人魚夜更けに台風の過ぎた朝、路上に落ちているソレが生き物でないことを田中一は願った。
確かめなければならない。
ソレが人の死体なんかではないことを。
以前轢かれた猫の死体かと思ったものも、よく見れば汚れた軍手だった。
今回もきっとそういうアレだ。
そうであってくれ。
近づいてみて、ソレが思っていたよりも遥かに尋常でないことに田中は気づいた。
横たわる裸の少女。
だが彼女の下半身は魚の尻尾のようなものに覆われていた。
「……人魚?」
思わず呟き、そうとしか思えなくなった。
到底作り物とは思えない質感。
人の肌と魚の鱗の境目も自然なもののように見える。
なにより、ぐったりとはしているが、生きている。
……人魚って地上で呼吸できるんだろうか。
目の前の命の存続が自分にかかっているような気がして、田中は慌てた。
さいわい自宅はまだ近い。
浴槽に水を溜めればなんとかなるかもしれない。
そう思い、田中は人魚を家まで運んだ。
今日は仮病を使って会社を休もうと決意しながら。
浴槽に入れ、水を溜めていると人魚が目を覚ました。
水音に反応したのだろう、蛇口から流れる水を飲み始めた。
あまり意識しないように努めていたが、上半身は何も身につけていない少女そのものだ。
勿論女物の水着なんて持ち合わせていない。
田中は居心地が悪くなり浴室を出て、バスタオルを持って戻ってきた。
「えーと、これ使う?」
タオルを渡された人魚は不思議そうに眺めた後、それを口に入れた。
「あ、ちがうちがう食べ物じゃなくて!」
慌てて取り返そうとしたがタオルは裂けてしまった。
流石に食べ物ではないと気づいたのか、破れたタオルは吐き出された。
腹がすいているのだろうと思い、家にはろくな物がないので買い物に出かけた。
人魚なら海藻や生魚を食べるのだろうか、などと思うがコンビニに生魚はない。
海藻サラダと魚の煮物を買ってみる。
浴室に戻ると、人魚が歌うような声で田中を出迎えた。
可愛らしい声だが、何を言っているのかは分からない。
分からないが、田中の持ってきた食べ物に興味を示しているようだ。
割り箸で海藻をつまみ、人魚の口元へ持っていく。
人魚は待ちかねたように口を開き、かぶりつく。
口内に鋭く尖った歯がズラリと並んでいるのが見えた。
可愛らしいように見えて結構不気味だ、などと田中は思う。
もう一度海藻をやろうとするが、人魚は違う方を見て鳴き声を上げた。
どうも魚の方がお好みらしい。
魚をやりながら、これはどうしたものか、と田中は考える。
上半身は人のように見えて、人とは違う見たことのない生物。
どこかの研究機関に報告すべきものなのだろうか。
それとも海に(あるいは川か、湖か?)返してやるべきか。
どちらもなんだか惜しいような気がした。
せっかく見つけた珍しい生き物、自分の手元に置いておきたくなるじゃないか。
「名前をつけないとな」
人の部分をまじまじと見るのは少し気恥ずかしいから、魚の尾の方に注目する。
あまり魚にくわしくないが、薄いピンク色の綺麗な尾だと思う。
「ピンク……桃とか……?」
ふと、鱗が落ちているのに気づき拾い上げる。
子供の頃家族と潮干狩りに行ったとき、綺麗な桜貝を拾ったことを思い出した。
「さくら」
人魚が田中の方を見て、歌うような声で応えた。
「よろしく、さくら」
田中が笑いかけると、さくらも笑顔を見せた。
こうして田中は家の浴槽で人魚を飼うようになったのだった。
さくらは意外となんでも食べた。
特に肉への食いつきが良く、唐揚げが一番のお気に入りに見える。
あまり味付けの濃いものを与えては良くないだろかとも思うが、あからさまに不機嫌になられるとつい買い与えてしまう。
最初は箸で寄こされるのを大人しく待っていたが、じれったくなったのか弁当を横取りしようとするようになった。
それなら自分でやってみろとフォークやスプーンを渡して使い方を教えてみる。
どうにか使えるようになったが、面倒なのか手づかみで食べてしまうことの方が多い。
かと思えばフォークやスプーンですくった物を田中に食べさせようとしたりもする。
大抵は野菜だ。
唐揚げを分けてくれたことはない。
嫌いなものを寄こしているだけかもしれないが、差し出されるとつい食べてやってしまう。
これが飼い方の分かっている生き物なら教本通り厳しくもするが、どう対応すべきか分からないだけに甘やかしてしまうのだ。
家の中で過ごす時間も、自然さくらのいる浴室が多くなる。
ゲームをしていたら水をかけられたので、さくらの前ではスマホを使わないようになった。
スマホでゲーム音楽が聞けても、自室は静かすぎる。
さくらが喋ったらいいのに、と言葉を覚えさせようとしたが上手くいかなかった。
その代わり田中が歌った歌に合わせて鳴くようになった。
歌なんて音楽の授業でしか歌ったことがない。
