『無視できないこころ』「はぁ」
重苦しい溜息は何度目か、周りがこんなに綺麗な色をしているというのに、少しも気分が晴れない。ここは春の国で一番見晴らしの良い丘の上、ネロが好んで昼寝に使っている場所だった。普段なら穏やかにそよぐ風と花の香りがまどろみを誘ってくるところだが、今はその穏やかさは欠片も訪れてくれない。心が淀んでいるせいだ。
「はぁ……」
「あ、ネロ兄様! お帰りになってたんですね!」
「ルチル、ただいま」
お帰りなさい! と言って飛び込んできた身体を受け止めると、その笑顔につられて少し心も穏やかになる。
「明日戻るって言われていたのに、何かあったんですか?」
「あー、ちょっと、な」
「兄様?」
「……なんでもねぇよ」
「そうですか。ふふ。でも、当日に伝えられるなら私は嬉しいです。誕生日、おめでとうございます!」
「はは。ありがと」
歯切れの悪い返答に気を悪くするでもなく笑顔でそう言う兄弟に、嬉しさと、ほんの少しのむなしさのようなものが胸をかすめていく。
今日は、ネロの誕生日だった。
しばらく会えなかったから話したいことが山のようにあるのだと、馬小屋の新しい命が大きくなったこととか、今年の蜂蜜はとびきり甘いものができあがっていたとか、新種の植物の交配に成功したとか、授業で取り扱った題材についてだとか、最近のシャイロックがなんだか楽しそうだとかとか。ルチルの話はとめどなく、ネロも憂鬱をわすれて、静かに耳を傾けていた。
そうこうしているうちに日は沈み、夕食の時間になる。元々明日帰ってくるつもりで連絡をいれていた為、シャイロックは不在で、宴も明日の夜だ。ネロももちろんそのつもりで、今日はいつも通りルチルのリクエストに応えて、苦めのロリトデポロを準備している。食卓へと並べれば、嬉しそうなルチルと目が合った。
「久々の兄様のお料理、嬉しいです!」
「あぁ、沢山食ってくれよ。おかわりもあるから」
「はい!」
元気に返事をして食前の祈りを捧げると、笑顔で食べ進める。こうして手料理を美味しそうに食べてくれることがネロにとって一番嬉しいプレゼントだった。
若さ故か見た目以上に沢山食べるルチルは、あっという間に完食し、おかわりを申し出る。その姿に、昨日まで一緒に過ごしていた大食漢が重なった。「アイツも飯食うときは笑顔だったな」なんて、感傷に浸っていれば、食後のデザートに準備していたジェラート用のスプーンを握ったルチルが話しかけてくる。
「ねぇ兄様、北の国は……、ブラッドリーさんはどんな方なんですか?」
「え?」
「ブラッドリーさんのところへ行ってから全然帰ってこないから気になって」
「……」
「だっていつもは一ヶ月もすれば戻られるのに、今回はもうすぐ半年ですもの。よほど素敵なのでしょう?」
ネロは、興味が抑えられないといった様子で輝く瞳に、なんと応えるべきかを悩んだ。好奇心旺盛なこの末弟は儚げな見た目に似合わず知りたいことはとことん追求する。故に、ごまかそうとしても隠し事の下手なネロはすぐにバレるのだ。その上、押しが強い。下手に対応するとその興味がどこへ向くか分かったものではない。
何も隠すようなことはないが、なぜだか焦る心を落ち着けるように慎重に、言葉を探しながら、ネロは答えた。
「ブラッドは……なんていうか、若そうなのに威厳があって、国民に対する優しさも感じるような不思議な奴だったよ」
「まぁ! お優しい方なのですね」
「……食い意地は張ってるけどな」
「ふふ。それではさぞ兄様のお料理を好まれたでしょうね」
「まぁ、美味そうに食ってた……な」
言いながら思い返す顔は全部笑顔で、いつでも美味いと主張していた。そう思えば思う程、昨日のことが頭をよぎり、それがまた後悔を運んでくる。
笑顔の後にサッと影の差したネロの顔に気づいたルチルは、心配そうに覗き込んだ。
「兄様?」
「あぁ。悪ぃ」
「……ブラッドリーさんとなにかあったんですか? 帰って来てから考え込まれることばかりで」
「え? いや、なんでもないよ」
「嘘、ですね。喧嘩でもしたんですか?」
「ッ!?」
「図星でしょう? でも、ネロ兄様が喧嘩だなんて、珍しい」
「いや、喧嘩っていうか、俺が怒ってるだけって言うか……」
「でも、今は、後悔している訳ですね」
「え? いや、悪いのはあいつだし……」
「ふふふ。でも、どうしようって顔に書いてありますよ。こういうことは、話してすっきりしてしまいましょう! ね?」
