sound of silence 自殺で多いのは首吊りと入水だ。飛び降りは意外と少ない。未遂となって終わることが多いのだ。単純に高さが足りなかったり、下にあった植え込みがクッションとなったり。とはいえ生命こそ助かっても大怪我をすることに変わりはなく、折れた骨によっては一生障害を引きずることにもなりかねない。
だから。
彼女は成功したのだと――そういうべきなのだろうか。
「……はあ」
リーが吐き出した紫煙は、立ちどころに龍門の夜へと溶けていった。屋上の喫煙所である。とはいえ一服しに来たのではなく、人探しの依頼のためだった。一週間前に出て行ったきり戻って来ない娘を探してほしい、と涙ながらに訴えていた母親が依頼人だった。以前から自殺を仄めかすことを口にしていた彼女の捜索届は、当局にも出したのだという。しかし成人の行方不明者の捜索は困難であり、こうしてリーのところまで御鉢が回ってきた。
もしかすると、回ってきたのは貧乏くじだったのかもしれない。彼が探し当てたのは、結局、彼女の死体だったのだから。
「なんだかなあ」
眼下には生温く腐乱した死体があった。首と手足は、子どもがはしゃぎ過ぎた後の人形のように、あり得ない角度に曲がっていた。肌は緑青が浮いた色をしている。頭から溢れたであろう脳漿と血は、既に赤黒く固まっていた。蛆が湧いているかは、この距離では識別がつかない。それで良かった、と思う。
なまじビルとビルの隙間だから、誰も気付かなかったのだろう。うつ伏せに倒れており顔は見えないが、着ている服は母親から聞いた情報と一致する。まず間違いないだろう。死後数日は経過しているようだ。おそらくは自分が依頼を受けた段階ではもう死んでいた。――しかし、だからといって、そう簡単に割り切れるものではない。
警察への連絡は済ませた。後は遺体が回収されるまでの間、こうして見張っているのが自分の仕事だ。最大にして最難関の仕事、依頼人への説明がリーには残されている。胸の内に澱のように淀む感情も、吐き出したら溶けてはくれないだろうか。
もう少し近くによって、状況でも調べるか――、と。リーが灰皿へと、煙草を押し付けた時だった。彼の耳が、背後から聞こえるか細い声を拾ったのは。
「はい?」
振り返る。そこには誰もいない。当然だ。さすがに自分以外の人間が屋上へと上がって来たら気付いている。空耳だったのだろう、と思った時に。先程よりもはっきりと、その声は聞こえた。
「し」
あまりにも短い音で、声の主が男なのか女なのか、若いのか老いているのかすらもわからない。しかし、問題はそこではなく。声は、確かに自分の背後から聞こえた。しかし月を背にして立っている今、アスファルトに落ちる影は一人分だ。自分の体で隠れているのか? だとすれば、こんなに近くに立って、人の気配を感じないわけがない。
じっとりと、肌が汗ばむ。舌打ちをしたい気分だった。反応すべきではなかった。無視すれば、それもきっと、自分に構おうとはしなかっただろう。
「し」
しかし自分は呼びかけてしまった。声が聞こえるのだと、それに向かって示したのだ。何か、得体の知れない何かが、足を這う感覚がした。払い除けそうになる衝動を、辛うじて飲み下す。これ以上、自分にはそれがわかるのだと、悟られてはいけない。
面倒なことに巻き込まれたという予感があり――、悲しいことに、リーはこの手の勘を外したことはなかった。
***
「ここにいたのか」
「おや、ドクターでしたか」
ドロスの厨房は、申請さえすれば誰でも使用できる。とはいえ十二時も近い深夜に使っている人間はリー一人だけだった。鍋はくつくつと煮えている。さて食べようかと思った時に、ひょこりと顔を出したのがドクターだった。
「なんです、匂いにでも誘われましたか?」
「それもある。今日は何を?」
「粥です。食べます?」
「君の分が減るだろう」
「気にしませんよ」
「ラーメン二人分が君にとっての一人前って聞いたんだけどな」
そんなことを言ったのは誰だと苦笑しながら、リーは鍋の蓋を空けた。鶏がらのふくよかな香りが厨房に広がり、胃を刺激する。夕食が足りなかったのかいと尋ねるドクターに、リーは曖昧に笑った。
霊の障りに遭った時は、何か食べるようにするというのが自分で決めたルールだった。
生きるということは食べることであり、生者にのみ許された特権だ。勝手な言い分だということは理解しているが、他の生命を取り込むことで、力を得る感覚がある。腹が減っては戦はできぬ、とはいうが。
