空閑汐♂デイリー800字チャレンジ:27 三人の男達を廊下に残し、一人道場へと足を踏み入れた篠原は眼前に広がる光景に思わず片手で顔を覆っていた。突然現れた先輩の姿に救いを求めるように後輩達の視線が向けられる。
「何の事件現場だ?」
篠原の口からは、あまりにも物騒な言葉が溢れていた。
「篠原先輩……! いい所に!」
「息はあります!」
「汐見先輩の上段蹴りで空閑先輩が宙を舞ったんです!」
「よし分かった。すげぇ分かりたくないんだけど、大体分かった」
汐見も頬を腫らしていたが、空閑はその比ではない。完全に伸びてしまっている空閑の元にしゃがみこんだ篠原は軽く彼の頬を叩く。ぼんやりとしていた焦点が篠原へと結び、空閑は幾度か瞳を瞬かせる。
「空閑、今の状況分かるか?」
「アマネに蹴られた事までは覚えてるんだけど……アマネは?」
意識が一度飛んだことでリセットされたのだろうか、喧嘩をしていたとは思えない程に普段と変わらない様子でそう問いかけてくる空閑に「多分お前を蹴り上げてから、俺らの所来てヴィンと浮気宣言してたから高師も含めて事情聴取中」と篠原の前で起こった今までの流れを告げる。
「それと、お前はまず検査だな。附属病院行くぞ」
「あぁ、うん。でもこれ、喧嘩ってバレちゃうかな……」
いつもよりも少しぼんやりとした声で紡がれる空閑の言葉に、篠原は思わずため息を漏らす。頬を腫らし鼻血を出して何なら今まで意識も失っておいて言う事か? と思いながらも肩を竦めて言葉を返した。
「どっからどう見てもボコられてるわな」
「階段から落ちたって事で口裏合わせてくれない?」
空閑自身の評価を気にしたか、汐見の評価の影響を気にして出た言葉なのか。汐見と空閑を並べれば、恐らく二対八くらいの割合で空閑の方がボロボロだろうに。それでも真剣な深い海色をした瞳を向けられれば、篠原はその依頼に頷く事しか出来なかった。
精密検査の結果は異常なし。もしもこの後数日間で少しでも変化があればすぐに言うようにというお達しで放免された空閑は、学生寮の一室――フェルマーと篠原に与えられた居室に座らされていた。
「――で、何だってそんなボロボロにされて汐見は汐見でヴィンと浮気するなんて高らかな宣言をしたって言うんだ」
「ちょっと待って浩介。さっきも聞いた気がするんだけど、アマネとヴィンの浮気宣言って何!?」
「読んで字の如く。汐見が突然うちのクラスに来たと思ったら「ヴィンツェンツ・シエン・フェルマー、俺と浮気してくれ」って高らかに叫んでたんだよ」
空閑の疑問に淡々と答えていく篠原の言葉を咀嚼するように黙り込んだ空閑は、いきなり深い紺青の瞳からぽろりと涙を零していく。その様子にぎょっとしながらも篠原は「情緒不安定かよ」と思わず漏らしていた。
「おれ……俺、カッとなったからって、アマネの顔殴っちゃって……このまま、アマネに振られるのかな……」
涙を流しながら両手で顔を覆い涙に濡れた声でその不安を紡ぐ。本格的に泣き出してしまった空閑に、篠原は思わず「待て待て待て」と声を上げていた。
「浮気相手にヴィンを選ぶ辺り、めちゃくちゃ健全な浮気だろうよ! 本気でお前を切るつもりなら、アイツも普通科の女子とか引っ掛けると思うぞ!?」
常日頃からフェルマーは高師への思慕を事ある毎に名言している。そんな人物を浮気相手に選ぶ辺り、汐見だって本気ではない。恐らくは後からその発言を聞かされるだろう空閑への当てつけと、そう口にする事でフェルマーや篠原達に空閑と何かあったという事を知らせるつもりだったのだろう。
基本的に汐見はプライドが高く、誰かに頼る事を苦手としているのだ。しかし、この状態を放置できる程に空閑への情を無くした訳でもないのだろう。それが理性から来たものか本能から来たものなのかを判別する術はなく、ついでに巻き込まれた側からしてみればたまったものではないのだが。
「あのなぁ、お前らが割とヤバそうな喧嘩してると、俺らだって心配する程度には友達やってきてると思うんだけどさ。ホント、どんな事情でこんな事なってんだよ」
ため息混じりに問いかけた言葉に、空閑は洟を啜り目元を擦って逡巡するように言葉を探す。その間篠原は下手に彼を追い詰めるような言葉をかけたりせず、ただじっとその沈黙の中で空閑の言葉を待っていた。