「……はは。わかったよ」
押し切られるようにして、ルチルに事情を話す。
本当は、今日仕上がるように年に一度しか取れない貴重な香辛料と珍しく手に入った相性抜群の肉を使って料理を作っていたこと、今日食べるものだと事前に伝えていたこと、いつも以上に気合いが入っていたから怒って出てきてしまったこと等々を、かいつまんで説明した。
今は、書き置き一枚で家出のように出てきたことを後悔しているところだが、改めて思い返してみると怒りよりも悲しみの方が強いかもしれない。
話し終えれば、またやるせなさに溜息がこぼれていく。
「なるほど。つまり兄様はブラッドリーさんに特別な日に特別な料理を食べて欲しかったんですね?でも、それが出来なくなって怒って出てきてしまったと……」
「まとめられるとそうなるけど、なんか、拗ねてるみたいでかっこ悪ぃな……」
「ふふ。そうですか? 兄様が可愛らしなと思いましたよ」
「え?」
「ブラッドリーさんのこと、とっても好きなんですね」
「す、すき? なんでそんな話になってんの?」
「だって、特別な香辛料と食材が手に入ったから、特別な日に食べて欲しいなんて、兄様にとって僕ら以上に大切な存在だって証拠だと思うんです」
「そ、んなことは、ない、と思うけど……」
「いいえ、間違いありません! きっとそうですよ!」
楽しそうにアレコレと想像し出したルチルに、ネロはかける言葉も見つからない。そして、自分の中でルチルの言葉を否定しきれなかった。
半年近くもの間一緒に過ごして、もっと一緒に居たいとは思えど帰りたいとは思わなかったのだ。美味い食材を見つければ食わせたらどんな顔をするかを想像して嬉しくなったし、あの香辛料を手に入れた時だって、兄弟よりもブラッドリーの顔が先に浮かんだ。きっと挙げればまだまだ出てくる。これが特別な存在でなくてなんと言えるのだろうか。
見ないふりをしてきたものに、『恋心』という名前がつけば、いままで不思議に思っていたモヤモヤとした感情に全て説明がつく。それに気づいた途端、急に恥ずかしくなって顔を覆った。そんなこと思いもせずにいろんな話をしてしまったのだ。頬が熱い。きっと今、耳まで赤く染まっているだろう。
急に顔を覆い机に突っ伏したネロをルチルは暖かく、穏やかに見守っていた。まるで恋愛に疎い彼がようやく自覚した気持ちを、諦めの早さ故に手放してしまわないように願うかのように。
*****
翌日の夜は予定通りに城で宴がひらかれる。沢山祝われ、沢山食べて、沢山飲んで。嬉しくて楽しいはずなのに、ネロの心は気づけば遠い冬の国へと向かっている。何度も空を見上げるその様子を見ていたシャイロックとルチルは微笑みながら、ネロがその日のうちに北へと向かえるように手配してくれていた。
「え、明日、帰るって言ってたのに……」
「えぇ、でもそれはあくまでも予定でしょう?」
「兄様は今すぐ会いたい方がいらっしゃるんじゃないですか?」
「それは……」
「私たちのことは気にせず、行ってらっしゃい」
そっとネロの手を握って、安心させるようにシャイロックが笑う。後ろでルチルも大きくうなずく。
「はは。ありがと」
「はい。いつでも帰ってきてくださいね」
「お気をつけて」
ネロは二人に背中を押されるようにして、北へと向かい駆け出した。
*****
冬の国へ辿り着けば、初めて来た日に苦労した吹雪は、ネロを前にすると収まり道を作る。周りで歓迎するように精霊が瞬いた。
「あんたたち……、迎えにきてくれたのか?」
問えば返事をするように強く光る。勢いのままに出てきてしまい、ブラッドリーにどんな顔で会えば良いかと躊躇っていた足も、勇気づけられるようだった。
深呼吸をして歩みを進めれば、すぐに城の前へと辿り着く。早まる鼓動を落ち着けるように息を整え、扉をゆっくりと開けば、エントランスの階段の手すりに寄りかかるようにしてブラッドリーが立っていた。
「……」
「……た、だいま?」
いざ目の前にすると、無言でこちらを見る目を直視できず、視線を足下へと逃してしまう。すると、むこうからは安堵するようにはき出された息と、静かな声がかかった。
「もう、戻ってこねぇのかと思った」
「え?」
「お前、めちゃくちゃ怒ってただろ」
「…………怒ってた」
「あー。……悪かった。てめぇの飯は美味いって分かってるからつい手が出ちまった」
