2022.04.15
傾けた黒いお椀は海のにおいがする。刻んだねぎと、やわらかいお麸って具と、四角に刻まれたわかめを沈ませた薄い茶色の液体。食卓をおいしく埋める一員の、かつおぶしっていうふわふわの材料で出汁をとって、時間と心を込めて作られた味噌汁。話しながらだと傾ける加減をまちがえてこぼしそうになるから、これだけはいつも静かに飲んでいる。
「俺まで頂いてしまって、すみません」
この家に来てからはずっと、四脚の椅子を備えた大きなテーブルの、僕の前におかあさんが座って二人で食べている。それからちょっと離れた壁際の、たまにこの家に預けられるショコラ、用のお皿も置かれたところでクーがやわらかなごはんをぺろぺろと平らげて、静かな食卓なんだけど。
「そう畏まらないで。一緒に食べたくて誘ったんだから」
「そう、ですね。羽佐間先生の料理、おいしいです」
今日は、ショコラに加えて、僕の隣に甲洋がいる。テーブルに一人増えただけで、別の空間に来てしまったような感覚があるのはどうしてだろう。変化は恐れるものじゃないし、ここはおかあさんの家で、僕の、所有領域でもないのに。食事に誘うのを決めたのだっておかあさんだった。異はないし、特別指令に従って連れてきたのだって僕だ。
ぽそぽそ喋る甲洋は、予定をたずねた日はしぶっていたけど、当日腕を引っ張る僕に黙ってついてきてくれた。だから覚悟を決めたと思っていたのに、まだ緊張しているらしい。
「ねえ、甲洋くん。おかわりはいかが?」
今日、二回目の催促だった。体格のわりに、要求する主食が少ないのを心配しているんだろう。甲洋に近い大きさの保や恭介はもっと器に盛っていたから、そちらの摂取量に慣れているんだろうな。人のかたちをとっているけれど、僕たちは本来、経口摂取を必要としない。おかあさんも理解しているはずだ。甲洋の場合はヒトからこちらへ変異したというのもあるし、自覚がないだけで必要になるのかもしれないけど。
それにしても、僕のと同規格のお茶碗に、僕よりも少ない量は気にされるに決まってる。一騎が盛り付けてくれたごはんは残さずぜんぶ食べるのに。遠慮してるのかな。
「いえ、じゅうぶん、腹もいっぱいになりそうなので。ただ、噛み締めて食べられたおかげですかね」
「あら。お気に召したかしら。だったらうれしいわ」
歯切れ悪い声を聞きながら、お茶碗のへりに張り付いたごはん粒を口へ運ぶ。お昼ごはんは一騎が作ってくれるものを何度か一緒に食べたけど、晩ごはんまで並ぶのは初めてだ。明日も三人でこうするのかな。その次も、僕の右隣にこの広い背中が座るんだろうか。
僕の居場所を作ってくれたおかあさんのそばに、甲洋の気配が増えていく想像は心をざわつかせるけど嫌な感じじゃない。そばを許してくれる二人がなかよしだと、嬉しいかも。これってどう言い表せばいいんだろ。
片手で持ち上げた黒いお椀をちょっとずつ傾ける。底に残ったねぎの切れ端や、お麸の細かいの、かつおぶしから出た粉っぽいのはお箸でくすぐるようにして、口の中へ落としてく。おいしいけど濃くってちょっと苦い。汁が残っているうちにかき混ぜそこなうとこうなる。
「操? お味噌汁の味、好きじゃなかった?」
「んーん、おいしいよ。入ってたお麸ってやつ、好きだな」
「お麸、結構癖になるわよね。私も好きなの。もどす必要があるし、なんだか日常の象徴って気がして」
「これも、僕とおかあさんのおそろい?」
「そうね。新しいおそろい、嬉しいわ」
甲洋に注がれていたおかあさんの興味がこちらへ向いた。甲洋まで僕を見てる。自分に注目する視線がそれたからか、思考の緊張が少しだけほどけている。
『おかあさんと話すの、気まずいの? おかあさんのこと、きらい?』
『まさか。羽佐間先生は悪くないんだ、ただ俺が……』
『おれが、なに?』
答えをくれる前に、比較的にぎやかな思考まで黙ってしまった。なにを言えばいいのかわからないのかな。心の中では口に出す以上に素直に料理を褒めてたんだから、ちゃんと伝えればいいのに。湯気をたてるごはんとおかずが並べられた時、息をつまらせてたけどうれしいって思ってたじゃない。話す内容に迷うなら、味の感想を伝えればいい。
