木洩れ日 いつも、この二人の間にはあまり双方向の会話がない。煉獄が何事か話しかけ、それに冨岡が聞こえないような返事をする。それだけだ。だいたいは、煉獄が一方的に喋り、笑い、納得して終わっているように見える。だが、特に不都合はないようだし、任務のときなどは互いに絶妙な間合いで動くことができる。
しかし今日は、ただ二人で座って、黙ったままで時間が過ぎていっている。煉獄は珍しく無言で、冨岡はいつものごとく無口で、間に置かれた二つの湯呑みと、初夏の風が渡るさわさわとした音だけが、辺りを満たしている。
数日前の任務で、煉獄は鬼に首元を掴まれて喉をやられてしまい、声が出なくなってしまったのだ。こればかりは喉を休めて回復を待つよりほかないので、自宅でおとなしくしていた。隊士への指示が出せないので、任務も数日は休みだ。そこへ、冨岡が訪ねてきたというわけだ。
――調子はどうだ。
そう言われても、煉獄には返す言葉がない。ただ、縁側に腰掛けたまま、にこりと笑うのみだ。
――そうか。
それでなにがわかったのか、冨岡は一人納得した様子で横に腰を下ろしたのだった。
千寿郎が熱い焙じ茶と茶菓子を持ってきて、二人の間に置いていった。その茶を啜りながら、庭の木を眺める。大きく育った欅の木も、青々として柔らかな若葉を茂らせている。人が近づくとすぐに逃げてゆく椋鳥も、彼らがあまりに静かなせいか、ゆったりと草の間に餌を探している。
気配を感じて冨岡が顔を向けると、煉獄が彼をじっと見ていた。口元はいつもの笑みを湛えたまま閉じられているが、その目は雄弁だ。なぜ来たのかと、眩しい瞳で問いかける。
「……お前が、静養していると聞いたから」
その答えに、煉獄は納得できないというふうに首を傾げた。声は出ないが、無理のない程度に朝から鍛錬もしたし、食欲だっていつものようにある。わざわざ忙しい柱が出向くほどの事態ではないのだ。
少しの間、冨岡は無表情に相手を見た。それから、一度瞼を閉じた。
「お前の声が、出ないと言うから」
それだけ言って、また黙ってしまう。だが煉獄は、特に急かしもせずに待っていた。冨岡なりの間合いで話すことに慣れているのだろう。
金色の髪が、急に吹いた風で乱れた。それをかき上げて瞼を開くと、また宝石のような美しい眼差しが現れる。それを見てから、冨岡は再び口を開いた。
「いつも、俺は黙っていて、お前に察してもらうばかりで」
そこで言葉を切ってしまうものだから、煉獄はおかしそうに頬を緩める。
このままではいけないと、お前が話せないのをいい機会と思って、自分から話そうとやってきた。
そんなことを、長い時間をかけて、ぽつぽつと話した。煉獄は優しい笑みを浮かべて、それを聞いていた。
冨岡が話し終えると、煉獄はまた促すように首を小さく傾けて、視線を送る。
――では、君の話とやらを聞かせてくれ。
どこか愉しそうな、そんな眼差しだ。
冨岡はその蒼みがかった瞳を庭に向ける。
「一つ、お前が察することのない話をする」
煉獄は笑みを収めて、少し目を見開いた。椋鳥が、仲間を呼んで鳴き声を立てる。
「俺が話さなければ、お前には伝わらないだろうから」
そう言って、煉獄の方を向いた。そうしてまた口を開くまでに、長い間が空く。煉獄は大きな目を見開いたまま、何度か瞬きをした。
「お前と話すのが、好きだ」
それだけ告げた。あとは、言い終えたとばかりに唇を閉じてしまって、もう開ける気配もない。
煉獄はぽかんとしたように、そのままの姿勢で冨岡を見ていた。それからわずかに口を開いて……笑い出した。声は出さずに、だが肩まで震わせて笑っている。
冨岡はその様子にムッとしたふうで、眉根を寄せて視線を向ける。
もしほかにこれを見ている人間がいたら(たとえば宇髄とか胡蝶とか)、言いたいことはたくさんあっただろう。これだけ長い時間をかけて、言うことがそれなのか。そもそもいつものあれは、話していると言えるのか。
ようやく笑いを鎮めて、煉獄は顔を上げ、冨岡の肩を叩いた。
――そんなことは、前から知っているぞ。
柔らかい光を湛えたその瞳は、言葉がなくても十分に伝えてくれる。
「違う」
だが冨岡は、固い口調で否定する。そういう意味ではない、ということだ。
では、どんな意味だというのか。そこまで言わないから、言葉が足りぬといつも非難されているというのに。
「俺は」
再び言いかけるが、煉獄は小さく笑って、唇に人差し指をあてて見せた。口にするのが難しいのなら、言わなくていい、そう言うかのように。
欅の若葉が、風を孕んでさざめいた。薄く優しい緑色をした葉を通して注ぐ日差しは、いつもより優しく、柔らかい。煉獄の瞳に映る光は、それと似ていた。この光は、人を慈しむためにあるのだと。
冨岡の瞳が、静かに決意を灯した。二人の間に置かれた盆を脇へ押しやり、煉獄との距離を詰める。膝に置かれた煉獄の両手を取る。温かい手だった。それからそっと、その小さな唇に、口づけた。
彼の唇から、美しい眼差しから、笑みが消えたことを確認して、冨岡は唇を離した。煉獄の顔に驚きを見て取って、満足げな顔をした。
――こういうことだ。
そんな顔をして。
それを見た煉獄は、少し頰を赤らめた。微かな動揺を鎮めてから、意趣返しのように握られた手を握り返す。そしてもう一度、今度は彼の方から、接吻をした。
――だから、前から知っている。
挑むような表情で、冨岡を見た。冨岡は不本意そうな顔をしたが、それも続かなかった。
ふふ、と、どちらからともなく笑った。二人とも、互いの手を握ったまま笑う。その掌から、優しく触れる指先から、相手の想いが流れこんでくるかのようだ。
笑う二人に驚いた椋鳥たちは、鳴き声を立てて飛び立っていく。
煉獄の笑みには光が満ちていて、その髪も、肌も、瞳も、声を失くした口元も、そのままで、なに一つ欠けることがない。
言葉が出てこなくても、気の利いたこともできなくても。そう簡単に会うことが叶わなくても。この掌は、すべてをありのままで受け入れてくれている。
冨岡は、彼に眼差しを注いで、握った手を大切に包みこんだ。