2022.06.16
よく冷えたスポーツドリンクでひと心地つきながらメアリを愛でる時間は最上の癒やしだよなと思う。茨にそれを言うと、火照った体によくねえから常温にしておけとお小言を言われるが、オフの間の一本くらいは許して欲しい。ウェアを湿らせる心地良い汗が不快になる前にさっぱりしたくっても、シャワールームはあの人が占領している。
「メアリはもうメシ、もらいました? あー、腹減ったなあ。あのアホ貴族、さっさと出てくんねえかなあ」
愚痴をこぼしてもぴすぴす鼻を鳴らして聞いてくれるメアリは天使だと思う。それも最上の。ああ癒やされる。この、他と変えがたい時間を、どすどすでかい足音がかき消してく。
声はともかく、いつもはこんなにうるさくしない。よくも置いていったな、ぼくはすごく拗ねていますと、全身で示しているのだこの人は。
「おやジュンくん! おかえりっ、ぼくとメアリにお土産はないのかな!」
「はあ、はい。帰ったのはもうちょっと前ですけどねぇ」
出た。正確には背中からのしかかられた。ああ抱き締められるなとありありと感じ取ったところで、この人の腕は避けようもねぇんだが。オレと、遠方へのロケで今は不在のサクラくんの私室で己が主とばかりに出迎えられるのは、これで何度目だっただろう。
「ジュンくんが出て行っちゃったせいで今日はずうっと退屈だったねっ、どうしてきみって子はぼくを置いてトレーニングに励んじゃえるのかな!」
ぎゅうっと抱き締められながら、耳元で叫ばれる不愉快さと、オレのボディソープの匂いに包まれたおひいさんの体臭がちぐはぐに襲ってくる。落ち着け。あったかくてやわらかくて気持ちいいとか、考える時間じゃねえ。腹も減ってるんだから。膝に乗せたメアリはオレたちが揃って嬉しいのか、ぶんぶん尻尾を振っている。そうだ、メアリを寝かしつけるまでは。
一日つってもまだ夕飯時を軽く回ったくらいで、晴れているならまだ太陽も落ちきっちゃいない頃合いだ。夜中に帰るよりはましなんだから、日中留守にするくらいいいだろう。
「仕方ねぇでしょ、ロケが伸びるってんだから……まる一日荷物持ちのつもりでいたんですから、動かねえと消化不良なんですよ」
オレたちEveは昨夜から止んでくれない大雨のおかげで朝方から一日掛けての収録予定が立ち消えて、思いも掛けずまる一日のオフを手に入れたのだった。技術が発展したとて全部の現場が雨天決行、とはいかないところは厄介だが、たまにハプニングが起こるくらいはいい。なにせ、試してみたいトレーニングが溜まっていたものだから、天の恵みに近かった。
おひいさんはそうじゃなかったみたいだが。ひとの部屋を占領してたくせに。ここへ泊まりに来るたび私物を広げてはオレに片付けさせて、ついでに毎回ひとつは小物を残して帰っていくんだから、すっかり三人部屋じみている。サクラくんの懐深さに感謝するべきはオレよりもおひいさんのほうなんじゃねえかな。
「ぼくとお話して過ごせばいいじゃない。たまには、お仕事以外で接するのも大事でしょう」
「毎日の間違いでしょうが」
「毎日ほどじゃないね。最後にはお部屋に帰ってしまうんだから、物足りなくもなるんだよ」
つつ、とぬくい指が首をかけあがる。声がくぐもって聞こえるのは、オレの髪に埋もれてるからで、そのまんま深呼吸するみたいにかいでる。……かいでる? なにを? めちゃくちゃいい匂いのこのひとが? オレの汗くせえのを? なんで?
「ッ、ちょっと、オレ汗臭いでしょ。離してくださいよ……」
「そうだね。きみの、ジュンくんのにおいがすごく濃い。……ぼくのそばでこうなればよかったのに」
はあ!?
なん、なんだこの、この人は!!
近くで汗をかくのはやめろって言った日もあったくせに。振りほどいて噛み付いてしまおうか。プロレス技かってくらい強引に抱き締められるこの人は、誘い文句を口にする時は妙に優しく触れてくる。オレに引きはがせる程度の力加減をしやがる。そういうのこそ、はがすのをためらうってよくよく知っているから。
「メシ、後回しでもいいですか。あんたがその気ならオレ、」
「だぁめ。おなかが空いているんでしょう? ぼくといない間の成果をしっかり洗い流して、たっぷりご飯を食べてからしよう、ね?」
ね、じゃない。オレが外してやりたかった腕が自ら離れてメアリをさらってく。行き先はベッドか、それとも誘ったくせにてめえの私室かだろう。シャワールームが開いたのはそりゃあありがたい。戻るまでとは別の汗が腹んとこに溜まってやがるし、なにを始めるにしてもさっぱりはしておきたい。
とにかく立とう。うん。なにが待っていようともだ。ついでに煩悩を追い出そうと膝を叩いて、こんちくしょうと立ち上がる。頭まで振ってみても冷却効果は薄いし冷たかったスポドリはとっくにぬるっちい。
つーかなんで自分の部屋でまで振り回されなきゃならねえんだ。オレが主導権をもらったっていいだろうが。一生無理だってのは理解しちゃいるけども!
「なに、唸ってるの。ジュンくんってば、ぼくが帰るとでも思ってさびしがってるのかね?」
「……なんでもねぇです! 帰るなら帰りゃあいいでしょうよ、せいせいするんでそのほうが!」
まじで帰りやがったら迎えに行ってやる。もう気分じゃないとか言ったって連れ戻してやるからな。そう、思い浮かべてんのまで、なにもかも見抜いてるようにくすりと向こうで笑いやがる。
「すみませんね、また一人にさせますけど、せいぜい大人しくしててくださいよ!」
さっきのおひいさんへの意趣返しも含めてずかずか歩いてやると、すれ違いざま耳に入るか入らないかってくらいの声量で、
「ぼく、もう準備万端なんだよね。待たせるかどうかは、ジュンくんが決めて?」
とか、囁くもんだから。情けなく、まあ、膝から、こう。……いてえ。
「てきとうに済ませたら突き返してあげるから。ふふっ、隅々までゆっくりきれいにしてくるといいね!」
メアリをクッションベッドへ連れて行く背中を引き止めれば、機嫌を悪くさせるだろう。まったくままならない。ほんの少し自由にさせてもらえる程度で反抗を成し得た気持ちになるのも、おひいさんの手のひらの上なんだろう。結局オレは、たった一人のお姫様に従うしかないのだ。
「……くそっ」
せめてさっさと、嫌味なくらい丁寧に、同じ匂いになりにいってやろう。