にせんで。それよりも、腹すかな─」
「ええわけ、ない!」
治が慌てたように北の元に寄って、後ろからぎゅっと抱きしめてきた。
「ほんっまにすんません!」
「ええって。映画はまた見に行けばええんやし」
後ろの治に手を回し、腰の辺りをトントンと叩く。
「でも」
「それよりも疲れとったんやろ。明日からまた仕事なんやから、今のうちに寝とけ。それかなんか食うか?」
「大丈夫です。ほんまにすんません。今から行っても、まだ上映時間ありますかね」
治が布団に戻りスマホを操作しだした。諦めきれず無理にでも行こうとしている治のスマホを北はその手ごと掴んだ。
「また今度にしよ。お前鏡見てみ。クマひどいで」
「元からこんなもんですって」
「んなわけないやろ。専門行ってからこっち、ずっと頑張り続けて疲れとるんやって」
「いつの話してるんすか。ほら、こうしてる間にも時間もったいない」
北の手を解いた治がすくっと立ち上がって、寝室から出て行こうとするのを北は追った。
「言うてしっかり布団で寝とったやん。俺は無理して欲しくないねん」
「ほんの少しだけ仮眠取ろう思うて。でも、目覚ましかけてました!」
「ほら、仮眠必要なほどやん」
くるりと治がこちらを振り向いた。
「ほんま、寝坊したんは悪かったです」
「それは別にええねんって。でも、寝不足やと体も壊すで」
「大丈夫です」
「大丈夫ちゃうやろ。もう子どもやないんやから、自分の体調管理ちゃんとせな」
「わかってます!いつもはしてますって」
「わかってないやん。そんなクマ作っても説得力ないって」
「だから、大したことやないって!」
「自覚しとらんだけやろ!」
北は自分がいつもより大きな声を出したことには気がついた。でも、止められなかった。
「…言われんでも、自分のことはわかるって!俺のことわかってないのは、北さんやろ!」
「俺は、お前が心配で!」
「こんな楽しみにしてたん俺だけか!」
治の声は北に被せるようにさらに大きくなっていった。
「俺かて楽しみにしてたけど、ここで無理してもあか─」
「あぁ、もう! だから無理してへんって!」
多分身長差は10センチもない。なのに怒気を孕んだ治の声は勢いよく振り下ろされたように北に直撃した。肩がびくりと跳ねた。
「あっ、すんません、俺…」
「…わかった。無理してへんなら、ええ」
「ほんま、すんません」
「でも、こんな雰囲気で、俺は出かける気にならん。すまん」
「…はい」
お互い無言になって、北は自分が肩で息をしていることに気がついた。自覚しているよりも激昂していたようだった。
「ちょっと、頭冷やしてきます」
長いのか短いのかわからない静かな時間の後、治が玄関から出て行った。
◇
久しぶりに大きな声を出した。昔は怒鳴り合う双子を嗜めた。治と付き合うようになってからは時々意見のぶつかり合いはあるものの、喧嘩にはならなかった。こんな風に感情的になったのは、いつぶりだろうか。
ベランダの前に座って外を眺めていると、向こうの一軒家の庭の桜が咲いているのを見つけた。治からそんな話を聞いたことはないから、ここから桜が見えることに気がついていないのかもしれない。
一つ、また一つと、街灯に照らせれた白い花びらが舞っていた。それらがコンクリートの上に落ちて行くのを夜風に当たりながらしばらく見ていると、その上に人影が現れた。おおよその背丈や歩き方で誰かはわかるものの姿が曖昧にしか見えず、それですっかり陽が暮れていることに気がついた。
「治」
声をかけると、その人影がこちらを見上げた。
「…北さん」
「冷えるやろ。はよ、入り」
「…うん」
少しすると玄関の扉が開く音が聞こえて、続いて蛇口の水を出す音、ガラガラとうがいの音が聞こえた。木造の建物特有のギシ、という音も聞こえてから、ただいま、と声をかけられた。
「おかえり」
「…寒くないっすか」
「ちょうどええよ。…あそこの桜見えんの、知っとった?」
治が北の隣に来て腰を下ろした。
「あー、今朝洗濯もん干すときに見えました」
「そうか」
「…映画見て帰ってきたら、ここで北さんと夜桜見て、飲んだら楽しいかなって…」
「…そうか」
「少し、話しませんか」
「せやな。お茶、淹れてくるわ」
台所に向かう途中、居間のローテーブルにコンビニの袋が置いてあった。外に出た時治がお菓子でも買ってきたのだろう。咄嗟に財布も持ったのだろうかと思ったが、今はスマホでも支払いができるのだと思い直し、便利なもんだなと感心した。
「さっきは、怒鳴って、すんませんでした」
ゆらゆらと湯気が立つ湯呑みをお盆に載せ治と自分の間に置いて再び座ると、治が話を切り出した。
