■CASE 01
全快したCherry Blossom様がSでのビーフに復帰するらしい、という噂は私たちファンのあいだを風よりも速く駆け巡った。グループLINEにもひっきりなしに通知が届く。
【応援、行くよね?】
【もちろん!】
日程の確認もそこそこに、私は返事を打ち込んだ。長らく待ち望んでいたチェリー様の復帰戦である、何をおいても行かねばなるまい。
【対戦相手は?】
【Jだって】
情報通の友人からの返信に、私の眉間には思わずシワが寄る。
〝J〟というのは、Sにおいて「最速のシックスパック」と呼ばれているJOEのことだ。目尻の垂れた甘い顔立ちをしていて、いつ見ても露出度の高いギャルたちを侍らせているけれど、鍛え上げられた肉体から繰り出されるスケートの技は圧巻で、男性ファンも多い。最古参メンバーの一人で、チェリー様とはS以前からのつきあいだそうだ。私も、彼がチェリー様に「カオル」と本名(?)で呼びかけて尻を蹴り上げられるところを何回か目撃している。
私だけじゃなく、チェリー様のファンならば多かれ少なかれ、ジョーに対しては複雑な感情を抱いていることと思う。
先だってのトーナメントでチェリー様が大怪我をされたとき――駆けつけたジョーはチェリー様を軽々と姫抱きにして、その場から連れ去ってしまった。私たちは、それを呆然と見送ることしかできなかった。その後、トーナメントを観戦なさるチェリー様の車椅子をジョーが甲斐甲斐しく押してあげる姿も見かけた。
私はこれまで、ふたりが大人げなく言い争っている様子ばかりを目にしていたから、「あんなにすぐ喧嘩になるってことは、根っから気が合わないんだな」と思っていた。たいていはジョーのほうからチェリー様に突っかかっているように見えたので、よほど気に入らないんだろうとも思っていた。
もしかしたら、すべて思い違いだったのかもしれない。
【どっちが勝つと思う?】
【チェリー様に決まってるじゃない!】
通知音の鳴りやまないグループLINEに、私も桜の花を象ったスタンプを連投する。何はともあれ、当日が楽しみだ。
「久しぶり〜!」
Sが開催される廃鉱山のゲート前で、友人たちと落ち合った。チェリー様の復帰戦、しかも相手がジョーとあって、周辺はとても深夜とは思えない賑わいに満ちている。
「ドキドキするね〜」
「わたし、チェリー様のお姿を見ただけでも泣いちゃいそう」
私もまったく同じ気持ちだ。開門されたゲートを、彼女たちと手に手を取ってくぐる。
私たちは、まずスタート地点へと向かった。出走を見届けたあと、先回りをしてゴールで彼らを迎える予定だ。
「あっ、いらっしゃったわ!」
目のいい友人が指差すほうへと視線を向ければ、長い桜色の髪が夜風になびくのが見えた。全身がカァッと熱くなる。
「チェリー様ぁ〜」
人垣のあいだから現れたチェリー様は、歓声に応えるように頭をひと巡りさせると、スタート位置に立たれた。手には、あの日と同じ愛用のボード。とたんに胸がいっぱいになる。私の隣で友人も、感激をこらえきれない様子で口許を押さえている。
「今夜もお麗しい……」
友人のつぶやきにうなずいていたら、人波がさざめいてキャァァァッと大きな歓声が上がった。
「ジョー」
「ジョーが来たぞ!」
居並ぶ人々のあいだを、ひとつ分近く飛び出している緑色の頭が移動してくるのが見えた。スタート地点に到達して、チェリー様に「よう」と声をかけている。
「待たせたな」
じろりとジョーを睨んだチェリー様は、舌打ちをひとつしてからコースに目を向けた。
「さっさと始めるぞ」
「おう」
チェリー様のつれない態度を気にするふうもなく、ジョーもコースへと向き直る。
「負けんなよ、ジョー!」
「勝つのはチェリー様よ!」
青信号が点灯した。夜空を揺らす大歓声の中、ふたりがコースへと飛び出してゆく。
「行こう!」
