■とある春の約束
薫の、物心がついて最初の春の記憶には、すでに虎次郎の姿がある。
同じ幼稚園へ通うことが決まり、近所だからという理由で連れ立って登園することになった。当然のように、帰り道でも隣を歩く。
「幼稚園、楽しかった?」
母親たちから訊かれる。いろいろと考えてしまって答えあぐねている薫の隣で、虎次郎が「たのしかった!」とはしゃいだ声を上げる。
「まあ、よかった」
虎次郎は薫の手をぎゅっと握ってきた。
「かおるとずっといっしょ、うれしい!」
年少組は2クラスあるのだが、薫と虎次郎は同じクラスに振り分けられたのだ。
虎次郎の掌は、しっとりとして温かい。わざわざ振りほどくこともないか……と思い、家までの道を手を繋いだままで歩いた。跳ねるみたいに歩きながら、隣にいる薫の顔をときどき覗き込んでは、虎次郎が「へへへ」と笑う。
「なにがそんなにうれしいんだ」
「あしたもいっしょだから!」
繋いだ手をゆらゆらと揺らされて、薫は溜息をつく。これまでだって、ほとんど毎日いっしょに遊んでいたのだから、特に何かが変わったとも思えないのだが。
薫の家に着いた。薫の母親が虎次郎の母親をお茶に誘っている。
「おやつあるから、ふたりとも手を洗いましょうね」
手洗いとうがいを済ませてから、虎次郎と並んで縁側に座る。桜あんパンをひとつずつ渡された。
「このおはな、かおるのかみのけのいろだ!」
パンの真ん中に飾りとして載せられている塩漬けの桜の花を、虎次郎はだいじそうにつまみ上げる。
「それは桜の花だ」
「えっ」
沖縄の桜とは似ても似つかない色なので、虎次郎が驚くのも無理はない。
「本土では、いまごろ咲くんだって」
「へ〜!」
薫は見たことある? と訊かれたので、「切り花なら」と答える。
「地面に生えてるのは、まだ見たことがない」
「さくら……なまえもかおるといっしょなんだな」
みてみたいなあ〜と笑いながら、虎次郎があんパンにかじりつく。
「あっ、なかみもさくらのいろ!」
薫もパンをかじった。やさしい甘さの餡、ほのかに香る桜の葉の匂い。
「おいしいなあ〜」
縁側から垂らした足を揺らしながら、虎次郎が薫に笑いかけてくる。
「いつか、ふたりでみにいこうよ、かおるのかみのけのさくら!」
本土へ行くには飛行機に乗らなくてはならない。ふたりだけで飛行機に乗れるようになるのは、何年も先の話だ。そんな遠い未来でも、虎次郎は薫といっしょにいるつもりなのだろうか? なんだか、胸がくすぐったくなってくる。
「『いつか』って、いつだよ」
「あしたのあしたの……もっと、ずーっと、あした!」
薫はたまらず笑った。虎次郎がきょとんとしている。
「やくそくするか?」
「する!」
勢いよく差し出された小指に、薫は小指を絡めた。虎次郎が「ゆびきりげんまん」と唱えながら、腕を大きく上下に振りはじめる。
虎次郎が、今日のこと忘れないといいなあ、と薫は願った。俺も、大人になるまでちゃんと覚えていよう、と誓った。
■とろけるゆううつ
「おまえ、これ……まだ提出してなかったのか」
今日は大雨でスケートができない。ふたりは虎次郎の部屋で漫画雑誌を読んでいた。
床に積んであった山を崩した際、下のほうに挟まっていた進路希望調査を発掘したらしい。シワだらけになってしまった紙を、薫は虎次郎の鼻先に突きつけてくる。
「それなあ……どうしよっか」
「俺に訊くな」
薫から押しつけられた用紙には、第一希望・第二希望・第三希望まで欄がある。
「希望とか、特にねえんだけど」
「高校には行くんだろ」
「親には『行け』って言われてるけどな〜」
勉強が好きなわけではないし、就職も悪くないかもと思わないでもない。虎次郎がそう言うと、薫は短く唸った。
「何するんだ、仕事って」
「何って……あるだろ〜いろいろと」
「そんな態度で就職したら、高校に行くよりもめんどうなことになるぞ」
「それは……そうかもしんねえけど……」
「さっきから『けど』ばっかりだな」
虎次郎の煮えきらない態度に、薫がチッと舌打ちをする。手にしていた雑誌を放り投げて、虎次郎が寝転んでいるベッドによじ登ってきた。
「薫っ?」
「詰めろ」
肘で窓際に押しやられてしまう。
虎次郎から枕を奪い、胸の上で指を組んで目を閉じてしまった薫の横顔を、虎次郎はしげしげと眺めた。人の気も知らねえで、と文句のひとつも言いたくなる。
虎次郎が進路を決めきれずにいるのは、どこを選んだところで、薫と同じ高校には行けないことがわかっているからだ。薫と虎次郎とでは成績に差がありすぎる。
薫のほうは、虎次郎と離れることを寂しく感じたりはしないんだろうと思えば、どうしたって拗ねた気分にならざるをえない。
薫のバカ、あほ、冷血漢……と心の中で悪態をつきながら睨んでいたら、薫の睫毛が持ち上がった。勢いをつけて身体ごとこちらを向いた薫と目が合う。
「受験まで、まだ一年近くの猶予がある」
顔と顔とが近すぎて、薫の吐息の湿度も温度も伝わってしまう。慌てた虎次郎は、薫から離れようと壁に背中をつけた。だが、そのぶん距離を詰めてきた薫に睨まれる。
「逃げるな、虎次郎」
額がぶつかりそうな距離で、金色の光が虎次郎を追い詰めてくる。
「受験はテクニックだから、コツさえ掴めば攻略できる」
薫の言おうとしていることがようやく理解できて、虎次郎は危うく声を上げそうになった。必死にこらえて呑み込む。
「薫が手伝ってくれるの?」
虎次郎が訊くと、薫はいまいましげに舌を鳴らして目を逸らしたものの、小さくうなずいてくれた。
「ありがとう……」
我慢できなくなって、虎次郎は投げ出されていた薫の手を握った。薫が苦笑する。胸を拳で叩かれた。
「俺は、ランクを下げる気はないからな」
「わかってる」
虎次郎の手を振り払って、むくりと起き上がった薫が、虎次郎の髪をくしゃくしゃと掻き回してくる。
「腹が減った。何か食わせろ」
「パン? 麺?」
「パンがいい」
冷蔵庫にとろけるチーズがあったので、自家製のトマトソースを塗った食パンに玉ねぎとベーコンとチーズをたっぷり載せて、ピザトーストにしてやった。
「ソースが美味い」
「やった! 庭で採れたトマトで、俺が作った」
薫は目を輝かせると、「おまえ、意外な才能があるんだな」と珍しくストレートに虎次郎をほめた。
「薫、ソースついてる」
「どこ」
「ここ」
苦戦している薫のほうへ、虎次郎は手を伸ばす。唇の脇についたチーズとソースを指で拭ってやった。どうしようかなと一瞬だけ迷ったあと、その指を舐めた虎次郎を見て、薫が「お、ま、っ」と目を丸くしている。
「ソース、少し持って帰るか?」
虎次郎を軽く睨みながらもうなずいた薫の頬に、トマトのような赤みが差している。やられっぱなしでは終われないからな――薫を動揺させることに成功したのがうれしくて、虎次郎は声を立てて笑った。