『いったいどういうつもりなのか』「ほんっとわっかんねぇ……」
ネロはそう呟きながら、力任せにぐしゃりと髪をかき混ぜた。その拍子に髪をまとめていたゴムは滑り落ち、落ち込む気持ちにも拍車をかける。今日一日、何をやってもこのモヤモヤとした気分は晴れず、今も落ちた髪ゴムを拾いあげる気力もなくしゃがみ込んでいた。
「はぁ……」
ここはフォルモーント学園の一階の隅の方、食堂の横の狭い通路に面した購買だ。先ほど食堂の調理場を借りて作ってきたパンを並べ終わり、今からは購買の販売バイトとして仕事をする予定なのだが、どうにも気分が上がらず、溜息を連発している。
「あぁ、くそ。馬鹿野郎。てめぇのせいだぞ……」
何度目かの溜息と共に悪態を吐くと、ようやく拾った髪ゴムでサッと髪を結んだ。こんなにも落ち着かないのは、全て幼なじみで密かに想いを寄せているブラッドリーのせいだった。
昨日のことだ、最近の日課になっている図書館の隠し部屋での勉強会を終え、バイトの時間までもう少しやってみようか屋上に来ていた。ここは元不良校の生徒しか利用しないし、なんだかんだとウチのチームは大きいので、そのナンバー2に居るらしいネロの邪魔は誰もしない。普段は大きすぎる肩書きに複雑な気分になるが、今は集中できる場所があって有り難いとも思っている。まぁ、そのせいで誰も来ないと安心していたのか、朝が早かったせいか、日が気持ちよかったせいか、少し休憩するつもりでフェンスにもたれかかっていたら、いつの間にか眠っていたのだ。
次に気がついた時にはなぜか屋上の床に横向きに寝そべっていて、頭の下には硬いような柔らかいような感触があった。髪に触れる大きな手。上から誰かと話しているだろう聞き覚えのある、でもいつもより穏やかな声。ほんのりと香るよく知った香水の匂い。ドアの閉まる音。
――俺、ブラッドに膝枕されてる? 何で?
状況を理解した途端、心臓が意思とは関係無くドクドクと鳴り始める。上手く処理しきれなかった感情が暴れ回るのを抑える様に、更に硬く目を閉じた。
――今起き上がったとしたら、なんて言えばいい? 友達として、どんな顔するのが正解なんだ?
ネロがブラッドリーに膝を提供するのは普段からよくあることで、最初は戸惑ったが代わりの枕がないと言われれば意識する方がおかしいのだろうと割り切っていた。仮にも好きな人であるという自覚がある分、膝を貸すだけだと思いながらも、髪を触ったり寝顔を見つめたりできる時間はなんだかんだ楽しかったのだ。それが今、逆の立ち場になってみて、あまりの恥ずかしさに戸惑っている。意識しないようにすればするほど、心音は大きくなっていくようだった。
――なんでこんなことしてんだよ。ほっとくか普通に起こせばいいじゃねぇか、ばか! あぁもう、どうすんだよこれ!
八つ当たりのようにブラッドリーへの悪態が頭の中を巡る。
そんなことを考えていると、髪を梳いていたブラッドリーの手が止まり、何か柔らかいものがこめかみ辺りに当てられた。え?と思った時には髪をぐちゃぐちゃとかき回され、続く言葉が意識を全て持って行く。
「ネロ! いつまで寝てんだよ! バイトの時間、やべぇんじゃねぇか?」
「へっ!?」
目を見開いてやべぇと飛び起きれば、夕日に染められたブラッドリーが笑っていた。
「はよ」
「おぅ……、はよ。じゃねぇ! バイト!」
時計を見ればバイトの時間の三十分前だった。すぐ隣に置いてあった鞄を掴むと急いで立ち上がる。そこら辺に散らばっていたはずの勉強独具は恐らくブラッドリーが鞄にいれてくれたのだろう。ネロは軽く礼を言ってポケットの携帯だけ確認すると駆けだした。
「ブラッド、ありがとな」
「はは。あんま焦ると転ぶぞ」
「うるせぇよ」
「また明日な」
「ぉう」
屋上の扉を出ると急に冷静になってくる。起こされる前に何をされたのか。分かっているのは温かくて柔らかなものがこめかみに触れたことと、身体の動きからしてネロに顔を近づけたことだ。そこから導き出される答えは一つしか思い浮かばない。
キス、されたのだろう。
「なんでだよ……。意味わかんねぇ……」
どうとらえて良いのか分からない行動に、戸惑う心と共に、呟きは薄暗い階段に吸い込まれていった。
その日のバイトは散々で、ぼんやりしすぎて風邪を疑われた程だ。なんとかやり通したが、その不調はこうして今日まで続いている。
不調の中、どうにか処理しようとネロの出した結論はこうだ。
膝枕くらいいつもの礼にしただけ。キスされたんじゃなくてブラッドも眠くなってぶつかってしまっただけ。それだけなのだと。
それでも、もしかしたら、を願ってしまうのは恋心の厄介なところなのかもしれない。
「はぁ。普通の顔、できっかな……」
もうすぐ購買が開く時間だ。きっとパンを求めてやってくるはずの腹ぺこの彼を想像して、ネロは小さく笑った。