さくらの歌うような声に合わせて歌ってみたりもするが、ちゃんと合わせられているかも自信がない。
それでもさくらの笑顔が嬉しくて、夜毎歌声を浴室に響かせるのだった。
ある日、大幅に仕事が遅くなった。
食べるのが好きなさくらのことだ、きっとおなかをすかせて怒っていることだろう。
コンビニの揚げ物コーナーは売り切れていたため唐揚げ弁当を多めに買い、家につくと案の定浴室の外まで聞こえるほどさくらが喚いていた。
「ほらっ、唐揚げやるから静かにしろ」
慌ててビニールを破り、蓋を開けて唐揚げをつかみ、目の前に差し出す。
途端に大きく開いた口からギザギザとした歯が見え、田中の脳裏にピラニアを想起させた。
「あ。」
バクリと喰われ、唐揚げごとつかんでいた指先が消えた。
「……あ? ああ、あああああ」
弁当を落とし、欠けた指へ焦点を合わせたまま口から漏れ出る音の止まない男を見て、人魚は鋭い爪で己の皮膚を引っ掻いた。
浴槽から身を乗り出し、男の欠けた指に血を滴らせる。
すると、みるみるうちに指先が再生し、傷ひとつなくなってしまった。
『よかったね。これでもう大丈夫』
水の中で聞くようなくぐもった声。
しかしはっきりと田中に語りかけて微笑むさくらの声だった。
「おまえ……喋れたのか」
『私はずっと喋ってたよ。おにーさんが私に分からない言葉をずっと喋ってたのと同じ』
それはどういうことなのかと眉根を寄せる田中にさくらは言った。
『ごちそうさま。今日食べたのが一番おいしかったよ』
人魚の肉を食べると不老不死になる。
何かのゲームでそんな話が出てきたことがあったような気がする。
現実にそんなことがありえるのか。
人魚だって現実にいるとは思っていなかった。
目をこらして指を見ても何の痕跡もない。
血を垂らしただけで体の一部が再生できるというのならば、肉を食べてそれ以上の効能が得られるというのはありえないことではないかもしれない。
しかし今は、それよりも。
田中は人の肉の味を覚えてしまった人魚が怖ろしくなった。
今日もさくらは可愛らしい声で歌うようにねだるのだ。
『おにーさんのお肉おいしかった』
『ちょっとだけでいいからまた食べさせて』
『その代わり私のことも食べていいよ』
『そしたら全部元通り』
元通りなものか。
あの日から何もかもが変わってしまった。
これ以上あんな声を聞き続けていたらおかしくなる。
海に返して、全て忘れてしまおうと田中は決めた。
「なあ、おまえだってこんな狭い所より海でのびのびと暮らした方がいいだろ?」
『私を捨てるんだ』
さくらはむくれたが、少し考えて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
『それじゃあ、おにーさんの小指を食べさせてくれるならいいよ。ちゃんと私の血で元に戻してあげるから』
背に腹は代えられない。
これで最後と思い、左手の小指を指切りするように立てて差し出した。
女物の服を買い車椅子とレンタカーを借りてきた。
座らせて下半身を毛布で隠せば人間の少女のように見える。
「水の中にいなくても息ができるのか」
『しっぽが乾くと気持ち悪いけど、死ぬことはないよ』
あまり人気のなさそうな海辺の町まで車を走らせる。
車に乗るのが初めてのさくらは助手席てはしゃいでいた。
昔の自分も海へ向かう車の中ではしゃいでいたような気がする。
もしかしたら今から行く海が潮干狩りに行った場所だった、なんて偶然はあるだろうか。
そんな物思いにふけりながら田中はさくらとの最初で最後のドライブを終わらせた。
堤防の端まで進み、人がいないのを確認して飛び込ませる。
「じゃあな。元気に暮らしてくれ」
『おにーさんも。いってらっしゃい』
そう言ってさくらは深く潜り込み、姿を現さなかった。
軽くなった車椅子を押しながら来た道を戻る。
振り返ることはなかったが、妙に左手の小指が疼くようだった。
「……すみません、もう一度言ってください」
「え?」
相手の怪訝そうな顔に、また自分の言葉が聞きとれなかったのだろうと察する。
喉の調子が悪いふりをして咳払いし、ゆっくりと同じはずの言葉を繰り返す。
今度の相手の返事はなんとか聞き取れたが、言葉として理解するのにひどく苦労した。
相手も自分の発する言葉に同じ印象を持っていることだろう。
苛立ちが募り、つい痒い所をかきむしってしまう。
近頃いくら爪を切っても右手親指と人差し指の爪は鋭く尖っていく。
その爪で血が出るほど左小指の付け根をかきむしるのだが、少しすれば傷は塞がるようになった。
傷は塞がるが、だんだん指が変形しているようだった。
他の指の間に比べて明らかに薬指との間の皮膚が広がっている。
これではまるで、水かきのようだ。
頭の中でさくらの言葉が蘇った。
『私はずっと喋ってたよ。おにーさんが私に分からない言葉をずっと喋ってたのと同じ』
どうしてさくらの言葉が分かるようになった?
