九里香の秋白檀の香木を求めてオイラは人の里へ降りていた。
富良悌郎が言っていたからだ。人の、特に血の匂いというのは悪しき物の怪を引き寄せちまうって。
商店街では観賞用の鈴虫が軒先で静かに鳴いていたり、果物屋では売り場に栗や柿が並んでいたりと、すっかり秋の気配だ。オイラは富良悌郎へとお土産に蜻蛉と紅葉の絵付けがされたべっ甲の櫛を買おうかと考えてから思い留まる。
人間が魂を込めて作った物は長く使えば使う程付喪神が憑依し易くなると教えてくれたのは幻影だ。だからこそ妖怪は余り物を持たないのだ、とも。オイラは白檀だけを買っていそいそと深い森を抜けて帰路へついた。
人の世界と妖の世界の狭間にあるこの家でオイラと富良悌郎は暮らしている。両親との生活を捨てて半妖になったオイラの唯一の居場所だ。頭領には感謝しかねぇ。
「よぉ、魚(とと)。帰ったか」
両手に沢山の茸が入った籠を抱えた富良悌郎がオイラを出迎える。
「どうしたんだい?それ」
「牡丹鍋にしようと猪を追っていたら山の主から逃がす代わりに、と渡されたんだよ。……何せ死産になりそうな猪だったからな。このままでは子猪が不憫だと感じて殺そうとした事を許してくれ」
罰が悪そうにする富良悌郎にオレは頭を横へ振った。
半妖になったとは言え富良悌郎は『役目』から解放された訳じゃねぇ。妖怪っていうのは、元が人間であれアヤカシであれ、妖怪となった途端『役目』を与えられる。
富良悌郎は尽きる事の無い酒の芳香で死期の近い人間も動物も老衰死させる。富良悌郎は昔人だった頃妖の男に騙されて怪我を負っちまって、千里眼を埋められ妖怪となっちまった。千里眼は見たものの過去や未来を覗く力があって――富良悌郎はそれを持つ限り苦しみ続ける。
半妖になったオイラに与えられた役目はそんな富良悌郎の傍でずっと支え続ける事。富良悌郎と一緒に居られるのは幸せだけど、それでも脅威がなくなった訳じゃねぇ。
氷雪の言葉を借りれば、妖怪の中には半妖を快く思わない奴も居るらしい。そりゃそうだ。妖怪としても半端者。人間の血が残ってる限り狙われる事もある。
だからこそ物の怪の鼻を誤魔化すべく人間の匂いを消す為にオイラは白檀の香を焚いて衣に染み込ませるようにしている。
「大丈夫だよ、富良悌郎。茸鍋にしましょうぜ」
オイラが籠を受け取ると富良悌郎は背中から抱き込んできた。
「……九里香の匂いがする」
「へ?」
「金木犀だ」
ああ、そういや。人間の郷へ行く道中に噎せ返るような金木犀の並木があったっけ。
「着替えた方がいいかい?」
「いや……お前が故郷を憂いやしねぇかと不安になっただけだ」
確かにオイラの村にも金木犀があった。確かにその香りはオイラにとっては懐かしいものだけど。
「――オイラ、白檀の匂いの方が好きだよ」
体温の低い手に掌を重ねる。
そのまま後ろへ振り返ると切なげな瞳を向ける富良悌郎がすぐ近くにあった。
「魚(とと)」
低い声と共に唇が塞がれる。
「んっ、待っ……」
するりと片手で支えていた籠が床へ落ちちまう。
「鍋よりも先に――お前が欲しい」
浴衣の帯を解きながら熱っぽい吐息を吐かれ、オイラの中の九里香の匂いは甘い記憶にすり替えられた。