酔っ払い二人「好きだ。愛してる」
そう熱く語る男の頬は赤くて、溢れる吐息は酒臭かった。酔っ払いである。赤ちゃんのくせに北の魔法使いに合わせて飲もうとなんてするからこうなるのだ。
その日はたまたまバーで顔を合わせて、なんとなく隣で酒を飲んでいた。親しげに肩を組んで歌うわけでも顔を寄せ合って秘密を共有するでもなく、ただ黙々と、時々ぽつりとなんてことのないことを話しながらひたすらに飲んでいた。オーエンが静かに飲むのが好きなことを知っているからわざとそうしていたのだろう。いつもは饒舌なくせに今日は大人しくそれでいて楽しげに飲む速度はとても速く、なんならオーエンよりも速くてこっちがムキになるくらいで、気が付けば二人とも浴びるほど飲んでいた。
閉店ですよと追い出される頃にはフラフラで足元も覚束なくて、歩いて帰るのが面倒だから魔法を使ったらうっかり隣にいたカインも連れて来てしまった。だからといって親切に部屋まで魔法で送り直してやるつもりはなかったので帰れよと冷たくあしらえば言われた相手は全くこっちを見ていなくて「おーえんのへやだ」と酔いが回って舌足らずな声で言いながら部屋をきょろきょろ見回していた。
「そうだよ。僕の部屋だから、帰れ」
「泊めてくれるのか。優しいなあ」
「おい聞けよ酔っ払い」
その後も何度も罵声を浴びせたがいつも以上にノーダメージで、そのうち面倒になったのでもう放っておくことにした。酒が入って眠いので一刻も早く寝たいのだ。床に喋る騎士様が転がっていても構わないからベッドで昼まで眠りたい。そして自分が起きる前に酔いを覚まして静かに退散しておいてほしい。
「オーエン、少し顔色が悪いんじゃないか」
「それ壁だよ」
適当に返事をしながらオーエンは寝る準備を始めた。酔ってはいたが自分の限界がわからないほど愚かでも若くもないので意識はしっかりしている。外套をソファに掛けてクロエお手製のパジャマに着替えようと白いスーツを脱ぐ。そういえばこいつ明日は任務じゃなかったのかなと思ったが心配してやる義理もないなと考え直して外套を抱き締めるカインを眺めながら歯を磨いた。
「ふふ、オーエンの匂いがする」
「ちゃんと洗濯してるから人聞き悪いこと言うな」
酒臭い赤ちゃんのくせにと言い返すとカインはようやく自分の話相手が壁だったことを理解したのか声のした方を振り返った。
「オーエン、そこにいたのか」
「ずっとここにいるけど」
「いつもと少し雰囲気違うな。前髪切ったか?」
「切ってない。寝るからパジャマに着替えた」
「よーし俺もパジャマに着替えよう」
「それパジャマじゃないし僕のだからやめろよ」
酔っ払いが唐突に自分の外套を履こうとしたのでオーエンはベッドから降りて乱暴に奪い返した。カインはそれでもやっぱり機嫌良さそうに笑っていて、まだ着替えるつもりなのか自分も服を脱ぎだした。脱いでは床に放り投げて散らかすのでイライラしながら魔法で部屋の隅っこに積み上げているうちにタンクトップとパンツだけの格好で身軽な酔っ払いに進化した。
「おい、魔法で触るのも嫌だからそれ以上脱ぐなよ」
「あれ、俺のパジャマ知らないか?」
「少なくともこの部屋にはないから」
「まあいっかー」
「いいのかよ」
もう駄目だこの酔っ払いを相手にしても時間の無駄だ。せっかくいい気持ちで寝られそうだったのにこの酔っ払い赤ちゃんのせいで台無しである。いっそ隣のオズの部屋に送りつけてやろうかと一瞬魔がさしたが明日気持ちよく昼まで寝たいからやめようと思いとどまる。そんな回りくどいことせずに本人の部屋に送り返せばいいことに思い至らない時点でオーエンも相当酔いが回っていたわけだがもちろんそんな事実に気付くことはない。
「もう僕は寝るから、散らかさずに静かにしてろよ。部屋荒らしたら殺すからな」
そう一方的に言いつけて部屋の明かりを魔法で消してベッドの中に潜り込む。目を閉じるとすぐに睡魔がやってきて、眠れないミスラは今日もどこかでイライラしているんだろうな可哀想にざまあみろといつものように胸の中で呟いて夢の世界へ旅立とうとする。
ぎしり。