あの日から、忘れそうになった時に、忘れることは許さないというように、背後からあの言葉が聞こえて来る。日中はまだ問題ないが、こうして日が落ちると駄目だ。汚水を肺まで吸い込むような、あの気配と声が、自分の背後にある。一人でいようとも、他の誰かと一緒にいようとも。自分以外の人間には、あの声が聞こえていないのがせめてもの救いだろうか。自分に取り憑いたものに誰かを巻き込むのは、いくらなんでも目覚めが悪い。
「疲れているの?」
「まあそんなところですよ」
疲れているというよりは、憑かれているのだが。それをわざわざドクターに説明する必要もないだろう。この手のおかしな出来事に巻き込まれるのは、今日が初めてというわけでもない。対処法については理解しているつもりだ。飽きるまで無視を決め込む。そうすれば奴らも離れていく。いや、こうして龍門を離れれば、置いてこれると思ったのだが。今回の霊は、未だに纏わりついて離れない。
「随分と顔色が悪いよ」
「し」
ドクターの声に被って、あの声がする。内蔵をざらざらと撫で付けられるようで、酷く不快だった。足元を這うあの感覚が消えない。腐臭さえ立ち昇るような気がして、努めて意識しないように、ただ目の前で気遣わしげに自分を見つめるドクターに応える。
「ちーとロドスの仕事が多いもんで。どうにかなりませんか?」
「……。わかった、明日調整しよう」
普段であれば確実に冗談として聞き流されるはずの言葉だった。それをこうして真剣に捉えられるということは、今の自分は余程酷い顔をしているのか。
「冗談ですよ、冗談。ちょっと疲れが出てるだけです。これを食べて休んだら平気ですよ」
鍋の中身を椀によそう。さっきまではあれほど美味しそうに感じられたのに、出汁を吸って膨らんだ米粒が、今となっては蠢く蛆にしか見えないのだから難儀なものだ。
「……何か聞こえるのかい?」
「いいえ、何も。突然なんです?」
「君、耳を澄ますときに、その……何? ヒレみたいな部分、私で言うところの外耳が、ちいさく震えるんだよ。気づいてなかったのかい?」
「……嘘でしょう?」
探偵として働き出す前から、老獪と言われることの多い身だ。そんなに不用意に、自分の心情を吐露するような仕草はしない。――だが、気を許した相手、ドクターの前では或いは、という一抹の不安が胸をよぎる。
しかし。
「うん。それは嘘。でもその逡巡は本物だろう」
カマをかけられた、と。リーは今度こそ舌打ちをした。全く、この老獪さは誰の影響なのか。
「し」
「私相手では、話しにくい?」
自分をただ真っ直ぐに見つめる瞳からを目を逸らすのは、裏切っているようで気が引けた。代わりにリーは、よそったばかりの椀をドクターに押し付ける。
「どうぞ。冷めない内に食べてください。おれはもう行きますんで」
「君の分は」
「やっぱり止めときます。あ、片付け、頼みましたよ」
ひらひらと片手を振って、リーは厨房を後にした。自分の名を呼ぶ声が背後から聞こえる。追い縋るようなその声に、だから聞こえないふりをした。
「し」
耳元でささやくような、その声にも。
***
だからしばらくはオメーが気をつけてやったほうがいいぞというニェンの言葉に、ドクターはなんのことかと首を傾げた。
「リーのことだよ」
盃の件で疲れてるから労ってやれ、ということだろうか。状況を飲み込めていないドクターに、ニェンは苛立たしげに火鍋を掻き混ぜた。彼女の内心を反映するように、鍋は煮えたぎっている。
「二番目の兄貴がリーを乗っ取ろうとしてたの知ってるか?」
「初めて聞いた。尚蜀ではそんなに不味いことになっていたのかい」
そも、乗っ取ろうとする、とはどういうことか。詳しく問い詰めようとしたのだけれど、肝心な時にニェンは鍋を覗き込み、視線を逸らされる。
「まあ、それはどうにかなったんだよ。ただしばらく、あいつは目をつけられやすくなってるだろうからな」
目をつけられる、とは、何に。嫌な予感がした。そしてこの手の予感は、総じて当たるものである。
「神霊――なんてもんにはそうそう出会えねぇからな、まあ、俗っぽくいうと幽霊だよ」
なにせあいつには、まだ穴が空いたままだからな、と。ニェンは自分の胸を親指で指し示す。物理的な意味での穴ではないだろう。かたちないものが彼の中に巣食い、それによって空いた虚は、まだ埋まってはいない。であれば、他のかたちないものが、入り込む余地があるのか。
「私に何が出来る?」
「そばにいてやれ。縁ってのは柵でもあり鎖でもあるんだよ」
あいつが良くないものに引きずられそうになったら、オメーが繋ぎ止めてやれ、と。