『一緒に食べるの、いやじゃないんでしょ。おかあさんは心を読めないんだから、言葉で伝えてあげてよ』
僕がどっちとも話してちゃ、二人の交流にならない。お椀を持ったまま、床を蹴って椅子の鳴き声を聞く。
「なくなったからついでくるね。コンロ使ってもいい?」
「ええ。やけどしないようにね」
「うん。おかあさんもおかわりする?」
「私はいいわ。そろそろ、お腹いっぱいになってきたから」
「あ、じゃあ俺も……」
さっきはいらないって言ってたのに。僕たちとおそろいの黒いお椀はすっかり空っぽになってる。言い訳のために飲んだのかな。もうちょっと話しててほしいから、ちょうどいい、みたいに立ち上がろうとする手から黒をひったくる。
「甲洋にも、あっついの持ってきてあげる。あっためる間、おかあさんと話してていいよ」
甲洋がここに馴染んでくれたら、もっとごはんが楽しくなるかもしれない。おかあさんもきっと嬉しい。僕もたぶん、ここでも一緒にいられたらうれしい。だから甲洋にもがんばってもらおう。これからも呼ぶ気が起きたからには、気まずいままいられるのはちょっと困る。
「え、でも」
「お願いしましょ。操、よろしくね」
「はあい!」
やったな、おまえ、と恨みっぽく向けられる心をかわして点火スイッチを押す。味噌汁は、弱火でじっくりやるのがおいしくあっためるコツだ。待つ間はカウンターの向こうっかわでにこにこのまんまのおかあさんと、すごーく困った顔の甲洋を眺めることにしよう。
「迷惑じゃなかったら、これからも時々みんなで食べない? 操もなんだか嬉しそうだし」
「め、いわくでは、ないんですけど……人数が増えると、手間じゃありませんか」
「ちっとも。食べてくれる誰かのために作るの、好きなのよ。もちろん、甲洋くんさえよければだからね」
くつくつ揺れ始めた水面をお玉でゆっくりかき混ぜる。湯気が出始めたら火を止めて、冷蔵庫から持ち出した保存容器から刻みねぎをふたつまみずつ入れておく。
甲洋のお椀、飲み口までの坂に残りかすが張り付いてる。お椀の中で汁を回さずに大急ぎで飲んだらこうなる。味わってなかったわけじゃないだろうけど。お麸とわかめ、多めに入れておいてやろ。
「答えは今、すぐじゃなくていいの。ちょっとでも、考えてみてもらえたら嬉しいわ」
ふたつを持ってそろりそろり歩く。ショコラもクーも向こうで丸まってるから大丈夫。今日は驚いてこぼしたりしない。
「……返事、お待たせしてしまったら、すみません」
「いいの、いいの。急いで決めることじゃないわ。ご飯ものんびり食べるとおいしいでしょう。ほら、操もおかわりを持ってきてくれたから」
行動予測とか、空間把握とか、してるわけじゃないらしいのに、おかあさんは時々こうして、じっと見てたわけじゃない僕の行動をピタリと当てる。謎だ。母親ってそういうものなのよってはぐらかされたのを思い出しながら、甲洋のお椀を置いてあげる。
「ん。どーぞ」
「ありがとう」
受け取った。渡したおかわりを自分のぶんだって認めた。つまり限定的だとしても、ここを自分の滞在場所だと認識してるってことじゃないの。あとは甲洋自身が、ここにいたいって気持ちを肯定すればいい。
おかあさんの指令をそのまま伝えた時、これきりにしろとは言われなかった。さっきの提案だっておかあさんからしたものだから、甲洋が返事を決める前でも、僕から誘って構わないはず。こういうことを言うとへりくつだって抗議されるけど、甲洋の言葉の拾い方を真似してるだけだ。
「それじゃ、くつろいでね」
交代に立ち上がったおかあさんが空のお皿を持ってシンクに行くのを見送って、お箸で汁を揺らしながらわかめを咀嚼する。お麸がふわふわならこっちはもにゅもにゅ。食感っておもしろい。
「なあ、なんでいつも多く入れてくれるんだ?」
ここにいてほしいからかな。たぶん。
「おいしかったんでしょ。大事に飲んでね」
「うまいし、そりゃ、大事にいただくけど。お前のぶん、少なくない?」
「そう? そう思うなら、次の僕のぶん、多めに入れてくれたらいいよ」
「次? まだ食べるの」
伝わってないなこれ。まあいいや。
「答え合わせするまでないしょ。それよりさ、デザートのアイス、なににする? お客さんだから、先に選んでいいよ」