ベッドが軋んだ音を立てたのはそんな時だった、せっかくいい気分で眠ろうとしていたのにと不機嫌を隠さず目を開けるとすぐそこにカインの顔があってギョッとした。これがミスラあたりなら迷わず魔法を放っているところだがこんな赤ちゃん相手にそんなことをしたら殺してしまうので思いとどまる。かわりに精一杯の苛立ちを込めて睨みつけるも酔っ払いには何も通じていなかった。
「なんだよ」
「好きだ。愛してる」
そして冒頭に戻る。は、という声は思ったより静かな部屋に響いたがそれで何が変わるというわけでもない。オーエンの顔の両脇に手をついて真上に覆い被さった姿勢でカインはもう一度同じ言葉を繰り返した。
「好きだ。オーエン」
「うるさい黙れ酔っ払い」
とりあえず素直な気持ちをぶつけてみたが相手は酔っ払いの上にいつも嫌味に晒されすぎて慣れてしまった可哀想な騎士様なのでいざという時全く効果をなしてくれない。賢者様の世界ではそういうのを狼少年というらしいが、やはりどう考えても狼に失礼すぎる。狼は何も悪くない。
「そもそもきみの目玉を奪ったのは誰?忘れたの?」
「覚えているさ。いつか絶対取り返す。でもそれとこれとは別だ」
おかしいだろ。別にしていい話じゃないって奪った本人が言うのもなんだが別にするには少々重すぎると思う。目玉を奪われたけど好きだなんてイカれている。まるで西の魔法使いだ。
「そもそも一体どこからそんな発想が出てきたの」
「誰かに恋するのに理由なんていらないだろ?」
「誰かによると思うけど」
愛も恋も知らないが、少なくとも自分はそんな対象になれるはずがない。それなのにこの酔っ払いはオーエンが何を言っても譲ろうとせず好きだ愛してるんだと駄々っ子のように繰り返した。だからもういい加減面倒くさくなってきて、魔法で眠らせてしまおうかと思ったあたりで酔っぱらいはとんでもないことを口にしたので一気に酔いも眠気も覚めた。
「疑うならこうしよう。明日、起きたらもう一度言うよ。愛してるって。約束する」
「……ばっ」
馬鹿なのか。ここまで馬鹿だったのか。簡単に約束なんかして、起きたらもう覚えているかも怪しいくせに。
もしも酔いが覚めて自分がただの人間になっていたらこの男はどんな顔をするのだろう。魔法使いでなければまた騎士になれると喜んでここを去るのだろうか。それとも己の愚かさを人並みに悔やんで涙するのだろうか。どちらもありそうで想像するだけで既に不快だった。魔法使いであることを簡単に投げ出すなんて許さない。逃がしはしない。眼窩に金色一つ残して綺麗ないなくなるなんて絶対に。
「そんな日が来たらお前を殺してやる」
目の前の顔に手を伸ばして呪いの言葉を吐く。ついでに頬を力一杯抓ってやると痛そうな声を上げたので少しだけ溜飲を下げた。そしてふと改めて考える。もしも本当に自分なんかを好きだというのなら、それこそ約束してもいいと思うくらい恋に酔っているのなら、なんて愚かで可哀想な男だろう。ただあの日北の国で出会ってしまったばかりに目玉と地位を奪われその上に恋まで奪われてしまうなんて。
「可哀想な騎士様」
ドラゴンを倒すでもお姫様を助けるでもなく酔っ払って悪い魔法使いに愛を囁くなんて。そんな絵本見たことがない。
「もしも今宵一晩の愛を許してくれるなら世界一幸せな騎士になれるよ」
「ふふ、何それ。起きたら絶対後悔するよ」
「後悔されたら悲しいな。でもその時はまた口説くさ」
会話が噛み合っていないのももう気にならない。どうせ部屋には帰せなくなったし、戯れの恋人ごっこに付き合ってやるのも悪くない気がした。やっぱり自分も相当酔っているのかもしれないと今更なことを考えて笑う。
「いいよ。やってみなよ。好きなだけ愛を囁いて、僕を笑わせてよ」
「ああ。任せてくれ」