変化は右手の指先が再生されたときから始まっていたのだ。
肩をたたかれ、同僚に何かを話しかけられた。
その言葉は水の中に潜ったときのような、ゴポゴポと判別しがたい音にしか聞こえない。
心臓が全ての音をかき消そうとうるさく脈打っている。
少しずつ変容していく指も、主張するようにどくどくと。
こみ上げるものを抑えきれず、田中はトイレへ駆け込み胃の中のものを吐き出した。
電車を乗り継ぎ、もう来ることもないと思っていた堤防へ向かう。
「さくら、出てきてくれ」
海面に揺らぎ、人魚が姿を現した。
『お帰りなさい』
さくらの声も水の中で聞くようなくぐもった声だが、人の声よりも聞き取れた。
「人の言葉が分からなくなったんだ。指も変わっていって……俺は、人魚になるのか?」
『ならないよ。人魚の肉を食べてないもん。でも……もう人間でもないかもね』
「どうすればいい? どうすれば元に戻れる?」
『知らない。私が知ってるのは人魚の肉を食べた人間が人魚になることだけ』
足に力が入らなくなり、田中はその場に座り込んだ。
『そんなに人間に戻りたいの? 人間てそんなにいいの?』
「どうだろうな……でも人間じゃないと人間の世界で生きていけないからさ」
『人魚になったら人魚の世界で生きていけるよ』
「人魚の世界……どんなところなんだ?」
そう聞かれて、さくらは少し顔を曇らせた。
『……本当はね、他の人魚のことよく知らないんだ。昔はお母さんがいたような気がするけど、気づいた時は私一人だったの』
だからね、とさくらは笑顔を見せる。
『おにーさんと一緒にいたときは本当に楽しかったよ』
そんなことを言われたのは初めてだった。
……今までそんなに人と関わろうとしてこなかったのだから当たり前か。
「なあさくら、俺も人魚になりたいと言ったらおまえの肉を食べさせてくれるか?」
『いいよ。その代わりおにーさんのいらなくなった部分はちょうだい』
さくらは鋭い爪を立てて自らの腕を引きちぎり、田中にそれを寄こした。
身を乗り出して腕を受け取る間に、さくらの欠けた部分は再生した。
指は鋭い爪に覆われ水かきもあるが、ほとんどの部分は普通の人間のもののように見える。
これは人じゃない。人じゃない。人じゃない。
「人じゃない」と自分に言い聞かせるように呟きながら、田中は赤黒い肉塊をなんとか咀嚼した。
吐き気を堪えて咀嚼しては飲み込むのを繰り返す内、口の中が痒くなってきた、
口内に硬いものがごろごろしているので吐き出すと、抜け落ちた自分の歯であることに気づいた。
歯を全て吐き出したころには新しいギザギザの歯が生え揃っているのが分かった。
飢えを感じ、生えたばかりの歯で皮膚を食いちぎり、残りの肉をむさぼる。
「おにーさん、おいで。受け止めてあげる」
はっきりとさくらの声が聞こえ、その声に誘われるように身を投げた。
落ちた衝撃で足はちぎれ、あとには魚の尾が生えてきた。
海の中で互いを抱きしめ、人魚たちは微笑んだ。
そうして時折、その海には人魚が住んでいるのだと噂が立つようになったという。
決して見つかってはいけない、人の味を覚えてしまった人魚だから、とも。