2月の夜更けにキッチンにひとり立つ。くつくつ、ガシャガシャ音を立ててできたチョコレートスフレのカップは21個。もはや美味しそうというよりはやっと終わった、という感想になるのが悲しいところだが、この行事はそういうものだ。
ネロが手伝うというのを頑なに断ったのには訳があって、1番手前にある赤いカップのケーキを晶はじい、と不備がないようあちこちから検分した。
「ありがとうございます、賢者様」
世界中の幸福をつめたような嬉しそうな顔でリケが言う。手に持った薄黄色のカップのケーキを透明な包装の外側からしげしげと眺めている。これで大半の魔法使いには渡し終えた。残るはまだ寝ているシャイロックと公務中のアーサーとカイン、そして神出鬼没のミスラ。
ほどなくして起きてきたシャイロックの朝ごはん(ブランチ)のお供に深い赤色のカップが1つ、帰ってきたらアーサーとカインに水色と明るい黄色のカップが1つずつ、とケーキは旅立って行った。
晶の手元には赤いカップが1つだけ残って、にわかに晶は緊張し始めた。彼は神出鬼没ではあるが、実は朝からミスラの姿は何度も見かけている。嬉しそうなリケの後ろに座って炭を食べていたし、食事中のシャイロックの遥か後ろを歩いていくのも見えた。アーサーとカインに渡している時もさくさく隣を歩いて行った。
「(さすがに……変だと思われてるだろうな……)」
建前上、全員友チョコというか、本来のそういう意図はない。しかし本音を出すならば間違いなく今晶の手にあるものは本命だった。思いを告げるつもりがなくとも、それは事実だ。
義理だといくら繕ったとて、緊張する。好きな男に手作りのチョコを渡すとはそういうことだった。その上、さっさと渡してしまおう、そう思った矢先にミスラが見つからない。晶は焦った。
ミスラならどこにいくだろう。彼の部屋、中庭、屋根、オズの部屋、バー、南の兄弟も知らないし、温室にもいない。どこにもいなくて焦りに悲しさも加わって少し泣きそうだった。
あとはマナエリアくらいだが、最後に賢者の書にヒントがないかと自室に戻る。がちゃ、と扉を開けたそこには。
いるとは毛ほども思っていなかった長身がベッドに横たわっていた。靴のまま、晶のベッドに仰向けで寝ている。
「み、ミスラ……」
「ん、ああ、あなたですか」
ごろん、と壁の方に横向きになる。
「もしかして、ずっとここにいたんですか?」
「そうですよ。どうでした、俺を探し回る半日は」
珍しく、嫌味ったらしい言い方をする。まさか、拗ねているのか。あのミスラが。
「菓子を皆に配っていたでしょう。感謝の気持ちとかなんとかって」
「……はい、それでミスラにもって」
「はあ? なんで俺が最後なんです。俺が1番あなたのお世話してるでしょう!」
がばりと体を起こしたミスラにじっとり睨まれる。
「ご、ごめんなさい! なんといいますか、喜んでもらえるか不安で……その、緊張して」
後回しにしてしまいました、とどんどん小さくなる声で告げる。後ろ手に持っていた赤色のカップのチョコレートスフレを前に取り出した。
晶の顔から視線をケーキに移したミスラはしばらく睨んでいたが、次第に少し怪訝な顔をして、首を傾げた。
「これなんですけど、遅くなってごめんなさい。……ミスラ?」
「……変な人ですね、手作りの菓子くらいで緊張なんて」
変、と言われた晶は衝撃を受けて、俯けていた視線をミスラに向ける。そこには、先ほどの拗ねた様子からは想像だにしない柔らかい顔をしたミスラがいた。透明な包装をかさり、と握って彼がいう。
「いいですよ、許してやります」
微笑みと言っても差し支えない表情に、晶の顔に体中の熱が集まったようだった。
「ああ、無事彼に渡せたのですね」
「しゃ、シャイロック……」
自室から不自然に逃げ出した晶が、熱い頬を手で冷やしながら廊下を歩くとシャイロックに行き合った。なんだか嬉しそうに笑う彼にどういうことでしょうと惚け半分に真意を糺す。
「晶様が持っていたケーキの中に一つだけ、強い情念というか祝福というか執着というかそういう気質が入ったものがあったでしょう?」
「あったんですか…………」
「おや、気づいてらっしゃらない。晶様の世界では求愛の行事だとも言っていたので、てっきり、そういうことかと」
「……あの」
晶は気がかりだった。シャイロックが気づくということは。
「そういうのって先方にバレますか……?」
「ええもちろん」
晶はしゃがみ込んだ。さきほどのミスラの柔らかい、微笑みともいえる表情を思い出す。
「晶様からのそういう思いは彼は嬉しいと思いますよ。さっきも睨まれてとっても怖かったですから」
心底楽しそうにシャイロックが笑った。