ビー・マイ・ラヴは鳴らされぬ ――最近、頭を悩ます事が一つあったが、最近悩みが一つ増えてしまった。その発端は数日前の夜の事であった。
「ちょっとま、この店は……」
「二名なんですけど、空いてますか?」
店内へと少し焦った声色の女性と、にこやかな青年の二人連れが入って来る。女性連れの男は珍しくは無いが、女性側が焦った声色で入ってくるのは珍しく、その声に視線を向ければにこやかな青年の後ろに立つのは見知った顔であった。いつもとは雰囲気の違う女性らしい姿をした彼女はその装いに反して鋭い視線をこちらへと投げる。
その視線の意味を口止めであると察し、「どうぞ、奥の席が空いてますよ」と彼らをテーブル席へと誘導したのだ。スタンダードが流れる店内で彼と彼女がどのような話をしていたのかは分からない。しかし、度数の高いカクテルを数杯飲み切った彼女がこの店を出る時にはその背を男の腕が回る事を許していた事だけは知っている。
「兄さん、ちょっと」
そして今日、そう言って店に入り、そのままカウンターに座る件の彼女は先日とは打って変わり、会社帰りなのだろう。いつもの装いでジンライムを注文し、いつも通りにそのグラスを受け取るや否や、平日中日の夜中で殆ど客が居ないことをいいことに、低い声でこちらへと声を投げる。
「お嬢、どうかしましたか?」
彼女は「この間のだけど、親父には密告してないよな?」と鋭い視線でこちらを射貫く。「この間……というと、お嬢が好青年風の男性とこの店にいらして最終的に腰に手を回されたまま店を出て行ったあの日の事ですか?」そう確認すれば「皆まで言うな」と苦々しげに返される。
彼女はタバコに火を付けその煙をゆっくりと吸い込み、そして吐き出す。
「言ってませんよ」
「恩に着る」
「お嬢は先輩の娘さんである前にお客様ですからね」
そう、目の前にいるお嬢こと常連客である笹野葎花は、何を隠そう高校時代先輩であった人の娘でもあるのだ。最初は先輩に連れられて来たものの、彼女が就職してからは一人でふらりと立ち寄る事も多かった。
基本的に先輩の入れたボトルを減らしていく事が多いが、今日のようにカクテルを注文する事もある。
「で、先日の彼とはお付き合いを?」
「やめてくれ」
苦虫を噛み潰したような表情でそう口にする彼女に、成程親には言えないような関係か。と一人納得する。しかし、今後先輩と会う事になった時に顔に出ない様にしなければ、と増えた悩みが解消する事は無かった。そんな時である。もう一つの悩みの種がドアを潜ってきたのは。
「ナルミさん今日も格好いいスね、まずジントニ……って、笹野?」
いつもは来ないような時間と曜日にヘラリと笑い誉め言葉と共に店に入り、決まり切った注文を口にする昔からの知り合いであり、常連客でもある藤田雄一はお嬢の顔を見て固まる。「嘘だろ」お嬢も藤田の顔を見て固まり、タバコの灰がこちらが構えた灰皿の上へとポトリと落ちる。
「お知り合いで?」
彼らにそう声を掛ければ「フジと私、同じ会社の同期。部署は違うけど」とジンライムを呷りながらお嬢が答える。
「ていうか、もしかして兄さんとフジって知り合い?」
二人ともこれだけ店に通っているのにここまで一度も店に来る日が重ならなかったから発覚しなかったこの二人の関係に思わず眉間に皺を寄せ、藤田に注文されたジントニックを作りながらも彼らの会話を窺う。藤田は「実家が近所でよく入り浸ってたんだ」と返す。「笹野もナルミさんと何か関係があったの?」と重ねながら。
「こっちは兄さんが親の高校時代の後輩。同じバンドで兄さんがサックス、親がキーボード」
で、よくウチに遊びに来てたんだよ。と彼女は言葉を重ねる。
「羨ましすぎる……」
「いや、フジだって元々知り合いだったんでしょうが。かわりゃしないでしょう」
羨望の眼差しでお嬢を見つめる藤田へ彼女はいつもの調子で声を投げる。その声色を聞く限り、彼女は彼を少なくとも嫌っては居ないように思えた。
「お嬢にもちゃんと友人が居たんですね」
「ちょっと待って笹野、ナルミさんにお嬢って呼ばれてんの?」
何の気もなく彼女へ告げた言葉に、彼女は渋い顔をし、藤田は面白いものを見たというような顔を隠さず彼女へと問いながら、彼女の隣の席に腰を下ろしている。
彼の前にグラスを差し出せば「ありがとー」と爽やかな笑顔をこちらへと向けるのだ。
「チビの頃に兄さんとしてたごっこ遊びが抜けないんだと」
「お嬢はお嬢と呼ぶのが一番しっくりくるというか。笹野さんは先輩ですし、葎花ちゃんというガラでもないでしょう?」
「辛辣だね」
「兄さんの口の悪さはいつもの事でしょ」
