Intergalactic■おさななじみ
宗教画の天使みたいな巻き毛に大きな瞳、愛くるしい笑顔——実家から持ち帰ったアルバムに挟まっていた古い写真に、薫は顔をしかめた。
天使と見紛う幼い虎次郎の隣に立っている仏頂面の幼児は薫自身だ。背景から察するに幼稚園の園庭で撮られた写真に違いない。
「こんなものが、まだ残っていたとはな」
思案のすえ、そのまま挟んでおくことにしてアルバムを閉じる。先日オンラインで受けた取材の際に求められた「子ども時代の写真」には、単独で小学校の門の前に立っている一葉を使うことにした。出身校の紹介も兼ねられて一石二鳥だろう。
「カーラ。このデータをメールに添付して○○誌に送る準備を」
スキャナアプリで撮影した写真データをパソコンに転送しつつ、に声をかける。
「OK、マスター」
優秀な秘書であるカーラが定型文をチョイスして作成してくれたメールに目を通し、送信の指示を出してから、薫はもういちどアルバムを開いた。
虎次郎と薫は幼少期から言い合いや競争ばかりしていたのだが、なぜか母親同士のウマが合うらしく、こうして並んで写っている写真が多い。幼稚園、小学校、中学校……高校にもなるとさすがに数はぐっと減るが、入学式や卒業式といった記念の日には必ず、仏頂面の薫に笑顔の虎次郎がセットで写っていた。
「あいつの実家にも、同じ写真が残っているんだろうか」
独り言のつもりだったのだが、カーラがピッと反応する。
「『あいつ』とは南城虎次郎でお間違いないでしょうか。お調べいたします」
「待て、待て、カーラ、そんなことはしなくていい」
薫は慌ててカーラを制した。
「失礼しました」
「三十分ほど休憩する」
こう言えばカーラもスリープモードに入る。
閉じたアルバムを棚に差して、薫は溜息をついた。
「あのころは背も俺と同じくらいで、まだかわいげがあったのにな」
いつのまにか、身長も体重も大きく差をつけられてしまった。変わらないのは、いまだに時折向けられる屈託のない笑顔だけだ。
——薫! ビーフしようぜ!
——薫! これ、味見してくれよ!
——薫! 賭けようぜ!
——なぁ、薫……
虎次郎のほうでは、自分たちのあいだにある何かが変わったなんて思ってもみないのかもしれないなと、薫はもういちど溜息をつく。何年経っても、見下ろされることにも逞しい身体つきにも慣れることができずに戸惑いつづけているのは自分だけなのだと思うと、ひどく悔しくて、理由を見つけては突っかかっていかずにいられない。そんな薫の子どもっぽさを、虎次郎が許してくれているのも分かるから、なおさらに腹が立ってしまうのだった。
◆
書店でたまたま手に取った雑誌によく知った顔が載っているのに気づいて、虎次郎は「げ」と声を漏らす。
【話題のAI書道家・桜屋敷薫先生の素顔に迫る!】
特集記事のタイトルを背負って優雅に微笑んでいる男とは腐れ縁の仲だ。昨夜も遅くまで、虎次郎の店に居座ってクダを巻いていた。
記事の中身まで読む気はないが、パラパラとめくってみる。一枚の写真が目に止まった。
「小学校の入学式んときか」
幼い薫が、自分たちの出身校の前に佇んでいる。にこりともしていない薫は、年齢よりも大人びて見えた。
確かこのとき、近くに虎次郎もいた。双方の母親に促されて、ふたり並んで撮った写真もあったはずだ。母親が処分していなければ、実家に残っているだろう。
「こうして見ると、変わってねぇなぁ」
虎次郎は思わずひとりごちた。ぱっと見では男か女か判然としなかった薫は、そのまま成長して、確かに男だと分かるのに女よりも妖艶な雰囲気を漂わせる大人になった。先日のバカンスでその脚に見惚れてしまった苦い記憶が甦ってくる。
「反則だろ、あんな」
ふだんは日差しから隠されているおかげで抜けるように白いままの肌は、撫でれば掌に吸いついてくるに違いない肌理の細かさで……持ち主が薫だと分かったあとも、しばらくは目が離せなかった。
「そういや、風呂にいっしょに入んのも久しぶりだったな」
高校の修学旅行以来か。盗み見た全身の肌も、しっとりとなめらかな輝きを放っていた。まさかとは思うが、女たちのように高級なボディクリームで手入れでもしているのだろうか。いつも、ほのかに花のような香りをまとってはいるが——
苦笑しつつ、虎次郎は雑誌を棚に戻した。いったい、何を考えているのだ、自分は。
顔と手の他はがっちりとガードしている昼間とは違い、二の腕やうなじを惜しげもなく見せつけてくる夜の姿——Sの場にだけ現れるあの桜の花を、抱き寄せて胸の中に閉じ込め、肌の感触を、香りを、心ゆくまで確かめてみたいだなんて。
