かぞくのとびら(The way to say I'm home.)11.
オートロック無し、エレベーター無し、そこそこ築浅の鉄骨3階建て。悠仁の家はごく普通の1Kの単身者用アパートだった。
うちに来た帰りに車で近くまで送ったことは何度かあったけれど、中に入るのは初めてだった。車はすぐ近くの小さなコインパーキングに停めた。
「ここの3階」
エントランスの隅に何台か自転車がとまっていて、その一つは悠仁の赤いマウンテンバイクだった。
大人の男が二人並んで進むにはやや細い階段を上り、規則正しく並んだドアの先、角部屋が悠仁の部屋らしかった。
鍵を回しながら「どーぞ」と悠仁が言った。
「おじゃましまーす」
正方形の狭い三和土で靴を脱ぐ。パチ!と悠仁が電気をつけると、廊下というほどでもないスペースにおそらくトイレのドアと、脱衣場の無い風呂の折戸があった。反対側にはステンレスのキッチン。前に悠仁が言っていた通り、シンクがやたらと小さくて笑ってしまった。
「はは、ほんとに洗面器じゃん」
「うるせえなあもう!」
そしてその先の部屋のシーリングライトにも光が灯る。パイプベッドにローテーブル、小さなチェストにはテレビが乗っていた。引っ越しをしてばかりだと言うだけあって、家具は最低限だった。だけど、ここはどこまでも悠仁の匂いがした。
「五条さんが入ると部屋めちゃ狭え〜」
エアコンをつけ、床に散らかったジャンプを部屋の隅に積みあげる悠仁の背中に
「ねえ、本当に来てよかったの?」
そう声をかける。えー今更?と笑うその身体を引き寄せ、僕は悠仁を後ろから抱きしめた。足元にジャンプが落ちて広がる。軽い声に反して悠仁の身体は強張っていた。
「お前、この流れでそれがどういうことかわかってんの?」
「わ、わかっとる……ガキじゃねーもん」
腕の力を強めると、悠仁の身体がさらに硬くなる。もう、この心臓の音、どっちの?僕たち、ひとつの生き物みたい。
「でも待って…ジャンプが…」
「電子にしなよ」
「このガサガサの紙をめくるのがいいんだよ……」
天井のライトが照らす悠仁の頸や耳は真っ赤だった。身体を、くるりと自分へ向ける。
「悠仁、キスしたい」
「ど、どーぞ」
さっきの車の中とほとんど同じやりとりなのに、その意味は全然、違った。
唇に柔らかな感触。お互いに口が自然と開いていた。舌を侵入させると、悠仁の舌が絡んできた。舐めて吸って甘噛み。呼吸を分け合う。その繰り返し。快感が全身を駆け抜けた。
ようやく唇が離れて、お互いに、は、と息を吐く。悠仁の顔は既に溶けていた。そのくせもっとと欲しがっているみたいで、それだけで、頭がクラクラする。このままだととまらなくなりそう。散々妄想はしていたし、正直に言うと禁欲生活はそろそろ限界だったけれど、まさか今日そうなるなんて思ってなかったから。
「一応聞くけど……男同士のセックス、どうやるか知ってんの?」
「ばっ、バカにすんなよ」
悠仁は口元を歪め、その答えに今度は僕が焦る。
「な、慣れてんの…?」
「んなわけねーじゃん!」
ドム!と鳩尾に拳が入って「あいた!」と声が出た。
「いいいい入れられるのなんか初めてだよ!ばか!言わせんな!」
「僕も初めて鳩尾に入ったんですが……」
無限が無いの、忘れてた。いいパンチ持ってるね……そりゃ幼稚園にやってくる不審者も空き巣も捕まえられるわ。でも、おかげで少し頭が冷えた。
「そっちのつもりではいてくれたんだ」
「まあ……なんとなく俺のほうが……そうなのかなとは……思ってたから…………」
悠仁は少しの間もじもじしてから、言いづらそうに口を開いた。
「五条さんと…付き合って……もしかしたらそんなこともあるかと思って……えと……実は……練習……を……」
「ハァ?!?!」
「こ、こえでっか!鉄骨だけど壁は薄いんだぞ!」
「だっだって」
「しょーがねーだろ!そんくらい……好きだったんだから……」
妄想してたのは僕だけじゃなかった。
「あーもーほんとにお前は」
「だからシャワー浴びてくる!!」
悠仁は僕の腕を擦り抜けると大股で部屋を出て行き、やがて勢いよく風呂のドアが閉まる音がした。壁薄いんじゃないのかよ。
「あーもー……ほんとにお前は……」
もう一度、今度は誰に言うでもなく呟いて、僕はベッドに腰を下ろした。
「……ってパンツ履いてんじゃん」
「え、いや、履くだろ」
シャワーを浴びたばかりの悠仁の身体はうっすらと濡れていて、ほかほか湯気が出ていた。
「脱ぐのに?」と聞けば真っ赤な顔で「脱ぐのに!」と返して来た。なんか僕、さっきからバカなことばっかり言ってない?
「てゆーか五条さん」
悠仁は頭を乱暴にタオルで拭きながら、妙に真面目な顔で「風呂で考えてたんだけどさ」と僕の隣に座った。石鹸の匂いが香る。白く明るい照明で筋肉が陰影を作っていた。
「な、なにを…考えてたの…」
今更やっぱなしとかそんなのだったら僕のいろんなとこが死ぬんですが。
「五条さんは……前の俺と……その……してたんだよね……?」
あーー…。
「……そうだね」
嘘をついても仕方がない、そう思った僕は正直に答えた。
「嫌……?」
「嫌っつーか……俺だけが初めてみたいで……なんか不公平じゃん……」
だからってどうすることもできねーんだけど、と付け加えていたけど、横顔は少し寂しそうだった。そしてすぐに僕のほうに向いて、
「いや、俺すげえめんどくせえこと言った。聞かなかったことにして」
その声があまりにもいじらしくて、自分の胸へ抱き寄せる。
〝めんどくさいこと〟確かにそうだった。今までだったらこれからセックスする相手にそんな風に言われたら、その時点でさよならだった。ひたすら面倒だし。なんなら出すもの出さずに解散だった。のに。
悠仁が言えばこんなにも愛おしいなんて。
「名前」
「え?」
「名前で呼んでよ、僕のこと」
だから僕は、悠仁にそんなお願いをした。
「呼ばせてなかったの?」
悠仁が驚いたように、僕の腕の中で首を傾げた。
あの頃、二人きりだろうがなんだろうが、悠仁は頑なに僕を〝先生〟と呼んでいた。だって先生は先生だろ!とかなんとか言っていたけれど、今となれば理由もわかんない。
「呼んでくんなかったんだよ。まあ、僕、〝先生〟だったし」
悠仁は「ふうん」と暫く考えてから口を開いて軽く息を吸った。
「さ、」
「ん?」
「さとるくん……はなんか違うな。敬称略?さとる?うーん……さとるさん……………………」
「悠仁?」
突然黙ってしまった悠仁に声をかける。悠仁はおずおずと僕を見上げ尋ねた。
「ねえ、前の俺、五条さんのこと名前で呼ばなかったんだよな……?」
「そーだけど……?」
「あ、は、その気持ちすげーわかる…」
「え?なんで?そ、そんなに嫌だったの……?」
悠仁はもう一度「さとるさん」と舌足らずに僕を呼んでから、へら、と照れたような顔をした。
「呼ぶたびに、もっともっと好きんなっちゃうじゃん」
「え……」
「好きになりすぎて死んじゃうよ……ってうわ?!」
もう、とまんなかった。
The way to say I'm home.