家族【治北】「……え?」
視界が薄暗い。おかしいと思い寝ぼけた目を開くとやはりそこは物の輪郭がぼんやりとするほど暗く、北の記憶にあるさっきまでの自室の明るさがどこにもなかった。少し横になる、と布団に潜ってからだいぶ時間が経過したことが伺えた。
「あかん」
すっかり寝坊をしてしまった。
今のうちにと今日の今日まで農業機械の手入れや倉庫の整理、今後やってみたい農法や作ってみたい野菜のことを調べていると、大晦日とはいえいつもと変わらない忙しさで動いていた。そんな北を見た祖母や治から、夕食の支度はしておくから夜更かしに備えて少し休んだら、と提案を受け、台所に立ってもあまり役に立たない自覚があるため二人に甘えて二階の自室に下がった。ひんやりとした布団に体をもぐらせても大して眠気は来ないだろうと思っていたが、どうだろう、自分で思っているよりも疲労していたのかもしれない。
自己管理の甘さに反省しつつ、まぁ年末くらいはいいかと割り切って底冷えするような木造の階段と廊下を渡る。成人男性が歩くとぎしりと音を立てるから、改築や建て替えについてそろそろ本腰を入れて考えなければいけないのかもしれない。そうして暗い廊下の途中、明かりが灯る台所へ足を向けた。賑やかなテレビと人の声が漏れて聞こえる。
「すまん、めっちゃ寝た」
「あ、北さん」
「信ちゃん、もう起きてええの?」
「うん。だいぶすっきりした。何も手伝えてなくてごめん」
ええって、と朗らかな声とぐつぐつ鍋が煮える音、トントンと包丁がまな板を打つ調子が心地良かった。
「あー! 信ちゃんや!」
「おぉ、もう来とったん」
姉夫婦と甥っ子もとっくに到着していたようだ。家の敷地に車が入ったエンジン音すら気が付かなかった。大学生の弟は今年は帰ってこないらしいから、これで皆揃ったことになる。
台所から続いている居間に顔を出し挨拶をすると、こたつとエアコンが部屋をほっこりと暖めていた。
「治、何かやることある?」
「ん? あー、そしたらこれ運んでもらってもええですか」
瓶ビールといくつかのグラス、根菜の煮物が載ったお盆を渡された。北の父親と義兄が座る居間のテーブルに運ぶと他の配膳をしていた姉がグラスを大人に配った。
「姉ちゃん、おかんは?」
「いつものお寿司屋さんに取りに行っとる。ほら、あんたも座り」
配膳くらいは手伝おうと思ったのだが促されるままこたつに座った。するとこの場の唯一の子どもである甥っ子はクリスマスに買ってもらったと言うヒーローものの剣のおもちゃを鳴らしながら、北にこのキャラクターは知っているか、こんなにもかっこいいのだ、と熱心に布教しに来た。
「さっきな、おさむくんとたたかってな、おれ勝ってん」
「ほんま」
「うん! おさむくんからだ大きいねんけど、ぜんぜんよわかった」
高校時代は誌面に載ることもあった治のことを弱いと言うのが、手を抜いていたとか子どもの無邪気さとかを分かっても可笑しくて声を上げて笑った。
「またあとでたたかおう!」
「ええよ。今後はやっつけたるからな」
醤油皿と取り皿、たくさんの箸を一度に持ってきた治が答えると、甥っ子は何かのポーズを取っておもちゃを鳴らした。
「お前も座ったら」
「もう少しで終わるから、そしたら」
父と義兄にビールを勧められたが、治がまだ飲まないのならと遠慮した。
「えぇ! ほんまに!?」
一際大きな声で姉が笑ったのでそちらに目を向けると、高身長な姉よりもさらに高いはずの治が背を丸めて流しで何かをしながら肩を揺らして笑っていた。すると祖母も笑って治の肩を叩く。
「あれ、帰ってきたんちゃう」
「あ、俺玄関に行ってきます」
ごしごしと手をタオルで拭いて袖を捲った腕で珠のれんを上げて治が廊下に出ていった。母が帰ってきたのかもしれない。
北の目の前には唐揚げ、サラダ、解凍した蟹、漬物などが続々と並びテーブルの天板を埋めていった。
「ただいま〜」
おかえり、と母に返したが、あんな今そこでさ、と早速始まる会話にかき消されてしまった。
「お母さんお寿司どうしたらええですか」