■3月27日
▶午前9時
目が覚めると同時、左手首のカーラが目に入った。静かに点滅している。
「録音が一件あります。再生しますか」
「ああ、頼む」
身を起こすために寝返りを打ちながら、信号音に続いて再生される音声に耳を傾ける。
『あー……薫? 用ってほどでもないんだが』
聴こえてきたのは予想どおりの声だ。
『来月から新しく追加するメニューを決めかねてて……今夜もし時間があれば、食べにこないか?』
勿体をつけた言い方に思わず笑いを漏らしながら、薫は起き上がった。
『……そういえば、今日は3月27日だな。おめでとう』
カーラの声が「3月27日午前0時3分」と録音の終了を告げる。
「カーラ、今夜の予定は」
「午後8時までにすべて完了する見込みです」
「虎次郎宛に『午後8時半』とメッセージを」
半日後に自分を迎えてくれる虎次郎とその手料理を思えば、少々気の進まなかった本日の業務も難なくこなせそうな気がしてくるから不思議なものだ。
▶午後8時
カーラの予告どおりに、すべての仕事が滞りなく終了した。薫はゆっくりと長く息を吐きだす。
(略)
■20XX年宇宙の旅
「——薫、そろそろ起きろよ」
優しく肩を揺すられて、薫は目を覚ました。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。どうやら、ソファでうたた寝をしていたらしい。ホテルのロビーのような天井の高い空間だ。視界いっぱいの大きな窓の向こうには、まるで果ての見えない星空が広がっている。
「……虎次郎」
「うん?」
隣に腰かけている虎次郎が、目を細めて薫の顔を覗き込んできた。
「どこだ、ここ」
「寝ぼけてるのか?」
虎次郎が「*****星雲から地球に還る船だよ」と教えてくれる。それでようやく「ああ、夢か」と気がついた。
「『宇宙旅行に行きたい』って言いだしたときには、正気かよって思ったけど……なかなか楽しかったな」
そうか、ならよかった、とうなずきながら身を起こしかけた薫の右手を、虎次郎が掴んできた。訝しんで視線を向けた薫は、相手の薬指に光るものを見つけて息を呑む。
「……結婚したのか」
「ん? ああ……」
薫が指輪を見ているのに気づいた虎次郎が、はにかんだ笑みを浮かべる。
「まだ、慣れねぇよなぁ」
言いながら指を絡めてこようとするので、薫は顔をしかめてその手を振り払った。虎次郎が驚いたように目を丸くする。
「薫?」
おまえ、ほんとにどうした、熱でもあるんじゃ……と身を乗りだしてきた虎次郎の胸を押し戻そうとしたとき、自分の左手が目に入った。
「……俺も結婚してるのか?」
「ええ」
薫は、呆然と自分の薬指を見つめた。それから、もういちど虎次郎の左手を見る。よく似た——いや、どこからどう見ても同じデザインの、銀色の輪。じわじわと恥ずかしさが湧き上がってきた。
いったい、なんて夢を見ているんだ、俺は。
うつむいてしまった薫の頬に、虎次郎が指の背で触れてくる。
「昔の夢でも見てたのか?」
頬を滑ってきた指が、薫の顎をそっと掬い上げた。虎次郎が何をしようとしているかに気づいてしまっていたたまれなくなり、薫はぎゅっと目を瞑る。虎次郎がかすかに笑う気配がした。
「薫」
はちみつのような囁きとともに親指で唇をなぞられて、無意識に呼吸を止めてしまったらしく、頭の芯がぼうっと白く霞みはじめ——
「——薫?」
ハッと頭を起こした薫の顔を、隣に座る虎次郎が心配そうに覗き込んできた。
「どこだ、ここ……」
「寝ぼけてるのか? 俺ん家だよ」
「ああ……」
そうだった。今日はSに顔を出したあと、「おまえの好きそうなワインが入った」と誘われて虎次郎の家に寄ったのだと思いだす。さっきまで、映画を流し観しながらワインを呑んでいたはずだが……
つまみを補充して戻ってきたら寝落ちていたから驚いた、と虎次郎が肩をすくめる。
「疲れが溜まってるんじゃないか?」
そうかもしれない、と薫は思った。なんだか妙な夢を見た気もする。
「どうする? 泊まってくか?」
ソファに投げだしていた手に軽く触れられて、ビクッと跳ねてしまった。虎次郎が驚いた顔をする。
「薫?」
薫の手をゆるく握っている虎次郎の指には、当たり前だがアクセサリー類は見当たらない。ほっとしたような、一抹の寂しさを感じるような——いや、そもそも、自分たちはこんなふうに手を握りあうような仲だったか……?