その言葉を聞き終える前に、ドクターはリーの姿を探して駆け出していた。執務室には当然おらず、子どもたちのところにもいない。彼にあてがったゲストルームにも姿は見えなかった。廊下ですれ違ったというオペレーターから話を聞いて、厨房にいる彼を探し当てたは良いものを。
「肝心な時に巻き込んでくれないのか、君は」
自室から剥がしてきたのは、いつぞやに彼からもらった符だった。どこまで効果があるかはわからない。が、このまま部屋の飾りにしておくよりも良いだろう。どこに使ってもいいと言っていたのだから、彼の手元に合っても良いはずだ。
誰もが寝静まったかのように、自身の足音だけが廊下に反響する。ゲストルームを尋ねるのは今日で二回目だが、しかし今度は中に彼がいることはわかっている。
「リー?」
ノックする。返事はない。顔色も悪かったから、もう寝ているのだろう。
ドクターは無言で、ロドスの最高責任者の一人として許された権利――すなわちマスターキー――を使用した。扉を変える。肌に纏わりつくような闇がそこにあった。しかし、問題はそれではなく。床に倒れている見慣れたシルエットに、腹の底から冷えていく感覚がある。リー、と名前を呼んで駆け寄ろうとする。しかしそこで、ドクターは理解した。
この部屋に満ちてるのが、闇ではないということに。
それは声だった。
「し」「しんで」「どうして助けてくれなかったの」「たすけ」「一緒にしんでよ」「あなたのせいで」「しにたい」「死にたくなかった」「助けて」「おまえのせいで」「間に合ったかもしれない」「死ね」「しねばいいのに」「死んでよ」「しんでしまえ」
彼に纏わりついているのは泥だった。泥と、泡沫のように浮かび上がっては弾けていく無数の口。歯と舌を蠢かせて、それはひっきりなしに呪詛の言葉を浴びせかける。
「……」
息を吸うと、汚水が肺から体内へと染み込むようだった。泥の中を泳ぐように、ドクターは一歩一歩リーへと近寄る。傍らに膝をつくと、彼がまだ息をしていることがわかった。そのことに、酷く安心する。ドクターは、耳から彼の中へと入り込もうとする泥に触れ――
「――煩い」
引き剥がしたそれを、床に叩きつける。きいきいとそれが何事かを喚き、ドクターの指を噛む。しかしそれを気に留める様子はなかった。目標を変えたのか、自身の腕を這い上がるそれを、ドクターは無感情に見下ろした。
「なんだ、私も呪うつもりか?」
そこに浮かび上がる無数の口を殴る。
「悪いがその程度の自問自答ならとっくの昔に終えているんだ」
殴ると唇が切れ、膿のような汚泥が手を汚した。「彼に触れるな」
皮膚が裂け、血が滲んだ。骨の軋む感覚がある。「彼の空洞は、彼と彼の子どもたちのためで埋めるためにあるんだ」
ドクター自身の血と泥が混ざる。
「お前たちが入り込むためじゃない」
床に血溜まりが出来た。
ドクターが我に返ったのは、カーテンの隙間から朝陽が差し込む頃になってからだった。いつの間にか、部屋に満ちていた粘度の高い闇は失せている。単純に朝になったからだろうか、それとも。
ドクターは、リーの寝顔を見た。憑き物が失せたように、安らかな寝顔だった。
***
リー、と自分の名を呼ぶ声がした。水面へと泡が立ち昇るように、意識が浮上する。うっすらと瞳を開けると、そこには自分が思った通りの人がいて。何故だか全身が痛かった。差し込む朝陽が目に眩しい。
「床で寝る趣味でもあるのかい」
「ありませんよ……。もっと早くに起こしてくれませんかね」
「そう? ここには壁も天井もあるし、それで十分かと思ってね」
勘弁してくれ、と言いかけた時に。ドクターの右手に巻かれている、白い包帯が目についた。昨日厨房で会った時にはなかったはずだ。
「どうしたんですか、それ」
「これ? ああ」
今気づいたというように、ドクターは無感情に自分の手を見た。
「転んで擦りむいたんだよ」
若干腫れているようにも見える。一体どれだけ派手に転べばそうなるのか。転んだというよりは、むしろ――、喧嘩慣れしていない人間が、誰かを殴った時に自分の拳を痛めたように見える。
まあ、そんなことより、と。ドクターは手を振った。
「今日の君の仕事は休むことにしたから。床で寝るのに飽きたなら、布団に潜った方が良いよ」
「休みって……。それを伝えに来たんですかい?」
「いや、ここに来たのは――」
君に会いに、と、唇を動かしたドクターは、けれども途中で言葉を切った。
強いていうと、と微笑んで。
「君を愛しに来たんだよ」