続いて治も入ってきて、両手が塞がってるからか珠のれんが頭にかかりチャラ、と鳴った。はきはきとしゃべる母の声に調子良く相槌を打つ治の声を聞きながら、テーブルの上に寿司のプラスチック容器ごと置けるスペースを開けた。
「治ちゃん、お吸い物って何を入れるんやっけ?」
「あ、おばあちゃんそれ俺がやるんで、もう座っとってください」
遠慮がちな祖母に、ほらもうすぐテレビ始まりますよ、と背を支えながらこたつに誘導した治は再び台所に戻りコンロに火をつけた。
「なに? 北さん」
「ううん。それええ匂い」
「ほんまに」
治の隣に立って鍋の中を覗いた。
「これ三つ葉?」
「そう」
他にはかまぼこや椎茸がゆらゆらと鍋の中で揺れていた。ぼんやりとそれを見ている北の隣で、治は人数分のお椀を出しその中に色のついた丸いお麩を入れていった。暫くすると、湯気が立つ鍋の中身をお玉でそっとお椀に注いでいった。
「疲れたやろ。こんなにたくさん、人数分のご飯用意すんの」
「全然。でもお腹空きました」
ははっと笑い合って、北はお盆を使ってお吸い物を運んだ。
テーブルの上が一杯になってこたつを囲む人もいつもより多く、北と治は隣に置いた組み立て式の小さいテーブルについた。つけっぱなしのテレビでは恒例番組の見どころを紹介している。
「乾杯」
父の一声でみんなグラスを合わせた。北家の大晦日の食事が始まった。
「はぁ、腹いっぱい」
「たくさん食えたか?」
「それはもう、いっぱい」
食事が進み甥っ子が満腹になると治に戦いを仕掛けた。隣の客間に移動した二人がこんな季節なのに汗をかいて戻ってきたのを見て一同驚いた。北は治が戻ってきた後のために取り皿におかずをこんもりと載せておいた。それを見て喜んだ治がぐいっとビールのグラスを煽るとすぐに黄色に輝くものが注がれて、恐縮しながらも気持ちがいいほどに飲み食いをしていった。
祖母の昔からの贔屓の店の蕎麦と治の手作りのめんつゆで作った年越し蕎麦を食べる頃には甥っ子と姉は部屋に下がっていて、父は気がつけばこたつに入ったまま寝ていた。
祖母がそろそろ寝ようかと言うと、治が手伝って部屋へ連れて行った。数多くの食器は、起用にも治が食べながら飲みながらお皿が空になるごとに片していったので流しにはつけ置きしておくものだけが残っていた。
「ほんまに疲れたやろ。ありがとうな、何から何まで」
治は自分が寝ている時から最後まで台所に立っていた。こんなも動いていたのでは休日ではなくまるで仕事だろうと思った。
「全然。ほんまに皆さん優しいし楽しかったです」
順番に軽くシャワーだけ浴びて、先ほど北が寝ていた布団の隣にもう一組み敷いた。その布団の中でどちらともなく手を繋いだ。
「それは、お前だからやろうな」
北の家族と並んで笑っていた姿を思い出す。あまりにも馴染んでいて、今年初めての光景とは思えないほどだった。
「……さっきね、おばあちゃんから言われたんですけど」
布が擦れる音がして治がこちらを向いた。
「ん?」
「俺が来てくれて、ほんまに嬉しいって」
「……部屋に連れてってくれた時か」
治の手が北の手を握り直す。
「俺と北さんが一緒に台所立ってるの見て、北さんがほんまに嬉しそうやったって」
「……そう」
「俺も今日、北さんちに来れてほんまに良かったって思ってます」
「うん」
治が楽しくしているのを見て、なんとなくじっとしていられなくて治の隣に立った。おそらく、嬉しかったのだと思う。あまりにも普通に受け入れられている治が、そして北の家族を受け入れている治が。
「お前が、みんなと仲良ぉしてるのを見て、家族みたいって思うた」
北も体を治に向けた。
「……俺も、こういうの、ええなって思いました」
布団を超えて治の腕の中に入っていった。
「うん。ええな」
顔を上げると治もこちらを見下ろしていて、一度、キスをした。
「今年も、よろしくな」
「こちらこそよろしくお願いします」
そう言う言葉を朝起きたら何度も交わすのだろう。それが今日だけでなく、来年もそのまた来年も続けていけるのだろうと思えて、北は治の胸の前で顔を綻ばせた。