昼下がり、ふたり「何でも好きな物、頼んでいいぞ」
壁にも床にも油が沁みついているような年季の入った定食屋の、隅っこのテーブルに向かい合って座る。何でも好きな物を頼んでいいだなんて、子どもにとってはご機嫌度をぶち上げる魔法の言葉だと思うのだが、高杉はこれと言って表情に何の感情も載せなかった。彼は、壁一面を埋める短冊にさらりと目を走らせ、「カツカレー。大盛りで」と前から用意していたみたいに言った。
「そんだけでいいの」
「いい」
「ここのポテサラ、おすすめよ」
「お前が頼むなら、少しもらう」
「あ、そう」
おばちゃあん、とカウンターの奥に向かって声を投げる。銀八が注文をしている間、高杉はレジ横の製水器と「お冷はセルフで」の札を見つけ、冷水を注いだグラスを二つ、運んできた。
注がれた水の分だけガラスの表面が汗を掻いている。初夏の日照りの中、空腹でやって来た人間にとって、この上なく甘美な様だ。本当は冷えたビールといきたいところだが。さんきゅな、と短く言って、ごくごくと半分飲んだ。
雀卓よりも一回り小さな正方形のテーブルに高杉はきちんと収まって、黄ばんだ壁の、色褪せた短冊たちを見つめている。枝豆、冷奴、ハムエッグ、生姜焼き、コーンバター、あじの開き、マカロニグラタン、山芋オムレツ…。取り留めなく、節操もない、しかし長年店のレギュラーを飾ってきたメニューの中に、確かにカツカレーも面を並べている。駅前商店街にあるこの店は、昼はコストのいい飯屋、夜は居心地のいい飲み屋になるので重宝している。よく通う馴染みの店なのだが、今日初めて、カツカレーの存在に気付いた。高杉のやつ、よく見つけ出したもんだな、と妙に感心してしまった。そんなはずはないが、高杉に選ばれるために据えられた一品のようにも見えて来る。
定期考査が終わるまでは、家に来るな。いや、採点と返却と補講が終わるまで来るな。終わったら、ご褒美やるから。
そう言って、高杉をアパートに一歩も寄せ付けず、勉学に集中させること約半月。晴れてテスト期間と赤点組の補講が明けたようやくの土曜日、高杉は当然の顔で銀八のアパートを訪れた。昼飯がまだだと言うので、連れ出して馴染みの店の暖簾をくぐったのだ。
昼時の定食屋は、腹を満たしに押し寄せた働き人の姿で溢れていて、男子高校生と中年の高校教師の二人連れを上手に紛れ込ませてくれる。初めて彼を連れてきたが、ここはいいな、と思った。まず同僚と出くわすことは無いし、今時の高校生がわざわざ立ち寄るような洒落たスポットでもない。油まみれの羽を重そうに回転させる換気扇の下で、しみじみと久しぶりに手の届く距離にいる高杉を眺める。その高杉は、先ほどからずっと横顔を向けて、短冊を目で辿っている。そろそろ三周くらいはしたのではないか、と思うほどの熱心さだ。
「他になんか頼む?」
追加で食べたいものがあるのかと思いきや、高杉は首を横に振っただけだった。
「お待ちどうさまぁ」
テーブルとテーブルの間が狭いこの店は、店員一人が行き来するのもやっとだ。だから、出来たものからちみちみと運ばれるのではなく、注文したものが一気にどかんとやって来る。冷奴に茗荷のポン酢和え。ギョウザとタンメン。肉野菜炒め。それから、ポテサラ。二人でつつけそうなものも取り合わせて注文したので、皿や小鉢、丼が勢ぞろいすると、狭いテーブルの上はにぎやかになった。その中でもひときわ存在が際立っていたのは、高杉が選んだカツカレー大盛りだ。テーブルの半分を占領する瓦みたいな大皿に、白飯の山。皿の端でかろうじて堰き止められている、たぷたぷに注がれたカレールー。そして、それらの上に鎮座する揚げたてのトンカツ。それが、想像よりも遙かに、だいぶ、でかかった。
「このカツ、お前んちの、枕ぐらいある」
目をぱちぱちさせて高杉が言う。
「失礼ね。もうちょっとふかふかしてるわ。いや、やっぱこんくらいかな?」
目で厚さを計りながら、「にしてもすげえボリューム」と思わず感嘆する。
「…食えるかな」
モンスター級のカツカレーに面食らっている高杉がおもしろくて、笑ってしまった。
「しっかり食えよ、育ち盛り」
箸立てから割り箸を取って渡し、二人で「いただきます」と手を合わせる。
そのボリュームに怯んでいた高杉だったが食べ始めれば、食いっぱぐれた子どもみたいに、がっついた。
「どう?」
小皿に肉野菜炒めとギョウザをよそってやりながらたずねると、高杉は「ちゃんとしたカレー」と答えた。
「なに、ちゃんとしたって」