「俺も、お前の気持ち考えんと、すまんかった」
「いえ。北さんは何も悪くないです。俺が寝坊したのに、北さんは来てくれてて、しかも心配してくれはったのに…ほんまにすんません」
「…あんな、治。俺は、お前のことが大事なんや」
「…はい」
「でも、俺がお前を大事する方法と、お前が俺を大事にする方法は、ちゃう時もあんねんな」
「そう、かもです」
「さっきのも、どっちも悪くないと思う」
「はい」
冷めてしまう前に飲んだら、と治に湯呑みを手渡す。治は一口飲んで、ふぅ、と息をついた。
「俺は、北さんと一緒にいるだけで幸せやなって思います」
「うん」
北もお茶に口をつけた。窓際で少し冷えたらしい手に湯呑みはほっとするような温度だった。
「仕事も好きだし、お陰様でお客さんにも恵まれとると思います。でも、俺にとっては、たまにしかできない北さんとのデートが楽しみで、一踏ん張りできる時も、あります」
「…うん」
「営業が終わってへとへとで疲れとるときの床掃除とか、正直、今日くらいは手を抜いてもええんちゃうかなって思う時も、あります」
「うん」
「でもね、こないだとか、後少しで北さんと映画やぁって思って、ポップコーンは塩にしようかキャラメルか、両方載ったハーフにしたい言うたら、北さんなんて言うかな、とか考えながら掃除したら、終わりました」
「…わかるで。俺も作業しんどい時、お前が俺の飯食う時の顔見るの楽しみに、頑張らなあかんなって思う時、あるよ」
「…北さんが俺を心配してくれたのすごくわかりますし、ほんまにありがたいって思います。やっぱり考えたら、ちょっと俺、疲れっとたし、無理してました」
「…そうか」
「これからは、無理してないか、ちゃんと自分で線引きします」
「うん」
「だから、俺が無理って言うてない時にもし寝坊したら、北さんは起こしてください」
「わかった。俺も、決めつけないで、お前にちゃんと聞く」
「はい」
北が湯呑みを取って口をつけると、隣で治も同時にお茶を飲んでいた。
「…ふふ。同時でしたね」
「せやな」
「北さん、俺、腹減ってしもうて」
「せやろ」
「でね、雪苺子買うて来ました」
「ゆきいちご?」
そう、と言いながら治がお盆を持って立ち上がる。少し冷えを感じてきた北は窓を閉めて後を着いて行った。ローテーブルの上のビニール袋から治が出したのは、白とピンクの大福のような物だった。
「求肥の中にクリームと苺が入っとって、美味しんですよ。お茶にも多分合う」
「あっ、俺も苺ある」
「え!」
北が冷蔵庫からパックに入った大粒の苺を出して、ご近所さんにええやつもらった、と治に見せた。
「ほら」
「うわ、大きい!甘そ!」
「洗って食うか」
「俺やります。ふふ、俺らおんなじようなもん持ってたんすね」
「せやな」
治がどんぶりに洗った苺を持ってきて、思わず北は何でやねん、と突っ込んだ。
「大きい苺やから、いっそどんぶりに載せようかなと」
「いやだから、それが何でや」
治が買ってきたコンビニデザートの封を開けて、どんぶりと一緒に持ってきた小さい平皿に大福の形のそれを載せた。求肥の柔らかそうな生地を見たら、腹が思い出したように空腹を訴えてきた。
「いただきます」
「いただきます」
「…苺、うんまぁ。これほんまにええやつですね」
「これもうまいで。ちょっと甘いけど」
「あ、北さん、粉ついてる」
「ん?」
どこ、と治に聞こうとすると避けられないほど近くに治の顔が近くにあって、口の端をぺろ、と舐められた。
「…言うだけでええやん」
「ふふ。ごちそうさまです」
「あほ」
「北さん、あんね」
「なん?」
「さっき北さんが、映画はまた見に行けばええって言うてくれたの、一人で歩いて思い出してたら少し嬉しかったです」
次は苺を頬張った。確かに、すごく甘くて美味しい。
「北さんは、これからも俺といてくれるつもりなんやなって」
「…まあな」
「俺も、そう思ってます」
「そうか」
「…北さん、やっぱ腹減りました。なんか、うまいもん食い行きましょ」
「ふふ、せやな」
それぞれ大福を食べきったところで二人で外へ出た。
「散り始めてますね」
桜の下を通ると先ほど部屋から見えたように花びらが落ちてきた。ただ思っていたよりもひらひらと綺麗なので、北は目の前で落ちるそれを目で追った。
「…っと。掴まえた!」
北の前に飛び出した治が手のひらを北に見せた。
「ははっ、うまいなぁ」
近所の焼肉屋に行った帰り、再びここを通った時には北も花びらを追いかけた。そして部屋に帰ってきてから、残した苺を二人で食べた。