私と友人たちは、裏手に造られたショートカット用のルートを使ってゴールへと急いだ。どうにかまにあったけれど、こちらも黒山の人だかり。少しでもいい場所でチェリー様をお迎えしたいと思っていたけれども、ゴールが見えやすい位置はとっくに満杯だ。仕方なく、少し離れた廃工場の出口付近で待つことにした。ゴール付近は見渡せるので、勝利の瞬間を見逃すことはなさそうだ。
「来たぞ!」
入り口に近い一群から歓声が上がった。私たちは、友人の一人が手にしているタブレット端末を覗き込む。リアルタイムで中継が行われている画面には、ほぼ横並びで廃工場に飛び込んでくるふたりの姿が映し出されていた。
「チェリー様……っ!」
友人が、悲鳴のような声を上げながらお祈りの形に指を組む。私も、両手をぎゅっと組み合わせた。胸が苦しい。
ふたりの姿が、肉眼でも捉えられる距離まで近づいてきた。どちらも勝ちを譲る気はない様子、気迫のこもった表情でゴールを睨み据えている。
「行けぇえッ、ジョー」
「勝てよ、チェリー」
姿勢をひときわ低くしたチェリー様がゴールラインに突っ込んでくる姿を、私はまばたきも忘れて見つめていた。完全復活、という言葉が脳裏をよぎる。ああ、どれほどにこの日を待ちわびたことか……! 涙が頬を伝う。友人たちも嗚咽を漏らしている。
「どっちが勝ったんだ」
ゴール付近の人々がざわめいている。タブレットにリプレイが映し出された。直前で変形したチェリー様のボードの先端が、わずかに差をつけてゴールに先着している。
「チェリーの勝ちだ」
歓声が弾けた。ふぅ、と息をついて肩にかかる髪を払ったチェリー様に、拳を握りしめたジョーが食ってかかる。
「てめぇ、このメカキチ! また汚い手、使いやがって!」
「勝ちは勝ちだ」
澄ました顔でボードを抱き上げたチェリー様は、片側の眉だけを愉快そうに持ち上げてみせた。
「負けゴリラの遠吠えは見苦しいぞ」
まだ唸っているジョーを無視して、チェリー様がこちらへと歩いてくる。なんとなく、全員で息を殺して見守ってしまう。お傍を通られるときに「おめでとうございます」と声をかけるくらいは許されるだろうか? 緊張で喉が詰まりそうだ。
出口を抜けたチェリー様が、私たちの潜んでいるあたりへと歩みを進められた、そのとき。
「待てよ、カオル!」
いつのまに追いついてきたのか、ジョーがチェリー様の腕を後ろから掴んだ。振り向きかけたチェリー様を身体ごと押すようにして、建物の陰へと入り込む。廃工場内からは死角になっていたに違いない。
チェリー様の耳許に顔を寄せたジョーの囁き声は、私たちのいる場所までは届かなかった。分かったのは、チェリー様がはっきりとうなずかれたこと、それを確かめたジョーが子どもみたいな笑顔を見せたこと、それだけだ。
ジョーはすぐに離れて、廃工場内で待つファンの子たちのところへ戻っていった。ふたたび歩き出そうとしたチェリー様が、ふと足を止め、私たちのほうへと視線を投げかけてきた。驚いているふうではなかったので、最初から、私たちが隠れていることには気づいておられたのだろう。
「あのっ」
胸の前で指を組んだまま、友人たちの一人が声を絞り出す。
「今見たこと、誰にも話しませんから……っ!」
私たちは次々にうなずいた。シトリンみたいなチェリー様の両目が、わずかに細められる。微笑みと捉えられなくもない表情だ。
「今日、おめでとうございます!」
私は思いきって声をかけてみた。恥ずかしいくらいに震えてしまったけれど、チェリー様はかすかにうなずいてくださった。
チェリー様の麗しいお姿が闇の中へと消え去るのを見送ってから――私はその場に崩れ落ちた。
「えっ、えっ、なんだったの、さっきのあれ……!」
動揺を抑えきれずに叫ぶ私の背中を、友人がなだめるみたいに撫でてくれる。
「初めて目撃したら、驚くよねえ」
友人たちがうなずきあっているので、私以外はこれが初めてではないのだとわかる。
「チェリー様とJ……めちゃくちゃ顔近くなかった」
「深く考えないほうがいいよぉ」
一人が肩をすくめながら、「ね、ここにあたしらがいること、Jも気づいてたと思う?」と訊いてきた。別の友人が「もしかして、牽制のつもり Jのヤツ〜!」と拳を握りしめて唸る。