確かに。と彼女の言葉に藤田も頷く。好き勝手言う若者二人に「お二人とも明日の仕事に響かない程度で切り上げた方がいいですよ」と告げておく。
「あ、私は明日休み」
二十連勤ストップいえーいと何一つ感情が読めない平坦な声色で彼女は口元だけで笑って見せ、「俺も明日休みなんで」と藤田は彼女の言葉に重ねるように告げる。
「ていうか、笹野お前どんな働き方をすればそうなるんだ」
「んー、通常業務やって、上司の仕事やって、謎の他部署ヘルプに回されるとこうなる?」
藤田は彼女の言葉に渋い顔で疑問を投げ、彼女はその疑問にヘラリと笑いながらその事実を返す。そういえば先輩も学生時代、スケジュールを詰め込みそれを消化することに快感を見出すタイプの人間だったな。と先輩の遺伝を彼女に感じる。
恐らく彼女が所謂社畜と呼ばれる人間へと成長しているのは先輩の遺伝子が齎した負の遺産だろう。そんな彼女を見ながら藤田は「そのうち過労死するぞ?」と警告するが、「死ぬ前に辞めるし、万が一死んだら裁判に打って出ろって家族に言ってあるからだいじょーぶ」などと笑うのだ。一体何が大丈夫なのだろうか。
「さて、飲むか。兄さん、親父のボトル出してよ。フジも飲むだろ?」
グラスに残ったジンライムを飲み干し、彼女は若干陽気な調子でそんな言葉を口にする。彼女が酒に強いのは知っているけれど、彼女が呷ったのは度数の高いジンライムだ。しかもグラスに残っていた量も少なくはなかった。
一気にそのアルコールを流し込んだ彼女に「程々にしといた方がいいんじゃないですか」とだけ告げ、棚に並んでいた先輩の入れたボトルとグラス二つに氷と割り物を彼女の前に置く。「また先輩が来た時に残りが殆ど無くなってて怒られますよ」という忠告も忘れずに。
「いーのいーの。今日はもう空にする気で来てるから。無くなったら新しいの入れといて。親父が来なかったら私が飲むけど」
彼女はカラン、とグラスに氷を落とし、出されたボトルから琥珀色の液体をグラスの中に注ぎ込む。彼女は空のグラスを藤田へ勧めるのも忘れない。
「俺まで良いのか?」
「とりあえず秘匿情報を秘匿出来て気分いいからいいよ」
アルコールで口が軽くなっている彼女はそう言って笑う。「秘匿情報って何だよ」と呆れ声で彼はジントニックをその喉へと流し込む。
「秘匿情報だから秘密に決まってるだろ」
その部分は口が軽くなっても明かす気はないらしい。余程悪い男に引っかかっているのだろうか。一見したその男は爽やかな好青年に見えたが、人間というのはその本質と外見が必ずしも一致するものではない。
「兄さん折角だからセッションしよ」
ウイスキーのロックを手酌で数杯重ねた彼女は思いついたようにそう口にする。彼女は先輩の影響なのだろうか、大学ではジャズ研に所属しキーボードを弾いていたという。気分が乗ると唐突にそんな事を言い出すのは今に始まったことではない――が、
「お嬢、結構酔ってるでしょう」
アルコールに侵された指先でキーボードを操れるのか、その意を込めて彼女に問えば彼女は指の調子を確かめるように幾度その手のひらを握り開く事を繰り返し「コンファメとかスペインとかじゃない限り行ける」と答える。
「じゃぁ俺、リクエストしたいんだけど」
彼女の隣で水割りを飲み続けていた藤田も大分酔っているらしい。いつもの調子でリクエストを希望する。「承ろうじゃないか」彼女も気が大きくなっているらしい。彼の言葉に鷹揚と頷き、彼のリクエストする曲名を待つ。
「ビー・マイ・ラヴで」
彼の言葉に彼女は一拍分の時間を沈黙に使い、「ふぅん」と口元で弧を描く。
「何だよ」
「いや、パンクロック族のフジにしては意外な選曲だなと思って?」
そう言って笑う彼女に「俺だってこの店に通ってんだからスタンダードの一つや二つ知ってるっての」と藤田は反論するのだ。
「兄さん、それでいい?」
笑みの表情を崩さない彼女に「楽譜、出してきますね」と楽器の準備も言外に含めて言葉を返す。勿論、彼のリクエスト通りの曲をやるつもりなどさらさらない。
ピアノの前に座っていた彼女に、用意した楽譜を渡せばそのタイトルに少しきょとんとしてから、「成程ね」と合点がいったようにこちらへと意味ありげな笑みを見せる。
「お嬢のイントロからで。テンポはお任せしますよ」
聡い彼女だ。きっとこの楽譜に記されたタイトルから俺と彼の事情の片鱗位は感じ取っているだろう。
「オーケー、したっけ私も今日は頑張っちゃおうかな」
アルコールでいつもより陽気な彼女はかつての先輩によく似た笑みを見せて鍵盤にその指先を触れさせる。そうして彼女が弾き始めたイントロは物悲しく甘い音を響かせていた。