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    MASAKI_N

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    非常宣言副×元③

    #非常宣言
    extraordinaryDeclaration
    ##非常宣言
    #チェ・ヒョンス
    #パク・ジェヒョク

    カリスマモンスター ジェヒョクから歩み寄ってくれなければ、ヒョンスはずっと片想いのままでいただろう。その状態で悩んでいる方が長く自分勝手に彼のことを考えていられるから、そうしていたかった気持ちもなくはない。
     もし偶然どこかで会うことがあっても、どんな顔をして何を言えばいいかわからなかった。お互いの人生を乱したくなかった。忘れて欲しかったのだ。
     実際会ってみれば結局「一生会いたくなかった」なんて、傷付けるような言い回しで迎えてしまった。だがその困惑さえ予測していたように、彼は一緒に呪いを解いてくれた。そのためにヒョンスがいる飛行機を選んだのだ。最悪、無視されて拒否されると思っていたのなら、会話ができただけでも前進したという判断で、次の段階へ策を練ったのか。
     自分の方はいつまでも忘れることなんてできなくて、空港で一瞬視界に入っただけで迷わず彼だとわかってしまうほど、再会を求めていたくせに。
     今ならわかる。ヒョンスがどんな対応をしてもジェヒョクは、また会いに来ただろう。事故のことや、ジェヒョクへの複雑な気持ちに独りで悩み続けるのは、ヒョンスの未来にとって良くないことだと、フラッシュバックの度に彼も実感したからだ。
     彼は偽善的な優しい言葉では解けない呪いだと知っていた。
     お互いへの想い。誰に向けていいかわからない怒り。抱えきれない虚しさ、悲しみ、痛み。仕方のないことだと受け入れなければいけない。後悔しても意味がないとわかっていながら、ああ、もしあの事故がなければと振り返る。
     ジェヒョクが自分の選択と決断に後悔していないと言うのは、そう言い切る責任を負う覚悟が常にあったからだ。その言葉も意志の強さも嘘ではないのに、抱えきれず抑えられない感情が、病となり彼を苦しめる。
     自分が辛くなるのはわかっていた。それを覚悟してなお、決断したことを正しいと言い切ったのだ。クルーの事故死を防げなかったことへの後悔は当然ある。彼女が死んだのは、彼のせいではないのに。
     忘れることができないなら、新しい傷を負うとしても正面から向き合って、痛みごと未来へ進むべきだと、会いに来てくれたのだ。新しい二人の関係を探すために。
     ヒョンスは事故のこともジェヒョクのことも、とっくに許せていた。ジェヒョクと向き合ってみて、同じ重さで空しさや悲しみを分かち合える相手が欲しかったのだとわかった。自分から遠ざけてしまったのは、いつでも一番会いたい人だった彼との関係が変わってしまうのが嫌だったからだ。
     パイロットが別の誰かだったなら、迷わずジェヒョクに慰めてもらったはずだ。
     でも、ジェヒョクが当事者だったから――ヒョンスが慰めて欲しいと言ったら傷付けてしまうと、自分を抑えてしまった。彼もまた、自分が慰めてしまったらヒョンスを傷付けると思ったはずだ。
     本当はヒョンスから歩み寄って欲しかっただろうに、自分から歩み寄って拒否される怖さより、ヒョンスの呪いを解くことを優先した彼には、一生敵わない。
     恋慕への覚悟も、ジェヒョクから誘惑して挑発しなければヒョンスが観念しないことを、彼はわかっている。ジェヒョクにはもう、信じた神と愛した妻の抜け殻を胸に抱いたままのヒョンスを、愛する覚悟ができている。
     ジェヒョクへの気持ちは、彼の愛の深さと強さに敵わない。だからこそ、怖じ気づいて否定しそうになる。過去には戻れないから、明るい未来を目指して良いのだと誰かに手を引かれ、自分の責任を有耶無耶にしてしまえば楽だ。だがジェヒョクは、向かう先が地獄でも、俺を憎み恐れながら共に歩む覚悟を決めろと、ヒョンスの瞳の奥を探る。
