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ガーゼをあてた左胸の上から包帯でぐるぐると巻かれる。血が止まるのではと思うくらい一巻き一巻きが力強い。
潜入中に敵と交戦して裂傷した肩の傷の痛みにモクマは顔をしかめた。もう少し相手に踏み込まれていたら白刃はモクマの心臓を破っていたかもしれない。
刃が迫る瞬間、後ろに下がれなかった。自分の身体以上に傷つけられたくない大事なモノを背中に庇っていたからだ。
「あいちちち……もっと優しく手当てしてちょうだいよ」
目の前の相棒へ訴える。モクマの肩上で包帯を結んだチェズレイは、深いため息を吐き出した。柔らかい風がモクマの手の甲を撫でていく。
「こうして相棒の怪我を手当てしているだけで十分優しいと思いますがねェ」
救急セットを片付けながらチェズレイはぼやいた。その声も表情も固い。
モクマはそっと息を吐く。
怖がらせてしまったかと思った。チェズレイの目の前で傷を負うなんて、ミカグラ島でファントムからの銃弾を受けた時以来だ。
「簡単には死にゃあせんよ。なんたって、おじさんの心臓、ふたつあるもの」
「……どことどこにあると言うんです?」
「知りたい?」
モクマはチェズレイの白い手首を取って、血の気の薄く冷たい手のひらを自分の左胸へ押し付ける。
「ここと、」
とくんとくんと波打つ胸の鼓動はいつもより速く鐘を打っている。チェズレイの綺麗な手に触れているからだ。
そっと彼の目を覗きこむと、困惑と安堵と羞恥がないまぜになった複雑な色をしていた。
「そんで、ここにもある」
今度はチェズレイの右手を掬い取り、小指を絡め取った。
は、とチェズレイの息を吸う音が間近に聴こえる。
夕陽の海で指切りした時の表情を思い起こさせた。
「お前と道を同じくする約束を結んだ小指にゃ、お前と俺の絆の生命線がある」
モクマはチェズレイにとって命を狙う唯一のターゲットであり、彼が他人の命を脅かさないか側で見守らなければならない。
モクマの命を狙い続ける限り、チェズレイは他人を殺すことも、自分がモクマより先に死ぬことも許されない。
お互いの命を握り合う物騒な約束は、お互いが共に生きるための不器用な大義でもあった。
モクマの身体を力強く動かす心臓と生きがいを与える小指の約束。どちらもモクマにチェズレイと共にいるための力をくれる。
満ち足りた己の表情で伝わってほしいなとモクマはチェズレイへ笑いかけた。
「……フ、あなたって存外ロマンチストですよねェ」
チェズレイの瞳がたゆたう。それはまるで指切りしたときの穏やかなミカグラの海を写し取ったみたいに綺麗だった。
◆
ざくっざくっ……ざっ……
「はァっ!……は、………、ッ……!……はぁッ……!」
チェズレイは暗く灰色の道を進む。
膝下まで埋もれる雪を蹴り飛ばし、地と思われる固い地面を踏みしめ、腕を振り抜き、走る。走っているつもりだが、目の前の景色は一定で、ちっとも前へ進んでいる気がしなかった。
己の肺が押し出す白い息だけが荒ぶっている。
先程から心臓のあたりが痛い。
痛覚を遮断しているはずなのに幻視できるほど痛むのは、夜行列車でモクマに出逢ってしまったからだろうか。彼の目をみてしまってからというもの、チェズレイの心臓は収まりが悪い。
(はやく、はやく、タチアナ・バラノフの催眠を解かなければ……)
チェズレイは己の失態でふたつの命に刃を向けた。
ひとつはまもなく来る日に高所から死ぬ催眠をかけたタチアナの命。
そしてもう一つは、相棒と同道するための資格。
小指を結んでまで固く誓った不殺の約束を、たった一瞬の苛烈な殺意によって違えた。モクマとの絆の生命線を自らの過ちで断ち切ってしまった。
だから、全身全霊をかけて取り戻さなくてはならない。自分とモクマとを繋ぐ人生の心臓を。
今ならまだ間に合う。タチアナは死んでいない。理不尽に奪われようとしている彼女の命を助け、己の命をかけてシンジケートを制圧すれば、己の罪への禊を済ませたことになり得るだろうか。
「……う、…………ぁ……」
チェズレイの身体が雪原に沈んだ。ばふり、と白い雪が舞い上がる。文字通り目の前が真っ白になった。
「…………――」
身体が震える。
吹雪く寒さで身が凍る。
迫るモクマとの同道の終わりに身が竦む。
(モクマ、さ、ん――)
◆
暖炉の中でパチパチと火が爆ぜる。新たに薪を焚べると一瞬小さくなった火種が倍以上に大きくなった。
「ふう…………」
火の橙色に照らされてもなお蒼白い肢体の横にモクマは胡座をかいて座る。
未だ意識のないチェズレイの手首を取る。全神経を集中させてようやく微細な脈を感じ取れた。
これでも間に合ったというべきなのだろう。あと少しでも遅かったらと思うとぞっとする。手遅れになる前にその身を抱え上げることができて良かった。己の力と勘と欲に感謝した。
モクマはチェズレイの横にピタリと横並びに寝転んだ。暖炉の火だけでは心もとない。人肌で温める必要がある。
傷だらけの肉体に触れるのはヒビの入ったガラス細工を掴むようで恐ろしかった。だけど、今のモクマにとって最も恐ろしいのは、チェズレイの命の灯火が消えてしまうことだ。
モクマは彼の胸に耳をそっと寄せた。
手首よりも少しだけ力強い心臓の鼓動を感じ取れる。
よかった。生きている。
どうして自分の前から黙って消えてこんな無茶なことをしたのか。その理由に己と交わした不殺の誓いが関わってきていそうだが、モクマからしたら些末なことだ。
約束関係なく、チェズレイが生きて笑ってくれればいい。出来ることなら己の隣でずっと。
だから、この左胸に収まる心臓が止まることのないように、己の熱を必死に分け与える。
(チェズレイ――)