「ちゃんとしてるから、食ってみろ」
どれどれ、とタンメン用のレンゲを伸ばし、カレールーをひと掬いして舐める。確かにちゃんとしてるカレーだった。要は、業務用のレトルトではない、店で仕込まれた手作りのカレーの味がした。スパイスが効いていて、ほどよく辛みがあって、ほのかな和風出汁が味に奥行きをもたせている。
「ほんとだ。ちゃんとしてる」
「だろ」
なぜか得意げに目を細め、高杉はギョウザを一つ頬張った。それから、肉野菜炒めもわしわしと食べた。カツカレーの箸休めにギョウザ。肉野菜炒めなんか、添え物のサラダぐらいに見えてくる。普段は、ちゃんと食べているのか、と心配になるぐらい食への関心が薄いくせに、今日は気持ちいいくらいよく食べる。
カレーの山脈を切り崩しながら、スプーンを何度も口へ運ぶ。ふうふうと冷ましては、口いっぱいに頬張る。カレーの熱さと辛さで、そのこめかみにはうっすら汗が浮かんでいる。分厚いカツは、幾つかに切り分けられているものの、一口で食べるには大きい。高杉はカツにスプーンを立て、一口分ずつに分けて食べていたが、次第に面倒になったのか、スプーンに一切れ乗せると、それを口元に運んで、歯を立てた。じゅわりと断面に肉の脂が沁み出す。肉の欠片は、高杉のてらてらと濡れ光る唇に食まれ、赤い舌に乗り、口腔へと飲み込まれていく。そうしてざくざくと衣ごと肉を咀嚼しながら、手元のスプーンは次の一掬いの準備をしている。
その食べっぷりには、成長期の清々しい健やかさが宿っている。発展途上の高杉の体に吸収され、彼の肉や骨や肌や爪や髪を形作っていくもののことを思った。数時間後には消化され、吸収され、彼を生かすエネルギーにもなる。その体をセックスで抱く。タンパク質は、彼の精液になって、どこへ行く当てもなく、履かされたゴムの中に吐き出される。あるいは、代謝によって涙になった水分は、シーツの上に沁みていく。食べることで蓄えたエネルギーの一部は、この後のセックスで消費されるのだ。そしてセックスで腹を減らせば、また腹に入れられるものを探して、その身に取り込んでいく。食と性の連鎖と高杉の肌の下で起こるだろう神秘的な代謝を思うと、薄汚れた定食屋で男二人、身を縮めて昼飯を掻っ込んでいるだけの行為に、下腹部がずんと重くなるような心地がした。この後セックスするために、食わせている。そんなつもりはなかったのに、そうとしか見えないのでは、と思ってしまう。
「あちぃ」
はふ、と熱い息を逃して、高杉がスプーンを置いた。それから、耳にかかっていた眼帯の紐に手を伸ばして外した。眼帯の下に隠れていた閉ざされた左目が露わになる。そこにも熱がこもっていたらしく、目尻にはうっすらと朱が滲んでいる。セックスで泣き喘ぎ、全身を火照らせた時みたいに。高杉が眼帯を外すのは、風呂とセックスと寝る時だけだ。人目のあるところで外したことは、一度もない。まるで、目の前で肌をさらけ出されたかのような心地になって焦る。
あぁ、これは。いけない。
見てはいけないものを見てしまった。
タンメンのスープに浮かぶ油の玉を箸でつついて、繋げたり、分けたりしながら下腹部に集まる熱を鎮める努力をしてみる。しかしどうにも難しい。今すぐ高杉を店の裏路地に引っ張り込んで、裸に剥いて、汗ばんだ肌に舌を這わせたい。臍に溜まった汗を舐めたい。仔犬が鼻を鳴らしているみたいな声が聴きたい。熱い吐息ごと口をふさいでキスしたい。ぐずぐずにぬかるんだ秘所に、欲望をまるごとねじ込みたい。奥の奥まで潜りこんで、ぴったりとくっついていたい。
「ありがとうございましたぁ。またどうぞぉ」
女将の間延びしたやわらかい声で、我に返る。客が会釈をして、店を出て行く。暖簾の向こうは、人の行き交う昼下がり。健全そのものの顔をしている真昼の街。
今にも噴き上がりそうな情欲をねじ伏せるように、ぱしりと箸を置く。
「なあ、飲んでいい?」
邪な感情を誤魔化すようにへらりと笑う。高杉は一瞬、押し黙った。形のいい眉が、しわりと寄る。
「…一杯だけな」
「よっしゃあ、おばちゃーん、生中お願―い」
教え子を目の前にして、昼間から酒を飲むなんて。ダメな大人すぎるとは思ったが、霜の張ったビールジョッキを目の前にすると我慢などできなかった。ごきゅごきゅと勢いよく喉に流し込む。しゅわしゅわと弾ける泡が、肌の下にこもった熱を散らしてはくれないだろうか。
「あ~うめえ」