そうして空閑は、ようやく観念したように唇を小さく震わせ――消え入りそうな程に細い声で言葉を紡ぎはじめるのだ。
「推薦、俺かアマネかって話で。この間の定期試験結果で決めるって言われてたんだ」
「そんな内情まで言うのか、お前ん所」
「担任と良好な関係築けてるのと、俺ら以外が推薦に上がる事は無いなって俺らですら分かってたからじゃないかな。で、試験の結果はアマネが総合一位で俺が二位だったんだよ」
空閑の言葉に少しの感想を交えながら頷いていた篠原に、彼はその結果を口にする。
「じゃぁ、今回の推薦は汐見だったのか?」
全く喧嘩の理由が見つけられずに首を傾げて問う篠原へ、空閑はゆっくりと首を横に振る。
「推薦は俺に決まったんだ。それが今回喧嘩した理由」
空閑の言葉に合点が入ったように「あぁ……そう言う事……」とため息と共に吐き出した篠原に頷いた空閑は言葉を紡ぐ。その声色には困り果てた色は混ざり込んでいたものの、先程までの力のなさはもう無くなっていた。
「うん、そういう事。アマネに推薦譲られても俺は嬉しくないし、何でそんな事したのかって問い詰めちゃって。そこからついつい殴り合いに……」
「お前、普段はあんなに温厚っていうか……汐見が何しても笑ってっから忘れそうになるけど、割と喧嘩っ早い所あるもんな」
「そうなんだよねぇ」
ほとほと困り果てたように眉を下げる空閑をどうしたものかと端末を手にした篠原は、そこに一通のメッセージが届いている事に気が付いた。差出人はもう片方の男に事情聴取をしている筈の人物で。
『要するにただの痴話喧嘩だ。汐見が先に航宙士学院の入学を決めた空閑を追いかけて入学したかったという話らしい。今から説明させに行くが、何処にいる?』
高師らしい要件のみの簡潔な文面に、更に短い文面で言葉を返した篠原は空閑へと向き直る。
「で、空閑はこれからどうしたいんだ」
「アマネと仲直りしたいし、推薦は元々アマネのものだったならアマネが推薦されるべきだと思う」
「そこはブレねぇのな。ちょっと安心した」
汐見の顔面殴るような喧嘩というのは、篠原としても心配ではあったのだ。こんな時期に二人がこのまま仲違いするのを見たくなかったというのが本心ではあるが。
そんな会話を交わしていれば、ノックもなく部屋のドアが開かれる。そこにあったのは後ろをフェルマーと高師に固められ、逃げ場を失ったように気まずげに立ち尽くす汐見の姿であった。
「アマネ……」
「すまん、俺が考えなしだった」
その存在を確かめるように、目の前にいる男の名を口にした空閑にその名を呼ばれた汐見はキレの良い動作で最敬礼を見せていた。
「俺こそ、殴っちゃって……」
「ヒロミ、お前が俺を殴った事よりも俺がお前を殴るだの蹴るだのした方が割合として確実に多いぞ。違う、そこじゃない」
空閑の少し間の抜けた言葉に、思わずと言ったように上体を起こして声を上げた汐見は、一人で自身の言葉に突っ込みを入れる。自身を落ち着かせるよう一拍の呼吸を置いて、ベッドに腰を下ろしていた空閑の前にひざまづいた汐見は再び薄く形のいい唇を開いた。
「俺がセンセに推薦はヒロミにしてくれと言ったのは、何も試験だったらヒロミが受からないとか、ヒロミの事を侮っているとかそういう事じゃないんだ。ただ、俺が、ヒロミの事を追いかけたかった。それだけの我儘でセンセに頼んだんだ」
見上げるように、汐見の瞳は空閑へと向けられる。腿に乗せられていた空閑の手を取り、汐見は願うように言葉を重ねていく。
「なぁ、ヒロミ。俺にお前を追いかけさせてくれよ」
それはまるで、求愛のような響きで汐見の唇から紡がれていた。空閑の前でひざまづき、彼の手を握りまっすぐに視線を向ける。これが何処ぞの王子様とお姫様であればきっと、おとぎ話のラストシーンだなんて篠原は目を細める。
篠原の目の前に居るのは、王子と姫ではなく二人の男子高校生で二人して顔に痣を作っているのだけれど。
「……ほんとは、推薦もアマネに戻したかったんだけど。そんな事言われたら、頷くしかないじゃん」
握られた手をそのままに、大きなため息と共に体を折った空閑に汐見は小さく笑う。
「ごめんな、すぐに追いつくから」
そう口にした汐見はうずくまるように体を折り曲げてしまった空閑の旋毛に口付けを落とすのだ。