ここは楽園じゃないけれど 擦り寄ってくる猫の背を撫でながら、ナギリは背後から聞こえるペンの音に耳を澄ませていた。それは一定のリズムで狭い部屋に響く。
ナギリは神在月の部屋の窓辺にいた。夕陽は沈んだかと窓を開けたら、野良猫がするりと窓に飛び乗ってきた。この辺りでよく見かける泥みたいな色の猫だ。
猫は警戒する様子もなく窓枠を歩くと、ナギリの前に座った。撫でてもいいと言わんばかりの顔をしている。
その愛くるしさと傲慢さの混ざった態度に、ナギリは威圧的に見下ろす。だが猫はそんなナギリの脅しが本気でないとわかっているように、尻尾をふわりと振っていた。
「その猫かわいいよね」
こちらに背を向けているはずの神在月が言った。神在月は椅子に固定してあるから机からは離れられない。
「原稿はまだか」
「その猫、こっちから寄っていくと逃げるけど、たまに会いに来てくれるんだよね」
かわいいよねえ、と神在月はふやけた顔をする。手が止まっていてナギリを苛立たせた。
「猫はひとの性質をみるのが上手いんだって」
「原稿進捗具合屑野郎が見分けられるのか?」
「今日のナイフ鋭くない?」
にゃーんと猫が鳴いた。そして頭をナギリへと押し付けてくる。
「ほらね。猫は優しい人がわかるんだ」
「そんなわけあるか。原稿しろ」
ナギリは傷跡の残る手のひらで猫の頭を撫でた。猫が気持ちよさそうに目を細める。もっとこっちを撫でろというように体をくねらせ、ナギリの手は移動していく。
神在月はようやく手を動かし始めたのか、ペンの音が聞こえてきた。
「……それが本当なら、こいつは真っ先にお前のところに行くだろうが」
集中している神在月には聞こえないと思ってナギリは言った。
あのとき、ナギリがどこへ行ったらいいかわからなくなって、気がついたらこのアパートに来ていたあの夜、神在月は逃げるナギリを追いかけてきた。原稿も何もかも放り出して、何度か原稿を手伝っただけのアシを追いかけるなんて馬鹿げている。
だが神在月は、息を切らせて汗まみれで、今にも倒れそうになりながらナギリの手を掴んだ。どこへいくの、こんなに寒いのに、と息も絶え絶えで言う神在月を、ナギリは殴り倒したくなった。
優しさなんてまやかしだ。偽物だ。そう思ってきた。だからその優しさを、無防備に振り撒く神在月が、ナギリには信じられなかった。きっと正体に気付いてハンターにでも売り飛ばすのだろう。そうでなければおかしい。
だが神在月は、どこへも行けなくなったナギリをそばに置いた。どこかへ行ってしまいたくなって、でもどこにも居場所などなくて、だから消極的に選んだこの部屋で、神在月の原稿を急かしながら、ただ存在しているだけになったナギリを、それでも神在月は追い出さなかった。
「……なんだ」
いつの間にか背後に立っていた神在月がナギリのマントを掴んでいた。俯いた猫背で、その腹はガムテープでぐるぐる巻きになっている。背中には椅子がくっついていた。からからと椅子の車輪が回る音がする。
「どこかに行きたいの?」
「なんだ突然」
「もし行きたい場所が見つかったら、行っていい。でもそのときは、行く前に教えてほしいな」
「何の話だ」
「だって、ふらっとどこかに行っちゃいそうな気がして」
「俺は幼児か」
「だってナギリさん、そんな雰囲気してる」
マントがぎゅっと握られる。神在月のほうが親に置いていかれまいとする子供のようだった。
ナギリの正体を知りながら、まったく怯えもしないこのひ弱なダンピールは、どこかおかしいのだろう。でなければ真っ先に逃げ出すはずだ。
神在月が顔を上げて、その金色の瞳がナギリを見た。不思議と嫌じゃない。その瞳に見つめられるのは、月を見ているみたいだから。
「でも、この街は受け入れてくれると思うんだ。きっとナギリさんが望めば、どんな生き方だって選べる。俺や沢山のひとがそうしてるように」
ナギリの頭にこの街の馬鹿どもの顔が過ぎる。騒がし過ぎるこの街を彩る汚いネオンのようだ。
「でも、もし、その沢山の生き方の中から、俺と一緒に漫画を描くことを選んでくれたらいいなって」
消え入りそうな神在月の声にナギリはその胸ぐらを掴み上げた。
「ヒッ!」
「どうせ……」
ナギリはそこで言葉を止める。斬り裂くような言葉しか使ってこなかったナギリには、神在月のような優しい言葉は知らない。伝えたい気持ちを少しも表せない言葉しか思い浮かばなかった。
ナギリの手を神在月がそっと握る。夜が訪れた部屋で、二つの月がナギリを見ていた。
「ここは楽園じゃないけど……楽園どころかいつも修羅場だけど」
「修羅場と楽園は全然違う」
「でもきっと二人だと修羅場でも楽しいよ」
神在月が情けなく笑う。どうやら原稿が進まなくて狂いはじめたらしい。
「……原稿はどうしたんだ」
「あ、トーンを貼ってもらえるとこまで進んだ」
「それをさっさと言え」
ナギリは神在月を引き摺って机の前に座らせると、その隣に座る。指示を見ながらトーンを探した。神在月は何か喚きながらペンを探しているので、落ちているそれを拾って神在月の頭に突き刺した。
「お前が漫画を描き続ける限り、俺がトーンを削ってやる」
「え、本当!?」
「俺がお前を見限らなければな。さっさと次のページをよこせ」
二人は並んで漫画を描き続けた。その夜だけではない。何年も、何作も、ずっと、ずっと。