     そういうところが強くて、恐ろしくて、美しくて――どうしようもなく惹かれる。



    「カリスマモンスターとは上手いこと言ったよな」
     パスタを茹でながら、ジェヒョクはそう呟いた。
     ジェヒョクは退院日に予告通りヒョンスを車で迎えに来てくれた。昼はファストフードを食べてから買い物をして、ヒョンスのマンションで一緒に夕飯を作っている。
     妻と暮らしていた家を出て独りで借りた、眺めのいいワンルームのマンション。もう恋なんてできないと思っていたのに、初めて本気で恋した男が目の前にいる。
    「それ、誰に言われたか覚えてます?」
     卵を具材と混ぜながら質問すると、心当たりがありすぎて絞れないという顔をされる。
    「誰だったかな」
    「誰かに言われた悪口を、付き合っていた恋人があなたに伝えたんでしょ」
     ジェヒョクはオムレツを焼くヒョンスを眺めつつ、思い出そうとしている。
    「そうだったかな。でも、悪口か?何ちゃら王シリーズより美化する意図が少なくて気に入ってた」
     知らん顔をせず、そろそろ白状しなければ。
    「最初は僕が言ったんです。あなたの当時の彼女と、あなたの話をしていて」
    「え?」
     ジェヒョクはいつも恋人にヒョンスを紹介したがった。「俺の後輩の中で一番いい奴だ」なんて言いながら。毎回、複雑な気分になった。
    「王っていうより、もっと単独で人を惑わす存在だと思ってたんで――嫉妬もあったし、憎い気持ちが無いわけじゃなかったけど、悪口ではありませんでした。それが意図せず、一部で流行ってしまったんです。ごめんなさい」
     あの時は、社内恋愛されるのはさすがにキツいなと思って、少し毒を吐いてみたのだ。相手がお似合いだと思えるほど辛かった。
     彼女は一瞬ヒョンスが毒を吐いたことに驚いてから「付き合いが長いだけある」と大笑いして、翌週にはもう新しいあだ名として流行っていた。
    「本当に?」
     ヒョンスが頷くと、ジェヒョクはあの時の彼女のように愉快そうに笑い出した。
    「怒らないんですか?」
    「道理で他の悪口よりセンスがいいなと思って」
    「調子がいいな」
     本人にも面白がられていたのは知っていた。たまに自称するのを聞いて、気まずく思っていたから。
    「でも、彼女から聞いたんじゃないと思う。多分パイロットの誰かに、『お前、女性社員にカリスマモンスターって呼ばれてないか?』って言われたんだ。長年謎だった名付け親に会えて嬉しい」
     彼女は発信源を伏せたのか。
    「あなたはかっこいいけど、怖いですからね。自分を暴かれそうで」
     片想いだった頃の気持ちがよみがえり、苦い顔をすると、ジェヒョクは上目遣いで眉を上げ、ヒョンスの内心を探るように笑んだ。
    「お前は暴かれたいから俺を好きなんだろ?人の為に隠してる、本当の自分を知って欲しいから」
    「――素の自分を知られている方が楽ですからね」
     実際、ジェヒョクに本性は大体見破られていて、それを居心地がいいと感じていた。好意も伝わっていただろう。セクシャリティを隠していたせいで、それが恋慕だと思われなかっただけだ。
    「でも、Mかと思えばドSだよな。俺が調子に乗ってドSぶるように上手く誘導して、最終的には容赦なく反撃する計算なんだから」
     自覚はしている。調子に乗った時の顔が好きなのもあるが、翻弄できるならしてみたいのだ。そうできたら、彼と対等で釣り合う相手になれる気がするから。
    「そうされたくて煽ってたんでしょう?」
     ジェヒョクの方は、善人で無害な好青年だと思われているヒョンスが、意外と知能犯で皮肉屋だと知っているのが自分だけなのを、楽しんでいたはずだ。
    「だって、怒ってるお前が一番、本音が見えて安心するから」
