Dormiglione 目覚めるまでの数秒、不思議な感覚を味わう。誰かと手を繋ぐことなんて、道に迷った誰かの手を職務上、仕方なく引く時ぐらい。十数年振りだろう。
イ・ドンシクに出会うずっと前。最後に望んで手を繋いだのは、誰だっただろうか。僕は――
「ジュウォナ」
ようやく慣れてきた、隣にドンシクのいる朝。
「……ぁあ、おはようございます」
ドンシクは寝姿勢に合わせた流線型の抱き枕に、右足を乗せるようにして眠るのが常だ。誕生日プレゼントのおまけでジュウォンが用意したものを、どうやら気に入ってくれているようだった。
足腰の負担を軽減できるし、パーソナルスペースが広いジュウォンとも、寝ている間にお互いのスペースを狭めにくい。何より、枕に抱きついて眠る様子をかわいいと思っていることは、ドンシクには内緒だ。
「おはようございます。やっと起きた。あなた、夢見が悪いよね。眠りが浅いからかな」
「全部が悪い夢というわけではないです」
「だって、眉間に皺が」
伸びてきた手が、ジュウォンの眉間に触れる。うなされていたのだろうか。
「夢で何かを不可解だと思って、それを解消しようとするところで大体目覚めるので、そういう顔になるのかもしれません」
外は雨模様だ。中々、身体を動かしたい気分にならない。もう少し眠れそうだ。
「ん〜、人間は寝る前に体験したことを眠っている間に整理して、解決策を脳内で検索するらしいからね。睡眠学習効果みたいな」
「そうかもしれませんが、そこまで現実的な夢ばかりでもないかも」
なんだか変な夢だった気がする。
「今日の夢はどんな感じ?俺、左手が使えなくて困ってるんだけど。あなたが離してくれないと着替えもできないし、用も足せないな」
ジュウォンの右手はドンシクの左手と指を組んで、しっかり握っていた。
「え?……あぁ……あなたでしたか」
手を繋いでいる夢を見たのだ。
「何それ?俺しかいないだろ。誰の手だと思ったわけ?まさか浮気?」
珍しく怒ったようにそう言って、ドンシクは抱き枕に頭を預け、顔をめり込ませた。
「するわけないのに――誰だったんだろう」
ドンシクは、挑発に乗らないジュウォンを、身をかがめて相手の挙動をうかがう狐のような上目遣いでじっと見ている。
「小さい頃、好きだった人?」
「え?」
「欧米人っぽい名前だったから、イギリスにいた頃の先生とかかなって。何度も呼んでた。最初は手首をつかまれてたんだけどさ。痛いって言ったら、こうなったわけ。また逮捕されちゃうかと思ったよ」
逮捕の時なら、ジュウォンの手に導くように触れたのはドンシクの方だ。
「僕から繋いだんですか?」
無意識に、何を求めてそうしたのか。
「僕ちゃんからですよ。俺ちゃんからじゃない」
――俺ちゃん?
変な表現に一瞬きょとんとすると、ドンシクはくすくすと笑う。人のせいにしているが、少しだるそうだ。昨晩はそんなに激しいことはしていないから、天気のせいだろう。
「……欧米の人名、ですか」
「わかんない。ファンタジーのキャラクターかも。ドリームなんとか?ゴロニャンニョー?みたいな」
まどろむようにしながら、なんだか可愛らしい語感の言葉が眠たげに発せられる。
「あ……Dormiglione?」
語感が近い。でたらめではなく、ドンシクの記憶力はそれなりに芯を捉えていそうだ。
「それだ。何語?」
賢そうな目がきらりと瞬き、省エネモードの気だるさが消える。
「イタリア語で、お寝坊さん、ねぼすけ、怠け者みたいな意味です」
確かに呼びかけではあるようだが、人名では無い。
「お寝坊さん……へぇ。イタリア語もできるの」
「子ども向けの学習絵本で、絵の説明が何ヵ国語かで書いてあるようなものがあって、そこに出てきたんです」
父が納得する本はそういうものだった。
「小さい頃から勉強熱心だったんだ。俺も、百科事典や図鑑を見るのは好きだったな」
知的好奇心は強かったから、自分でも好んで図鑑や知識欲を満たす本を選ぶようになった。子ども向けの方が誤解のない表現で丁寧な説明がされていることも多い。捜査には意外なことが役に立つし、無駄にはならなかったと思う。
「好きな絵本でした。挨拶や日常的なシチュエーションを戯画的に紹介したものです。眠そうな兎のキャラクターが描いてあった」
「あなたのアルバムに写ってるぬいぐるみみたいな?」
その、ぬいぐるみは――いや、それよりも。
「アルバム?いつ見たんですか」
「そこにあるじゃん。暇な時に見てるよ。見ちゃ駄目だったの?まあ、それなら居ない時にこっそり見るけどね。あなただって俺の家で、本とか勝手に読んでるじゃない。きちんとファイリングされてて見やすいね。写真自体が少ないから、すぐ見終わっちゃったけど。あなたやっぱり赤ちゃんから顔立ちが変わってなくて、凄くかわいい」