支えられて立ち上がりながら、私は廃工場を振り返った。今日も今日とて露出度の高い女の子たちに囲まれて、余裕たっぷりに微笑んでいるジョーが、チェリー様の前ではあんなにも無防備な顔を見せるなんて。知らずにいたかった気もするけれど、知ってしまったことで、謎が解けたみたいに感じなくもない。
そうか……私が想像してたより、もっとずっと、ふたりは親しい仲だったんだ……そりゃそうか、みんなの前で姫抱きできちゃうくらいだもんな……
言語化しようのない、ふわふわとした奇妙な感覚に包まれたまま、これからも変わらずチェリー様を応援しつづけることを胸に誓って、その晩の私は山を降りたのだった。
■CASE 02
(あっ、うそ、あそこにいるのって……JOEじゃない)
休日のショッピングモールは地元民と観光客とで大賑わいだ。その人混みの中に、見覚えのある深緑色の髪をした人物を見つけて、あたしのテンションはこれ以上ないくらいに上がる。
気づかれないように気をつけながら、少しだけ距離を詰めてみる。間違いない、Sではいつも遠くから見つめるしかない憧れのスケーター、ジョーだった。
Sというのは閉鎖された廃鉱山で開催されているスケートのレースだ。あたしは、当時の彼氏に誘われて参加するようになった。スケートを始めたばかりのあたしにコースは危険すぎたので、もっぱらビーフの観戦か、広場に設置されたランプを利用するかだったけれど、同じような仲間もできたので通うのは楽しかった。
上手なスケーターはたくさんいたけれど、あたしがいちばん心を掴まれたのがジョーのスタイルだった。恵まれた体格と鍛え抜かれた筋肉から生み出されるダイナミックな技――あんなふうに滑ることができたら、どんなに楽しいだろう。自分には無理だとわかっているからこそ、憧れた。
(略)
■CASE 03
人の縁というのは、実に不思議なものだ。
「チッ」
「おい、なんだよ、出会い頭に」
カウンターの片隅で勃発した小声の言い争いに、おっ、今日も始まったな……とマスターは眉を持ち上げた。
舌打ちをしたのは先に腰かけていた長髪の男性で、二か月に一回くらいのペースでこの店を訪れている。あとから来た大柄な男性もときどき姿を見せる客なのだが、このふたり、たまたま同じ日に現れることが多いのだ。
「せっかくいい気分でくつろいでいるところへゴリラが出没したんだから、当然の反応だろう」
「言うねえ」
桜色の長髪を肩に流している美丈夫から「ゴリラ」と呼ばれたほうの男が、ハッと笑いながら席に着く。このふたり、決してほんとうに仲が悪いわけではないのだ。その証拠に、男が隣に座っても長髪は席を立たずにいる。
「マスター、ハイボールを」
大柄な男からの注文にうなずいて、マスターは氷とグラスを用意する。
「こんな時間から呑んでるってことは、かかりきりだった案件は片づいたのか?」
「ああ。今日、納品してきた」
お待たせしました、とマスターが差し出したグラスを、男は受け取ると軽く持ち上げた。
「おつかれさん」
「ん」
長髪の男も、半分ほどに減ったグラスを持ち上げて応える。
今日は客が少ない。盗み聞きをする趣味はないのだが、カウンターなのでどうしたって会話は聞こえてきてしまう。
「うちに来りゃよかったのに」
大柄な男が、カウンターに肘をついて長髪の顔を覗き込んだ。長髪は眉間にシワを寄せ、ふいと顔をそむけてしまう。
「まだ怒ってんの?」
「怒ってなどいない」
「じゃあ、拗ねてんのか」
グラスを空にした長髪が、無言で席を立とうとした。大柄なほうが、その手首を素早く掴む。
「カオル」
振り払おうとしてか、「カオル」と呼ばれた男は腕を動かしかけたが、手首を掴んでいる太い腕はびくともしない。
「おい」
顔をしかめる彼を真下から見上げて、「なんでも言うこと聞くからさ」と男は眉尻を下げた。
「機嫌直してくれよ」
渋い表情のまま、長髪がスツールに座り直す。