     精一杯不機嫌な顔で睨んだって、嬉しそうにニヤつかれてしまう。恋心に気付いてくれないなら放っておいてくれと、紹介された恋人に嫉妬しないようにそらした顔をいつも、覗き込まれていた。
     もし放っておかれたって、気持ちは変わらない。自分より彼に相応しいと思える誰かに完敗するまで、諦められない自分をただ慰め続けていた。
    「――そういうところがモンスターなんだ」
     長年抑えていた恋心は細かいやり取りでも容赦なくよみがえって、未だに胸が苦しい。
     あの頃苦しかったことの仕返しをしたいのかもしれない。
    「ふふ、言うようになった。楽しくなってきたな」
     徹底追及したい時以外は、引き際は弁えているし、いつだって小粋だ。変わらない。
    「暴かれると言うより、話しているとモヤモヤしたものがクリアになる感覚があるんです。凄く単純な切り捨て方を教えてくれたりして。でも、真剣に悩んでいたことがあっさり無駄でくだらないとわかるのは、愚かで弱いと自覚させられるみたいで嫌な時もある。だから、それが嫌な人間には避けられる。僕だってそうだった」
     そういうところに惹かれて惚れ込んでいるくせに、近付いて触れられると、自分の弱さばかり気になってしまって、逃げていた。
    「お前の悩みは八割、人への優しさで出来てる。愚かでも弱くもない。誰に優しくして、誰に厳しくするべきか切り捨てないから、信用されるし、利用されるし、俺みたいにモンスターだなんて言われずに愛される。本当は損したくなくても、そうせずにいられない。お前は人の好さにつけ込まれて情けないと思ってるのかもしれないけど、揉めるのが面倒なだけじゃないだろ。自分の優しさを、そろそろ自分でも褒めてやったらいい。自分にもSでMだから困っちゃうよな」
    「あなたも愛されていますよ。モンスターの割にね」
     優しいのはどっちだ。食事に合うかわからずに買ったワインを、グラスに少しだけ注いで渡した。
     ジェヒョクはひと口飲んでから神妙な顔でグラスを揺らし、遠い目をする。
    「俺だって本当は、愛してる人にだけ愛されれば満足できるし、他はクソ食らえと思ってるんだ。でもそれじゃ、愛してる人に迷惑もかかるし、嫌われるかもしれないから仕方なく、ちょっとだけいい人をやる努力をしてる。いい人の振りができて偉いなって自画自賛してんの。少なくとも、嫌われない程度にね。まああんまり出来てないか。あのくそテロリストにも絡まれるぐらいだ。頭の中を覗かれたらお前に嫌われちゃうかもな。何割かはバレてるだろうし、愚痴れる時は愚痴るけど」
     残りを飲み干して頷いた彼のグラスにワインを注ぎ、チーズを渡す。
    「外面がいい人間の方が、本心は闇が深いものですよ。覗かれて嫌われるのは僕の方かもしれない」
    「それならむしろ、お前も人間なんだなって安心する」
     チーズと生ハムを適当に皿に盛り、オレンジを切る。
    「怒りや嫌悪の基準を知っていた方が、安心しますか」
    「大事なことだ。お前だってそれを察して避けてるから、人と上手くやれてる。俺だって善人の方が美しいと思うし、そうなりたいと思ってるよ。でも世の中、そう思ってない人間は案外多い。善人になりきれないと悩むことも人間らしくて美しいと思うし、悩む時点でもう善人だ。善の効果に大小はない、善は善。罪にも本当は大小がないから、小さな罪を悔いるわけだろ。人間は基本的に罪深いから、なるべく善いことをして極悪人になるのを緩和しようねって話だろ。罪は犯してしまえば消せなくて、生きている限り増え続けるから、どんな善人でも長生きすれば、罪もそれなりになるのが当然の結果だ。イエス・キリストだって罪の発生は仕方ないと知ってたさ。お?葡萄酒飲みながら説教しちゃった」
    「あなたは僕を美化している気がして」
     そういえば大勢で集まるような時も、輪から外れて何かしているヒョンスにこんな風に話しかけてきた覚えがある。買い出しに行く時は連れて行かれたし、自分が独りで行こうとすると、ついて来てくれた。
