かの天使は最強の人「…………」
ドクターは唾を吐き出した。血が混じった唾は床に染みを作る。
(まだ口の中で血が出てるな……)
鉄の味を感じたドクターは、小さくため息をついた。同時に後ろで両手首を縛っている鎖がギシリと鳴る。鎖は太く、しかも何重にも巻かれているので、ちょっとやそっとじゃ外れないだろう。どのみちドクターの力では絶対に外れそうにないが。
その音に気づいた、近くにいた顔の半分を布で隠した見張りの傭兵が、振り向いてジロリとドクターを威圧の眼差しで見下ろす。
「下手に動くな」
「そう言われても……この格好が少しキツくてね」
「黙れ。また殴られたいようだな」
冷たく言い放つと、傭兵は振りかぶり、剣の柄をドクターの頬に叩きつけた。
「ぐふっ!」
血と唾が口から吐き出され、ドクターは床に転がる。ゲホゲホ咳をする彼に、傭兵はフンと鼻を鳴らしながら一瞥すると、視線を逸らして見張りに戻る。
「く……」
ドクターは血の味と共に、ガチ、と口内で硬いものを噛んだことに気づく。ペッと吐き出すと、血の唾の中に白いものが。歯だ。先程の殴打で歯が折れてしまったらしい。
(目や鼻を潰されるよりは……まだマシかな……)
それでも痛いものは痛い。強制的に折られた部分がズキズキする。他にも傷や怪我はあるから、帰ったら即医療部行きだろう。もっともここの連中が、そう簡単に帰してくれるとは思わないが……。
──シラクーザにて、ロドスととある企業との取引後、ホテルへの帰還中に怪しい覆面の一味から急襲を受け、ドクターは一人囚われの身になってしまったのだ。
持っていた通信器で何とかSOSは発信出来たものの、すぐに取り上げられ壊されてしまい、具体的な場所等はわからぬまま。とはいえ、連れてきていたオペレーターたちが把握しているかもしれない。後は彼らに任せるしかない。
見知らぬ場所まで連れて来られたドクターは、そこでフェイスガードやフードを取られた上後ろ手に縛られ、さらに何発か殴られてしまう。暴力をふるって恐怖を植え付けさせ、抵抗出来ないようにするつもりか。
だが生憎、ドクターはそんな脅しに屈する気はさらさらない。むしろどうやってここから脱出するか、それを考えている。
と──囚われている部屋と見えない向こう側を隔てる扉の向こうから、微かに声が聞こえてきた。ドクターは座り込みながら首を下げて、全身の神経を耳に集中させる。同じ部屋でドクターを監視している見張りからすれば、観念して黙っているように見えるかもしれない。
微かに、途切れ途切れながらも声が聞こえる。隣室には複数人いるようで、会話をしているらしい。
「……奴ら……薬…………持っ……」
「返事は…………ない……むしろ金…………」
「馬鹿を言……殺して…………つけろ」
(うーん……)
ドクターは考える。会話の中に薬の単語があった。取引の後にピンポイントで襲撃されるとは、この連中は自分たちがロドスの者だと理解していて襲ったようだ。そしてピンポイントで自分が人質に取られるとは、自分が重要人物だとわかっているからこそ。もっとも自分が「ドクター」とまでは気づいているかどうか。そうでなくても、ロドスの重要人物であれば誰でもいいのだろう。──薬または金が奪えれば。
(とりあえずSOSは発信したから、誰か来てくれればいいが……)
ケルシーもアーミヤも動いてくれるとは思うが、さて、それまでに自分の生命があるかどうか。正体は今だわからないが、ここの連中は好戦的だし暴力も厭わないようだから。
と──。
ズゥン……
「……?」
遥か遠くから何か聞こえた気がすると同時に、自分の身体が小さく揺れた。暴行を受けたせいで、自分の身体が傾いだのかと思ったが、
ズォン……!