悪びれない様子で、ドンシクはアルバムのある棚を指した。
「なぜ……見たんですか?」
「え?見たいから」
「見たいんですか?僕の写真を?」
素朴な疑問を発したら、ドンシクは驚いて目を丸くした。
「っは!さんざん人を観賞しといてよく言うよ」
少し元気が出てきたようだ。ジュウォンも目が覚めてきた。
「いえ、僕にそんなに興味はないのかと思ってました」
ドンシクは何でもありのまま受け入れるから、わざわざ過去を知りたいなんて思うとは。
「……あなた、俺を何だと思ってんの?」
呆れた顔をして、枕を挟んだまま距離を詰められる。困っていると言ったくせに、組み直しながら、まだ手は繋いだままだ。
「ドンシクさんは、僕の恋人です」
「まだ、あなたの側からだけの一方的な好意だとでも思ってるの?」
不満気にじっと見つめられ、さっき浮気を疑われたことも思い出す。
「好意と合意があるのは理解してますけど……わざわざ見たいですか?僕の何を?」
ドンシクはジュウォンを、ジュウォンが思っているよりずっと愛してくれている。そうでなければこんな朝を迎えることはないだろう。それはわかっているのだが、自分のドンシクへの執着に比べたら、興味が薄いのではないかと思っていたのだ。
「人生のワンシーンの積み重ねかな。あなたの史料とでも言えばいい?」
「ドンシクさんは僕の人生を見て、何が楽しいんですか?」
温かく優しい、豊かな家庭でユヨンと過ごしたドンシクの輝かしい子ども時代と比べて、ジュウォンの子ども時代なんて――
「はぁ?楽しいよ。面白いし。だから今だって見つめ合ってる」
即答されて、きょとんとしてしまう。
「……そうなんだ。そうなんですね」
「寝ぼけてんのか?あなたはじゃあ、どうして俺をリサーチするんだよ」
荒い口調に本気の度合いを示されて、徐々に、自分の失言を反省する。
とはいえ、こういうことで不満気にされるのは嬉しくもある。
「僕はあなたを知りたいからで……楽しいからじゃないです。写真を見るのは。むしろ切ないし、僕がいないのでちょっと嫉妬します。知れば今のあなたをより理解できるかなと思います。不思議に思っていることの遠因や要因が見つかるかもと……」
ユヨンやミンジョンの写真はともかく、問題はジョンジェやジフンだ。本当に仲良くしていたんだなと思える少年時代のものや、楽しそうで距離の近い写真は単純に羨ましい。
「まだ俺の捜査でもしてんの?あなたを好きになった動機でもお探しですか、ハン・ジュウォン警部補。不思議なことがあるなら俺に聞けって。いや、写真にしかない情報も、俺が自覚してないこともあるだろうから、見る意味はあるよ。あー違う違う!俺は見る意味がある側!あなたが変な質問を挟むから――楽しいって表現は違うな。興味深い?俺も大体同じだけどさ。俺と過ごしたいのは、楽しくて面白いからじゃないわけ?俺もそうだから、今一緒にいるんだけど。暇だからあなたに付き合ってあげてるとでも思ってる?」
「それでも別に、いいんですけど」
そもそも、叶わない恋だと思っていたし、恋愛どころか人付き合い自体が下手なのだ。
「はぁ〜……嘘つきだな相変わらず。欲張りで嫉妬深くて、わがまま坊っちゃんのくせに!俺がちょっとよそ見でもしようもんなら、このほっぺた膨らませて眉間にしわ寄せて、怒った顔するくせに!」
そう言うとドンシクは繋いでいた手を離し、ジュウォンの顔をこね始めた。
「ぅう、顔をこねるのは、やめてください」
嫌なのだが、無理矢理はがすほど抵抗したいわけではないし、ドンシクの力加減は度を超すものではなかった。自分はずいぶん、いい意味で変わったと思う。以前の自分なら、こんなことをされたら動揺して激怒して、手をはねのけていただろう。
反応が面白かったのか、ドンシクはちょっと笑ってから、抱き枕を二人の間に挟んでジュウォンの懐に潜り込んだ。
「……対等に思えないのは俺のせい?だったら、どうしたらそう思えるのか教えてよ」
「ドンシクさんのせいではないです。僕の――経験不足が原因ですから」
「ごめん。怒ってないよ。なんか悔しかっただけ。俺も、愛情を伝えるのは下手なんだろうね」
そうだろうか。触れられるようになってからは、不安は減って――それでも確かに、距離を感じる瞬間に急に不安が増すことはある。
「僕の失言でした。ごめんなさい」
「率直なところは好きだよ。俺は――恋人としても人としてもあなたを好きで、もっと知りたいし近付きたいと思ってるって――わかって」