「あれから、もっと美味くなる予定だった……」
「……悪ぃ」
「年に一度しか手に入らない実で、三日三晩煮込んでようやく味がでる貴重なものだったのに……」
「ん。悪ぃ」
「俺の特別な日に、あんたに一番美味いのを食べて欲しかった……」
「……悪ぃ」
「はぁ。もういいよ。……もう怒ってない」
「ん、でも、ほんと、悪かったよ」
ばつが悪そうに首の後ろをかきながら謝る姿が珍しく、最後にほんの少しだけ残っていた怒りも寂しさもどこかへ消えてしまった。いつの間にか溢れてくる愛おしさをどうにか表には出すまいと、ごまかすようにブラッドリーを茶化す。
「ふふ。殊勝なあんたはレアだな」
「はは。てめぇくらいだよ、俺様にこんなことさせんのは」
「はいはい」
「あ? 信じてねぇな?」
「信じてる信じてる」
思っていたよりも普段通りに進む会話に、普段よりもゆるんでいる頬を見られてはいけないと、自室へ向かう為にキッチンの前を通ると、隙間から調理台を占領する何かが見えて、足を止めた。後ろに続いていたブラッドリーは、驚くネロに気づき、あぁと呟いてソレがよく見えるように扉を開け放つ。
「……どうしたんだよ、これ」
「捕ってきた」
「だ、だって、こいつはかなり厳しい環境にしか生息してないやつじゃねぇか!」
しかもこんなに大きい!と、ネロは目を輝かせてオオカミともイノシシとも言い難いものへと近づいていく。
「俺様が食べちまったやつがかなり貴重なもんだったって街できいてよ、代わりにてめぇが満足できそうなもん捕ってきてやったんだ」
「すげぇ。初めてみた」
「流石に手こずって二日もかかっちまったが、いい獲物だろ?」
「おぉ。大きさも損傷の少なさも、文句ねぇ一級品だ」
「まぁ、なんだ。詫びと、それから、誕生日の祝いだ」
早速頭の中でどう料理しようかと巡らせていた思考はブラッドリーのその言葉で中断する。
「……え? 俺、アンタに言ったっけ?」
ネロがそう問えば、ブラッドリーは途端に険しく不機嫌な顔で不満を吐き出すように答えた。
「聞いてねぇよ。シャイロックが昨日手紙よこして来たんだ」
「手紙?」
「誕生日当日にネロの溜息を増やしてくれるなってよ」
「シャイロック……」
「だいたいてめぇ、誕生日ならちゃんと言っとけよな」
「いや、別にそんな言うほどの日じゃねぇし」
「てめぇの生まれた日だぜ? 充分大事じゃねぇか」
「……そっか」
「おぅ。ちゃんと言えよ。てめぇのしたいことも欲しいものも。全部俺様が叶えてやる」
「……」
迷いのない瞳で言った言葉は本心だろう。あまりの真っ直ぐさに急に照れくさくなってごまかすように話題を変えた。
「そ、それより、飯のリクエストはあるか?」
「お! 肉が食いてぇ。昨日は野菜しか食えなかったからな」
「あれ、食ったのか!?」
「食ったよ」
「……マジか」
「もう、二度と御免だ」
苦々しそうに言う姿に、今度は心の奥がくすぐったいようなソワソワと落ち着かない気持ちになる。少しずつ早足になる鼓動を収めるように、隠れて深呼吸をした。
唐突に昨日のルチルとの会話が蘇ってくる。
「それにしても、兄様が怒るなんて珍しいですね」
「え?」
「兄様はいつも怒る前に諦めてしまうことが多いから……。よっぽど大切にされていたんじゃないですか?」
「大切に……」
「きっとそうですよ。怒りも受け止めてくれるって分かってるから、素直に怒ることができるんです。そういうものなんですよ」
「そう、なのか……?」
「よかったですね。兄様。素敵な方に出会えて。私はとても嬉しいです!」
その時はあまり実感が湧かなかったが、今なら分かる。
北の国のプライドの高い王が、自分のために頭を下げ、誕生日を大事な日として扱おうとしている。野菜が嫌いだと公言している男が、嫌がらせのように作り置いた野菜サラダを食べたと言う。うぬぼれでなければ、それは誰にも媚びることのないこの男が、彼なりにネロを大切にしようとする証のように感じられた。
気持ちを自覚した途端にこれだ。すぐに引っ張られて暴れようとする心臓へ否が応でも意識が向く。それをどうにか目の前の食材に戻しながら、これからのブラッドリーとの接し方に不安を覚えた。
早々に、追加で渡されたプレゼントに心を乱されるのだが、それももう少し先の話である。まずは美味しい料理を作るべく腕にグッと力を入れて袖をまくった。
終