まだ触れたままだった手に、すり、と頬擦りをしてカインが微笑む。この時のオーエンの考えていた『恋人ごっこ』は好きだと囁くイカれた遊びのつもりだったがカインが思い描いていた『恋人』はそんな生ぬるく可愛らしいものではなかった。口と口がくっついたあたりで何かおかしいなと思ったもののまだ確信は持てなくて、服を脱がされても酒のせいで暑いなら自分のを脱げばいいのに馬鹿なのかなと笑っていた。そのまま甘い手管に追い詰められて触れられて甘やかされて掻き回されて二人一緒に吐き出して、初めて自分の浅はかさを後悔したけどそれは一瞬だけのことで、気がつけば首に手を回して必死に縋るみたいに名前を呼んでいた。相手がカインでなかったら唇が触れた時点で殺していただろうということに自覚がなかったのはオーエンにとって幸せなことだったのか不幸なことだったのかはわからない。ただ全部が終わった時にはものすごく疲れていて、それでいて何故だかずっと足りなかった何かが埋まったような奇妙な心地がして、朝日に照らされながら裸の胸に顔を埋めて束の間の眠りについた。
頭が痛くて目が覚めた。飲み過ぎて二日酔いなのは認めよう。しかしこの頭痛の原因が寝ている頭上に降ってきたトランクであることは間違いない。
何があったんだこれ。カインは強制的に叩き起こされてまずそう思った。自分の部屋ではない場所。服を着ていない自分。いつもの白いスーツ姿でベッドの端に座って腕組みをしているオーエン。なんだこれ。本当になんなんだこれ。
昨夜何があったか思い出そうと試みるもバーでの出来事までしかうまく思い出せない。珍しくオーエンが一人で飲んでいて、チャンスだと思って隣に陣取って一人で会話して空回ったり同じ酒を頼んでみたり頑張っているうちに酔いが回ってきて、でもそんな時に限って珍しくオーエンが話題を振ってきたからつい切り上げるタイミングを見失ってしまったのだ。そうしてしこたま飲んで、酔って、今オーエンの部屋にいる。しかも裸で。記憶はないが感覚はある。状況証拠もある。これは絶対やらかした。どうしよう。合意だろうか。不安しかない。今日が命日かもしれない。
「あの、オーエン、俺」
「黙れ」
目の前に今しがた降ってきてばかりのトランクを構えられる。丸腰どころか全裸なのでこの距離でケルベロスをけしかけられたらひとたまりもない。思わず両手を上げて命乞いをしかけたところでオーエンが低い声で言った。
「……いえ」
「え、は、何を」
「あいしてるって言え」
それは脅しだった。どう考えても昨夜気持ちが通じ合った恋人の睦言などではなかったし、言わなければ間違いなく殺されると確信できた。昨夜はやはり合意ではなかったのだろう。それでもこれを強要されているのはつまり、責任を取れということだろうか。取らせてくれるなら喜んで取るのだがその前に謝罪は絶対必要だろう。そう思うのに今は「あいしてる」以外を口にしたら冗談抜きで殺される気しかしない。
「あ、愛してる。愛してるから!」
だから全く気持ちの篭っていない、過去最高に最低な告白を全裸でする羽目になってしまった。今までずっとどうやって伝えようか、どうすれば伝わるか何度も一生懸命真剣に考えたのに。たった一度の酒で全部台無しになってしまった。自業自得とはいえこれはあまりにも酷い。
「よし」
一人で落ち込むカインを無視してオーエンは何やらやり遂げた顔をしている。とりあえずこれからまず謝って場を仕切り直そうそして服も着ようと思ったのに、気が付いた時には一人自分の部屋にへたり込んでいた。最後に聞いた呪文がまだ耳に残っている。
どうしたらいいのだろう。謝らないといけないし、服も回収に行きたいのだが帰されたということは来るなということだろう。しかしそれならなぜあんなことを脅してまで言わせたのか。
全ては己の愚かさ故で、大きすぎる過ちに頭を抱えて蹲る。ここから恋人になれる道はまだ残されているだろうか。
酔って勝手に約束してしまうというとんでもないやらかしをカインが知らされるのはまだもう少し先のことで、両手いっぱいのケーキと花束を抱えて謝罪と告白に行ってもしばらく許してはもらえないことも、それどころか百年後、改めてプロポーズした時にまでこの夜のことを蒸し返して脅される羽目になることも今はまだ知らない。
「魔法使いでなくなったら速攻離婚して殺してやるから」
「そうだな。約束はこれが最後だ。オーエンを死ぬまで愛すると誓うよ」
「だから、そういうのをやめろって」
眉を吊り上げて怒るオーエンに抱き寄せてキスをする。そんな未来が来ることはまだ誰も知らないのである。