「……」
身体だけではない。部屋全体が揺れた。しかも左右に。突き上げるのではなく突き飛ばすかのように。
「な、なんだ」
ドクターもそうだが、見張りも戸惑っている。その間にもう一発。横に部屋が揺れる。
「うわっ」
「じ、地震か」
隣からも動揺MAXの叫び声が聞こえる。襲撃には冷静な彼らだが、地震という自然現象にはさすがに抵抗出来ない。そして自然現象と言えば……脳内に浮かんだある単語。
──天災
(まさか天災が近くで)
ドクターの額に汗が滲んだ。天災には人類はどうやっても勝てない。以前ロドス本艦で天災をどうにかやり過ごしたことはあるが、あれは移動出来る艦だったから出来たこと。今のように地上に縛られている状態では、回避も何もあったものではない。人間に出来ることは──ただ逃げることだけ。
ドクターが監禁されている部屋の扉が、外からバンッと開いた。覆面の男の一人が顔を出す。
「おい! 逃げるぞ!」
「え、こ、こいつは」
「そんなのほっとけ! 地震……天災だ。逃げないと俺たちが死ぬぞ!」
「薬……金はどうするんだよ」
「仕方ないがもういい! 命あっての物種だ!」
「クソッ……」
見張り役の男は悔しそうにギリッと歯を鳴らしたが、やがて憎々しげにドクターの方を向くと、唾を吐きかけながら怒鳴った。
「ハッ! 命拾いしたな……もっとも天災が来るなら、どうせてめえは死ぬだろうが! そこで縛られたまま惨めにくたばれ!」
罵声を浴びせると、男は仲間と共に部屋を出て行く。ご丁寧に脱出出来ないように鍵までかけて。バタバタという音が耳に入った。
ドクターは大きく息を吐く。自分以外の物音はしない。どうやら一人取り残されたらしい。
(天災では……どうしようもないか……)
相手が人間ならともかく、天災ではロドスもどうしようもない。もはや自分もここまでか。
ズガンッ……!
またもや大きく横に揺れた。何処かでバキバキという音が聞こえる。建物だか部屋だかが破壊されたのか? となると時間の問題か。覚悟を決めようと、ドクターは目を閉じる。
ガキッ……バゴッ!
今度は明らかな破壊音。それは自分のすぐ近くから。とうとうこの部屋にも終わりがやって来たのか。自分の最期だ。
と──。
「ドクター!」
「……え……?」
明らかに自分を呼ぶ声。それはロドスにいる時、散々聞いた声。無感情でいて、わずかな表情の変化や声のトーンで本人の感情を推し量ったり、銃を扱うには過剰な力を持っていたり、ラテラーノ人らしく甘いものを好んだり、オペレーターの中でも屈指の美貌を持っていたり……。
「ドクター!」
肩を掴まれ、揺さぶられる。おそるおそる顔を上げ、両眼を開けるとそこには。
「……イグゼ、キュター……」
頭上の黒輪を光らせ、目が見開かれて、薄青色の瞳がギラギラと光っている。口元がわずかに歪み、焦燥感に塗れた表情。こんな彼を見るのは珍しい。
ドクターは大きく息を吐き出した。肺を空っぽにして、また大きく吸う。
「……本物……だろうね?」
「私の偽物がいたら、まず真っ先に私が撃ち殺しますが」
「そうだろうな……はは……紛れもなく本物だ……良かった……」
ようやく芯から安心出来た。安堵でグラリと身体が傾く。それは黒天使によって優しく抱き止められる。
「顔にずいぶんと傷が……こんなに怪我をさせてしまって、本当に申し訳ありません……」
「君が謝る必要はないよ……まあ、捕まった時から覚悟はしていた」
「しかし、貴方を拉致し、暴行を加えた罪は重い。連中には相応の報いを受けさせ、きちんと断罪しましたからご安心を」
キッパリと告げる彼の冷酷無比な言葉に、ドクターの背中がゾクリとわずかに震える。執行人は嘘はつかないし、言葉のままの行動をしているだろう。
「ドクター? 寒いのですか?」
「い、いや、違うよ……大丈夫」
ドクターは微苦笑を漏らす。イグゼキュターは『?』と小首を傾げたが、それ以上は追及せず、後ろ手に縛られているドクターの手首を見て、そこに自身の手をかけた。力を入れる。
ギリギリ……バギャッ!