「この手はなんだ」
薫のつぶやきに、首をかしげた虎次郎は「なんとなく」と答えた。
意図的なのか、無意識なのか? いまいち判断がつかなくて、薫は舌打ちをした。けれど手を振りほどくことはしない。握らせたままで、広大な宇宙空間を映しだしているテレビのモニタに視線を向けた。虎次郎の好きなSF映画だ。
「明日の朝食は?」
「何が食べたい?」
「質問に質問で返すな」
「リクエストしてくれ」
確かめなくても分かる、はちみつのような甘ったるい眼差しを頬に感じながら、薫は「おまえに任せる」と告げた。
「俺に食べてほしいと思うものを作れ」
ある意味いちばん難しいリクエストだな? と苦笑している虎次郎の肩に頭をもたせかけ、ふたたび目を閉じる。
「あっ、ここで寝るなよ、薫!」
もういちど同じ夢の続きを見られるだろうか? 見られるといいのにと思う。そうすればこんどは、動揺などしないで虎次郎からのキスを受け止められるはずだ。
■夏のめざめ
疲れているところを呑みに誘った自分にも、責任はあるけれど。
肩にもたれて寝落ちてしまった薫に、虎次郎は溜息をついた。
さんざん「ヒョロ眼鏡」とからかってはいるが、薫は平均よりも身長の高い成人男性だ。完全に脱力して眠り込まれてしまったら、ベッドへ運ぶのも容易ではない——虎次郎以外であれば。
それを知っているからこそ、こうして気を抜いて眠ってしまうのだろうなあと思うと、腹立たしいやら、不思議とかわいく思えてくるやらで、情緒が落ち着かない。
「ったく……」
背中と膝の下に腕を差し入れてソファから抱き上げると、薫は「ん……」と小さく息を漏らして、虎次郎の胸に頭をすり寄せてきた。ふわり、と涼しげな香りが漂う。薫の着物が出どころのようだ。寝室へと運びながら、虎次郎は鼻先を近づけてみた。
「こいつ、なんかいっつもいい匂いすんだよなぁ……」
夜の街やSで虎次郎にすり寄ってくる女たちがまとっている香水とは、似ても似つかない。墨と、着物に染み込んだ香と、薫自身のかすかな体臭とが入り混じった、たとえようのない香り。名前を知らない花のような——
下腹がずくんと疼くのを感じて、いやいやいや、と虎次郎はかぶりを振る。今のはバグだ。断じて、そう。そうであってほしい。
薫の身体をベッドにそろりと下ろす。頭の下に枕を差し込んでやったら、身じろいだ薫は枕に顔をうずめて、すん、と鼻を慣らした。
「こじろ……」
目を覚ましたのかと思ったが、またすぐに健やかな寝息を立てはじめた。
「おまえ、今のは……」
枕に染みついた虎次郎の匂いに反応した、ということか……じわじわと自分の頬に熱が昇ってくるのが分かる。
虎次郎はベッドの端に腰かけ、シーツに散っている薫の髪を梳いた。ひと房掬い上げて、すん、と匂いを嗅いでみる。とたんに全身の血がざわめくのが感じられた。
「あー……もー……」
着物のままで寝かせてしまったら、明日の朝どんな文句を言われるか分かったものではない、とは思うのだが……勝手に脱がせたら、それはそれでたいへんな事態になりかねない。主に、バグを起こしかけている自分のムスコが。
どうやら今夜は、ソファで寝るしかなさそうだ。溜息をついて、虎次郎は寝室をあとにする。
Tシャツを脱ぐとき、またふわりと薫の匂いがした。
きっと、夢の中まで追いかけてくるんだろうなと思った。
■7月7日
▶2X年前
「おれ、たなばたの日がたんじょうびなんだぁ」
虎次郎はそう言って、うれしそうに笑った。だから、かおる、おれのねがいごと、たんざくに書いてよ。
幼稚園の七夕祭り。色とりどりの短冊が吊るされた笹飾りの下で、虎次郎は薫の手を握ってきた。薫は、同い年の子どもらのうちで誰よりも上手に字が書けたので、こうした頼まれごとは珍しくもなかった。
(略)
■はつ恋
「懐かしいだろ、それ」
ローテーブルに放りだされている写真を覗き込んだ薫に、珈琲を持ってきた虎次郎が話しかけてくる。このところ、虎次郎の家で迎える朝は珍しくもない。
「こないだ実家に顔出したときに、回収してきた」
「こんなものがまだ残っていたとはな」
写っているのは小学校に入学したころのふたりだ。肩をすくめてみせながら、渡されたマグカップを受け取る。
「おまえん家にもあるだろ」
「どうだろうな」
雑誌に載ってんの見たぞと笑い混じりに言われて、薫はチッと舌を鳴らした。
(略)