    「お前は、皆が思うより自分が悪い人間だと思うんだろうけど、逆だ。自分が思うより清らかでいい人間だと思うよ。大抵の人はお前より悪いし残酷で、狡くてエロくて汚い。お前が想像もできないくらいにね。ジンソクだってそうだったろ。誰かに殺意を抱こうが内心で罵声を浴びせていようが、気に病むことはないさ。俺はお前の我慢強さも、そういう毒と薬の使い方も凄く好きだけど、自分を毒してるんだったら、怒りや不満を表現することを我慢しない方がいい。少なくとも、俺の前では」
    「あなたが、どうして僕を好きなのかわからなくて――美化されているんなら納得できる」
     自分がジェヒョクを好きな理由は、思い出そうとしなくても嫌というほどわかっている。そうやって、ヒョンスの人格や感情を、いつでも大事にしてくれるからだ。
    「じゃあ、どういう人間なら俺に好かれると思ってる?」
    「あなたと同じくらい、強い人かな。歴代そうでしたし」
    「お前もそうだとしたら?」
    「僕はそうなりたいけど、なれないと思った」
     同性も恋愛対象だと知っても、自分との可能性が上がるとは思えなかった。
    「強いものが嫌いな人だっているよな。弱さを美しくて愛しいと思うこともある」
    「僕は――」
     ――あぁ、そうか
     もやが晴れる感覚にまた、好きだった理由を思い出す。
    「うん?」
    「弱いものとして愛されているなら、嫌だなと思ってる。ほら、やな奴ですよ。やっぱり」
     無意識に動かさないようにしていた琴線に触れられ、感情がある生きた人間であることを自覚させられる。
    「それなら、強いから愛してますって言われるのも嫌だよ」
     ジェヒョクはそう言われ、突き放されてきたのだろう。
    「嫌ですよね。でも僕はあなたの強さが好きだと思う。病んでも変わらない強さを、あなたは変わらずまだ持っていて――僕がもっと強ければ、あなたを守れるのにと思う」
     もしこの関係が続くなら、一体、何度こんな気持ちになるんだろう。
    「強いからじゃない。大事にしたいことが同じだから、好きなんだ。それだけでいいのに悩みすぎなんだよな。だって、強さやらパワーに惚れてるなら、世界最強で世界一美しい人間に惚れてないとおかしいだろ。ドウェイン・ジョンソンみたいな」
     急に映画スターを引き合いに出されても困る。
    「僕の世界ではあなたが一番です。敵う人は見付けられなかった」
     悪あがきすればするほど敵わないとわかるのに、参ったと言わせたい気持ちが消えない。
    「ははは!それでいいだろ。俺にもお前がそうだから。娘は殿堂入りしてるけど、許せよ」
     ロック様に勝ったぞと、背中と肩を叩かれる。
    「世界一って、凄いことですよ」
    「だから、お互い凄いことだって。代わりが見つからないのは、人間同士の歴史や想い出は、代わりのきかないことだからだ。俺とお前の歴史が、誰とも築けないものだからだ」
     事も無げに笑って、憎たらしい。
    「やっぱり、僕は馬鹿ですよ。恋人になれても結局、素直に喜べないなんて――」
     自嘲して困っていたら、肩を叩いていた彼にそのまま抱き締められた。
    「今、世界一近くにいるのはわかるだろ」
     低い声が身体を伝って響き、血を揺さぶられる。
     退院前の病室でのやり取りを思い出す。目を合わせたら真剣な眼差しに捕まって、唇を奪われた。
    「わかります……」
     生きているジェヒョクに、確かに触れている事実。
     ――晴れの日でなくても、雲の上まで行けば晴れるから。
     いつかジェヒョクが呟いて、雲の上で青空を一緒に眺めた。
    「ヒョンスヤ」
     火を止めて、今度はヒョンスから抱き締める。
    「僕には一生わからない感覚で恋をしてる人なんだって思ってました」