要求ではなく、自省のようにトーンダウンしたドンシクを抱き寄せる。
「急におじさんぶったり、僕を赤ちゃんとか言わなきゃいいんじゃないですか?」
お互い最低限、大人の部分は特にぶつかっていない。双方、年の差ゆえの甘え方も醍醐味の一つだと思っていたが、ドンシクはそうでもないのだろうか。
「おじさんと赤ちゃんでも対等な関係にはなれるでしょ。わかんない。もういいや」
今日はドンシクの方が駄々をこねている。目を閉じてしまったから、やはり眠気はあるのかもしれない。
「僕たち……何の話してたんでしたっけ」
「ん〜?なんだっけ」
どこから脱線したんだろうか。
「ああ、兎です。ぬいぐるみ。兎の呼び名ですよ、Dormiglione」
頭は冴えてきたが、まだしばらくこうしていたい。このまま二人でDormiglione(怠け者)のまま、二度寝をするのも悪くない。
「あのうさちゃんがドルミリョーネさんか」
僕ちゃんだの俺ちゃんだのうさちゃんだの。ミンジョンの子守りで培われたのか、ことさらに幼児語で話したりはしないものの、そういう言い回しへの抵抗もない感じが器用だ。
「そうです」
「今じゃぬいぐるみに話しかけるタイプには思えないけど、そういう時代もあったんだね」
「友達いませんでしたから」
特に他意はなくそう返すと、ドンシクが笑った。
「勝手に話すのは好きだもんね。俺も全然人のこと言えない。ぬいぐるみがいなくたって独りで喋ってる。今はあなたがいるし、あなたには俺がいる」
「あなたは僕と違って、生まれる前から二人だったでしょう」
最愛の片割れを喪ったからこそ、今ここでジュウォンといてくれる気がするのだ。
「双子じゃなくたって、あなたも生まれるまではずっとお母さんといたんだよ」
「ああ……確かに」
雨脚が強まり、窓の外が暗くなる。灯りの点いていない部屋は薄暗く、ドンシクはジュウォンの腕の中で影に覆われている。
「で、兎はどんな友達?」
「兎の手――前足?を握っていたんです。夢の中で」
「現実にはおじさんの手を握りながらね」
ドンシクの顔の前にある手を見て、思い返す。
「すみません、痛かったですか?トイレと着替えは――」
「大丈夫。このままあなたの声を聞いてたら、また寝ちゃいそうだ。とりあえず洗面所まで行く?お寝坊さんのうさちゃんの代わりに、寝ぼけたおじさんと手を繋いでお散歩しましょうか」
そう言いながらも、起き上がろうとする気配はない。
髪に触れたら、心地好さそうに黙った。
「Dormiglioneと手を繋ぐ時は……楽しいお散歩の時間ではなかったかもしれない」
「悲しい時?」
両親が口論する声で、何度目が覚めたか知れない。二人が別れることは怖くなかったが、父だけになるのは嫌だった。
「……味方が欲しい時かな。小さい頃は寝付きが悪くて、お寝坊さんの兎となら眠れる気がした。目を閉じるまで見ていようとしたら母に、ジュウォニが眠れば安心して兎さんも眠ると言われて……寝かしつけられていました」
あの兎は、母が絵本の絵に似た兎を選んでくれたのだ。「男の子にぬいぐるみなんて」と、父は見る度に不快そうに睨んだ。
「シュレディンガーの猫の、眠り兎版だ」
「そうですね。そういうことです。母に言いくるめられていたことにも気付きましたが、安眠のためには効きました。父に捨てられてしまって、悲しかったのを覚えてる。しばらく眠れなくなった」
「ひどいな。取り上げられたの?」
「――そういう人でしたから」
少し前まではそういう仕打ちを思い出しては、父や自分の弱さを疎むだけだったが、今は、幼い自分を助けに行きたくなる。客観視できるようになった。心が安定して、成長した実感。
「あなたが彼みたいになれない人で、良かった」
父親のようになるのか、なれるよう努力しろと言われ続けたジュウォンの呪いを、ドンシクの穏やかな声と笑みが解いていく。
「忘れていました。兎のことなんて」
ぬいぐるみの感触を思い出しながら、ドンシクの手に触れる。
「俺といる間はよく眠れてる?」
「……ええ。おかげさまで」
ドンシクの額に唇で触れ、ジュウォンも微笑んで見せた。
「じゃあ今日は俺がドルミリョーネの代わりをするから、もうひと眠りしようか。あ、一旦トイレ行こうかな。ウリジュウォナ~おじさんねぇ、タオルで兎の耳、作れるんだよ。姪っ子のミンジョンに教わったんだぁ。ところで、ドルミリョーネは男の子?女の子?」
「――多分、オスです。ちょっと!また子ども扱いしてます?」
ドンシクは笑いながら、抗議するジュウォンの頬にわざとらしく音を立てキスを返し、のろのろとバスルームへ向かった。