「ほんとに、『なんでも』?」
「なんでも」
長髪は溜息をつくと、「逃げないから離せ」と手を揺らした。男の指が、彼の手の甲をそっとなぞってから離れてゆく。
「すみません。ネグローニをお願いします」
マスターはうなずき、グラスに酒を注いでステアする。
「なぁ、明日は?」
マスターの手渡したグラスを、彼はゆっくりと傾けた。しっとりと濡れてゆく唇。まるで、じらしているかのようだ。
「カオル〜」
ねだるみたいな声を出す大柄な男を横目に見て、長髪はフンと鼻を鳴らした。頬にこぼれかかる桜色の髪を耳にかけながら、声を低めて囁く。
「オフにしてある」
半刻ののち、ふたりは連れ立って店を出ていった。思えば彼らは、待ち合わせているわけではない様子なのに、帰ってゆくときはいつもいっしょなのだ。残されたグラスを片づけながら、人と人との繋がりというのはほんとうに不思議なものだなと、マスターは改めて思うのだった。
■CASE 04
閉店後の店内に、カランと軽快なドアベルの音が響き渡る。
「おい、虎次郎……」
厨房に向かって呼びかけながら踏み込んできた闖入者は、南城さんの隣に立つ僕に気がつくと足を止めた。僕は彼に「こんばんは」と声をかけて会釈をする。彼も「こんばんは」と返してくれる。
「あれっ、薫?」
南城さんが驚きの声を上げた。
「おまえ、今日は来れないんじゃなかったのか」
「会合が予定よりも早めに終わった」
着物姿の彼はAI書道家の桜屋敷薫だ。シア・ラ・ルーチェの常連客で、オーナーシェフ南城さんの友人でもある。この時間の店に現れるのは、珍しいことではなかった。僕は遅番で入る機会が多いので、何回か顔を合わせている。CLOSEDの看板を出したあとも南城さんが鍵を開けたままにしているのは、きっとこの人のためなのだろう。
(略)
■CASE 05
「久しぶり〜! 元気だった」
居酒屋の襖の向こうには、懐かしい顔が勢揃いしていた。皆きっちり七年分、歳を取って。
「えーっ、あんた、いつ以来よ?」
「成人式が最後だったかな?」
「この薄情者〜!」
「同窓会自体が五年ぶりじゃない!」
クラスの何割かが小学校時代からの幼なじみ、という環境に厭気が差して、短大は九州、就職は本土で探した。忙しさを言い訳にして帰省もたまにしかしないのだけれど、今回はたまたまタイミングが合ったので、こうして顔を出してみることにしたのだ。
「何はともあれ、カンパ〜イ」
幹事の音頭で、全員がビールジョッキを高く掲げる。
「あれっ……南城と桜屋敷は? 確か、出席するって連絡あったよね」
「あいつらなら、さっきグループLINEに『遅れる』って」
「あ、ほんとだ」
サラダを取り分けながら、ちょっとそわそわしてしまう。
自分とは別の中学校からやってきた彼らは、とにかく目立っていた。桜屋敷くんのほうは今をときめくAI書道家として活躍しているので、たまにテレビや雑誌で姿を見かける。上品な和服姿で微笑んでいる写真を目にするたび、耳にも唇にもバチバチにピアスを開けていた高校時代の彼を思い出して、つい笑ってしまいそうになる。女の子からの告白が引きも切らなかった色男の南城くんは、卒業後しばらくしてからイタリアに行ったと聞いている。料理修行のためだというので驚いたけれど、数年前、ここ沖縄に自分の店を持ったそうだ。さっそく訪問した友人たちの評判も上々なので、今回の帰省ではぜひ立ち寄ってみたいなと考えている。
全員が二杯目の注文を済ませたころになって、部屋の襖が外から開かれた。
(略)
■CASE 06
書道部に所属している人間は二通りに分類される。書道室を放課後の溜まり場として利用したいだけの者と、真面目に取り組んでいる者と。
一年生の秋という中途半端な時期に入部してきた桜屋敷を、俺は見た目からして前者だと思ったのだが、それは間違いだった。肩を覆う桜色の長髪、耳には銀色のピアス。ピアスはやがて唇にも増えたけれど、桜屋敷の書道に対する向き合い方は、部内の誰よりも真剣だった。
(略)