ジョッキを傾けすぎたのか、口端から滴が零れてしまった。顎から鎖骨まで、肌の上をたらりとビールが流れ下って冷たかった。Tシャツの裾を引っ張り上げて拭っていると、高杉がぼぉっとこちらを見ていた。箸が、ではなく、スプーンが止まっている。
「何、お前にはまだ早ぇよ」
セックスしているくせにアルコールはダメだなんて大いなる矛盾だが、高杉はそこを突いては来なかった。
「ちげえよ」
「昼間っから飲むびーる、さいこう。お前もそのうちな」
へらへらしながらジョッキの底に溜まった残りを煽る。
「おい、もう酔っぱらってんのか」
「こんなもんで酔うかよ。もうちょっと飲んじゃおうかな」
おかわりを頼もうと、ちょうどテーブル脇を通る店員に声をかけようとすると、高杉の手がジョッキを握る銀八の腕を抑えた。
「だめだ」
「えぇ、いいじゃねえの。明日、休みなんだし」
「昼間っからしこたま飲んだら、お前…」
寝ちまうじゃねえか、と唇を尖らせて小さく言う。寝てしまうとどんな不都合があるのか。ちょっとの間考えて、それから目の前の彼を見る。耳の先まで赤い。熱々のカツカレーを頬張ったからではない。カレーが辛すぎたわけでもない。どうやら考えていることは同じらしい。
「そうねえ。これから二人で部屋に籠って運動するんだもんねえ」
先ほどまで密かに欲情を募らせて、ままならなさに悶えていたくせに、高杉もこれからすることに期待しているのだと分かった途端に、揶揄いたくなってしまった。
「お前もいっぱい食べて、体力つけとかねえとなぁ」
高杉の耳に顔を寄せて囁くと、「うるせえ」と頭ごとを押しやられてしまった。高杉は俯いて、Tシャツの襟首をぐいと引っ張り上げて、汗を拭くふりをして口元を隠している。照れまくっている時の仕草だ。そんな様を見ていると、意地が悪いとは思うが、頬がふよふよと解けて仕方がない。ビール一杯分のアルコールがやたら効けているのかもしれない。そうでなければ、目の前の子どもが、かわいすぎるのだ。
「もう、黙って食え」
「照れちゃって、かーわいい」
「てめぇ、ビールっ腹になっちまったとか言って、いつもちょっと残すだろ。お残しは許さねえからな」
「急にオカアチャンにシフト」
照れ隠しの下手な高杉はもう「うっせえ」としか返して来ず、代わりにカレーを食べ始めた。銀八も、小鉢を取って、角の崩れた冷奴の残りを口に運んだ。
「なんか不思議だよな」
もう揶揄うつもりはなかったが、思うままを言葉にする。
「こんだけ食ってもさあ、全部お前のエネルギーになって、セックスして、消えていくんだよな」
口に運びかけたスプーンを止めて、高杉は顔を上げた。露骨な「セックス」という言葉に目くじらを立てるのかと思いきや、「消えねえと思う」と言った。先ほども熱心に目を注いでいた壁のメニューに顔を向け、それからテーブルの上に所狭しと並んだ器たちに目を落とした。
「バカみてえに多いメニューとか。お前んちの枕みたいにでけぇトンカツとか。汗かきながら、腹がはち切れそうなくらい食ったこととか。酒飲んでへらへらしてるまるでダメなお前のツラとか。まるごと、全部、俺の一部になって、どこにも行かねえし、消えねえと思う」
それによ、と高杉は少しだけ恥ずかしそうに顔を傾けて目元をやわらげた。汗ばんでいても涼やかな彼の黒髪が、さらりと揺れる。
「お前とやってると、満たされるばっかだからな」
セックスがエネルギーの代謝や消費だけではないと言う子どもは、決して大きくはない口を開けて、せっせとまたカレーを食べ始めた。二人で腹いっぱい食べること。二人だけの巣でセックスすること。確かにそれらは、ひと繋ぎの、生きて思い出をつくっていくことそのものだ。
「俺も…お前とこうしてるだけで、いっぱいになるよ。胸の真ん中のところが」
彼が手放しで見せてくれる澄みきった心の前では、それだけ返すので精いっぱいだった。
「でも、やっぱり早く二人きりになりてえな」
まるでダメな大人な自分は、すぐにそうして茶化してしまう。それすら寛容に許してくれる子どもは、テーブルの下で膝と膝をちょん、とぶつけて来た。
「じゃあ、さっさと食え」
「うん」
「酒は」
「もういいです。充分」
「えらいぞ、銀八」
「褒められた」
箸を取り直して、タンメンを啜る。さっきまでさほど味がしなかったのに、今はやさしい塩味が沁みた。
「まあ、酒をかっ食らう時のお前、まあまあ好きだけどな。いつも喉仏に噛み付きたくなる」
「へ」
箸を握りしめて固まっていると、「確かにこのポテサラ、いけるな」と高杉は歌うみたいに上機嫌で言った。