「」
軋んだ音の直後に破壊音。同時にドクターは自分の両手首の締め付けが緩んだことを知る。
「外れました」
「いや……外れたというより、壊したよな……」
ひたすら苦笑しながら、ドクターは自由になった手首を擦る。鎖の跡が少し赤いが、痛くはない。皮膚に食い込まなくて良かった。
「立てますか?」
「ん……ちょっと手貸して」
イグゼキュターの手を借りてドクターは立つ。ようやくまともに立てた。拳を作り両腕を伸ばしてグッと伸びをする。
「うぁー……気持ちいい……」
「ドクター、そろそろ出ましょう」
「そうだね」
イグゼキュターに肩を貸してもらいながら外に出たドクターは、ようやく自分が監禁されていた建物の全容を知ることが出来た。場所はシラクーザの移動都市のすぐ近く。ごく小さな廃墟だった。かなり見辛い所にあるから、拉致監禁にもアジトにするにも都合が良かったのだろう。
「ドクターからのSOSを受け取ってから、アーミヤ殿が緊急招集をおこない、救出任務に私が入りました」
イグゼキュターは説明する。ドクターもある程度は予想していたが、あの連中の正体は取引先のライバル企業が雇った傭兵たち。取引の日程を知り、襲わせたらしい。SOSの発信地やシラクーザ近辺の地理等、様々に計算をおこない、最も効率の良いルートを選び出して突入したのだと言う。ちなみに他の者でも行けたのだが、内容的にイグゼキュターが一番適任だったのだ。
「幸い、ロドス本艦が近くだったため、道程も思った以上にかからず、早く進むことが出来ました」
「そうか……」
外に出ると、近くに大きなバイクが止まっていた。十中八九イグゼキュターが乗ってきた物だろう。乗るように促され、ドクターはシートに跨った。すぐ前に黒天使が乗り、エンジンをかける。
ふと、ドクターがキョロキョロと周囲を見て、イグゼキュターに問いかけた。
「あのさ、イグゼキュター……」
「どうしましたか?」
「この近くで、天災が起こってなかったか?」
「天災……ですか?」
「うん。君が来る前に地震が起こって、建物が揺れたんだ。かなり大きかったから、天災が起こったんじゃないかと」
「いいえ。特に天災の危険はありませんでしたが」
「え? でもあれだけ横揺れすれば、誰でも気づくと思うけどな……」
「ふむ。それは……」
黒天使の口角がわずかに上がり、淡々と告げた。
「ここに来た際に、外の見張りで立っていた者を投げ飛ばして、建物に叩きつけました」
「……は?」
「中に入った時も何人か襲いかかってきたので、そのままお返ししました」
「…………」
ぶるりとドクターの全身が震える。ドクターにはわかったのだ。つまりはあの揺れは、イグゼキュターが連中の相手をした時に起こされたものだと。
あれは天災ではなく、人災だった。
「…………」
額に手を当てて、ドクターははーっと大きく息を吐く。
(全く、この天使は……)
害獣を爪で引き裂いた膂力が、人間にも発揮されたらしい。恐ろしい天使だ。いや本当に天使か? もはや悪魔に近いのでは。そんな事を言ったらサルカズたちに文句を言われるかもしれないが。
「さあ、そろそろ行きましょう。しっかり掴まっていて下さい」
言葉通りにドクターがイグゼキュターの背中に掴まると、イグゼキュターはバイクを発進させる。その時ドクターの目の端に、地面に折り重なった黒い小山が見えた。そこからちらほら見えるもので小山の正体がわかったドクターは、首を竦めるしかない。
「救出任務とはいえ、ちょっとやり過ぎじゃないか?」
「貴方を傷つける者には、容赦はしません」
迷いなくキッパリと告げる黒天使に、ドクターは苦笑する。殴られた頬の痛みがまた疼き出した。頬を撫でながら、
「ロドスに戻ったら、まずは医療部に行きたいんだけど」
「当然です。貴方の命の安全が最優先です」
当たり前のように言う天使。ドクターはふっと口元を緩め、天使の背中に額をつけた。大きく、強く、頼り甲斐のある背中。
「……イグゼキュター」
「はい」
「来てくれてありがとう」
「? そこは助けに来てくれてありがとう、ではないのですか?」
「いいんだよ……これで」
彼が助けに来てくれただけで、とても嬉しいのだから。こうして背中に彼の温もりを感じるだけで、痛みは和らぎ心は安らぐような気がする。
バイクは土煙を上げながら疾走して行く。
遠くにいるはずの、たった一つの居場所に向かって。