    「触れたらわかった?」
     触れてはいけないと思っていたのは、触れたらわかると、本当は知っていたからだ。
    「自分が生き物だってことと、人間だってことを両立するのは難しいと思い込んでたけど、あなたといれば、できる気がする」
    「できてるって。俺は死の淵でも人間をやめられないお前だから、愛してるんだ。手に余る幸せはお前が笑えば自然と周りに分けられるだろ。もっと幸せになっていい」
     笑顔の力は、ジェヒョクを見ていればわかる。釣られて自分もいつの間にか笑顔になっていて、重い気持ちが軽くなる。
    「ごめんなさい。いつまでも引きずって」
     腕を緩め、鼻をすする。
    「悲しいのはお前が人間で、生き物だからだろ。幸せになることも、泣くことも、我慢しなくていい。お前が俺を好きなのは、俺の前でなら笑うのも泣くのも楽にできるからかもな。そういう存在でいたいと思ってるから、嬉しい」
     今思った通りのことを、そのまま言われる。
    「はは、心を読むモンスターの名前を調べないと」
     一粒落ちたらもう駄目だ。一緒にいる時は笑っていたいのに。
    「恋することも我慢しなくていい。欲しいものやしたいことを隠すな。俺の前でだけでもいい。せっかく両想いだとわかったのに片想いみたいなこと言われたら、寂しい。無理に言葉にしなくてもいいけど、昔そう言ってくれたのは嬉しかったから」
     間近にある切なげな顔に、胸が軋む。
    「僕、あの時あなたに何て言いました?」
     ジェヒョクが触れ合いを好むのは、触れていると言葉で言えないことも伝わって、相手が嘘がつけないからだ。
     ヒョンスが自分の心を隠さなくて済むから。
     身体の反応と言葉が、食い違わなくて済むから。
     恐怖心も、誰かから安心感をもらえれば、楽になるから。
     それは彼自身がこの数年間の苦痛を和らげるために再認識したことでもあるだろう。
    「覚えてない?『あなたを尊敬している。一番、大事な人だ』って言ってくれた。俺がその言葉を一番言われたかった時に」
    「必死だったので、本当は『誰より尊敬していて、愛しています』と言いたかったのに、そうは言えなかったということだけ覚えてます」
    「伝わってるよ。お前は、愛してもいない男に、必死な顔であんなこと言わないから。凄く嬉しかった。俺もお前を尊敬してたし、愛してたから」
    「僕はあなたからもらった安心や愛情を、返せる気がしない」
     全部見破られてしまうことへの不安を悟られないように、触れ合いを避けていた。
     それも全部、見破られていたのに。
    「あのな、宗教だってお前を救うためにあるんだろ。教義の禁止事項だけ異常に身に着けちゃ駄目だ。お前の精神の自由や幸福は、人を傷付けるようなものじゃない。余って何が悪い?得したら喜んでいいんだぞ?得した分何かを取られると思ってるなら、余ったことにならないし」
    「取るものなんて僕には、もう何も無いです」
     泣き顔を見られるのが嫌で、拭く物を探して身体を離した。
    「あるよ――うん。逃げられない人生と命ってやつが。それを全部の感情と一緒に俺にくれるんなら、むしろ損だ」
     ジェヒョクは静かに深呼吸しながら調理の仕上げをし、食卓に並べ始めた。
    「やっぱり、美化してますよ」
     鼻をかみ、軽く顔を洗って、キッチンのステンレスに映る顔を見た。情けなくてまた泣けてくる。
    「美化しなくたって人間は美しいんだ。同時に、絶望するほど醜い――そうやって悩んでいる様さえ美しいと思うんだから、しょうがないだろ。もの憂げな顔が俺を見て綻ぶだけで嬉しかったんだ。安心感とか、肯定感とか、正しくて美しい言葉とか――俺だってお前は俺にはもったいないと思うし、汚してしまいそうで怖い。でも全部くれるって言うんなら得したなぁって思うし、醜いところも受け入れられたら楽になるんじゃないかと、誘惑したくなるんだ」
    「清く正しくいたかったわけじゃありません。そうじゃなくなるのが怖かったんだ」
     今日のうちに全部吐き出してしまえば、ジェヒョクと付き合うこともずっと楽になる。ジェヒョクが泣くなと言わないのは、そういうことだろう。
    「清く正しいままでいるのも怖かっただろ?お前みたいにありたいと思ってても、そうそうできるもんじゃないんだって。お前は凄いよ。そうするのは大変だったろ。誇っていいことだ。恥じることじゃない。あらゆる誘惑に負けなかったところが好きだけど、俺の誘惑にだけは負けてほしいと思うのが恋だ」
     美しいと同時に、絶望するほど醜い。
    「勇気が無かっただけです。僕から誘えば良かったのに」
     病室で言えなかったことも、自分の部屋でなら言える。
     ヒョンスも深呼吸して水を飲み、食卓に着いた。
    「俺は何でもいいよ。お前なら。誘うのも誘われるのもいい。別々のことをしていてもいいから側にいたいし、隙あらば色気も満喫したいし、やらしいことができなくても隣で眠りたい。我慢もできるよ。でも、我慢しなくてもいいってわかったからにはしたい」
     それはわかっている。それに、ジェヒョクが押し切るのは、ヒョンスが我慢や遠慮をしている時だけだ。無理強いはされないとわかっている。
    「僕は、こういう風に穏やかで暖かな一日が過ぎて、最後に今日も一日幸せだったって確かめるような触れ合い方がいいです」
     それは理想だ。本当は、煽られたら欲を抑えられない自分を、恐れているだけだ。
    「――おぉ、お前らしい。でも付き合い始めくらいは羽目を外してもよくないか?どうせ、入院生活で体力が落ちてるから、そんなに激しいことにはならないだろうし」
    「僕は病室でも、ちゃんとトレーニングしてましたよ」
     具体的に現実を見つめさせられ、少し冷静になる。
     パスタは少し茹で過ぎてしまったが、涙に負けず、濃いめの味付けで美味しい。
    「俺だってしてたよ」
    「じゃあ止められないじゃないですか。生活が疎かになるのは嫌なんですよ」
     さっきより気取らずに話せている自分に気付いて、また内心で降参する。
    「それは尊重するよ。初めてはロマンチックにしたいならそうするし、別に激しくされても引かないし。中々落ちないお前を口説くのも楽しいし、もう落ちてるのに抑えようとしてるのも可愛い――んん」
     パスタをくるくると巻きながら、中々黙らないジェヒョクを黙らせたくて、乗り出して顎を捉え、がぶりと口付けた。
     食事の味と、ワインの匂い。
     唇を離して水を飲んでから、また何か言おうとしたジェヒョクの口を人差し指で制す。
    「……食事とシャワーくらい待ってくださいと言ってるだけです」
    「食事の後とシャワーの前後も今のやつしてくれたら、待つ」
     愉快そうに笑んで、ジェヒョクは大口でパスタを頬張った。
    「あなたから勝手にすればいいでしょ」
     急にお腹が空いてきた。
    「なんだ、我慢しなくていいのか。それを早く言え」
     ジェヒョクは参ったという風に額に手を添え、腹から声を出して笑い始める。
    「さっき自分からもしたの忘れてるんですか?」
     本当に憎たらしい。
    「あれはそういう流れだっただろ。ただ触るよりわかりやすく、世界一近いことを証明したんだ」
    「せっかくあなたが作ってくれたのに、パスタがのびたらもったいないでしょうが。まだ……美味しいですけど」
     頬張ったパスタが美味くて、また悔しくなる。
    「はいはい。本当、負けず嫌いの王子様だな。美味そうにいっぱい食べるお前も好きだよ」
     我慢しているのもわがままを言っているのもジェヒョクのようで、本当はヒョンスだ。
     やっとそう気付かされ、この、モンスターめ。と心の中で毒づいた。
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