かわいいという概念及び定義について それは腹部を丸出しに寝転がる猫だった。
媚びるように胴体をしならせ、前足は揃えて右側に捻り後ろ足はぱっかりと開いていた。尾の先はくるりと弧を描いている。野生を忘れ人間に服従し糧を得る道を選んだ、憐れで無様な畜生の姿だった。一般的に猫は愛くるしい愛玩動物として認識されているようなのでこんなこと人前でわざわざ口に出したりしないが、茨の猫に対する印象はそんなものだった。
「……かわいいですね」
「ね、かわいいでしょう。学校に迷い込んだみたいで、クラスのみんなでたまに餌をやっているんです」
だからこそ、茨はふいに自分の口から飛び出た言葉が信じられなかった。かわいい?これが?どこが?
茨にとって、欠片も思っていないことをまるで心からの言葉のように語るのは日常茶飯事であった。もう一軒?是非ご一緒させて頂きます!いえいえとんでもございません、××さんのお話、学ばせていただくことが多く自分も勉強になっているんですよ。写真より実際にお会いした方が美しく見えるというのは本当のようですね!近くでお話すると緊張してしまいます、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。エトセトラエトセトラ。これで自分やEdenが動きやすくなるのであればなんてことはない。自分の本音などこの世界には不要で、自分がより上にいくために必要な言葉だけあれば良かった。話し相手を不快にさせないために適当に話を合わせて、お世辞を言って嘘をついて。そんなことは当たり前のことで、今この場においても、彼のためにかわいいなどという方便を使うことも当然であるはずだった。
「前にいばにゃんが犬をお世話しているって話を聞いたので犬派かなって思ってたんですけど。いばにゃんは猫もお好きですか?」
「そう、ですね、どちらかといえば犬の方を好ましく思っていますが」
「えへへ、どっちもかわいいのでどっちかなんて選べませんよね」
違う。犬が比較的好きだというのは、猫に比べて利便性に富み、賢く人間に従順だからである。猫が戦争で役に立つものか。
あっ、ごめんなさい。ぼくもう行かなきゃなんです。心底申し訳なさそうにペコペコと頭を下げながら、ついでに別れ際にひらひらと手を振って慌ただしくかけていった友人は、誰に聞いても文句無しに『かわいい』と称される存在である。
茨は長い間『かわいい』がわからなかった。子熊のぬいぐるみも色とりどりのキャンディも、リボンもピンクも幼子も、それらが世間的にかわいいと呼ばれる分類にカテゴライズされることは何となく察したものの、その感情を理解することは難しかった。
近年になってようやく、かわいいが理解できないという本音を語ることができる存在や『かわいい』と思える存在に出会うことができた。例えば先程まで話をしていた彼などは茨でも『かわいい』と感じることのできる存在だった。対象を好意的に捉えている上で、底なしの優しさや無垢さ、純粋さや懸命さを併せ持つ存在に対して湧き出るこの感情をおそらく『かわいい』というのだろう。だがその法則でいうと、やはり猫は『かわいい』には当てはまらないのである。あの猫が無垢か賢明かだなんて知るものか。
ちなみに先程の本音を零せる存在——まあ茨の恋人なのだが——彼女は何にでもかわいいと言う人物だったので、茨の中の『かわいい』の選定条件を更に難しくさせた。そんな彼女がテディベアを見ながらかわいいと呟いたとき、何がかわいいのか問いただしたことがある。
「いや熊って害獣ですよね?猫や兎といった小動物ならまだ理解できないこともないんですけど、熊がなぜかわいいんです?ワニやサメと同じ分類でしょうに」
「クマ、かわいくない?」
「全然『かわいく』ないと思いますけど」
余談だが、彼女は何にでもかわいいと言うので、ホームセンターで見かけたサメのぬいぐるみもワニが主人公の絵本もみなかわいいと言う。
「ふわふわだし、のしってしてるし、ハチミツ食べるし」
「大抵の動物には毛皮がありますし、その巨体でよく人間を襲ってますよ。ハチミツ好きってのはアニメのイメージで、実際はその幼虫の方が好きだと言いますし」
「うぎゅえ」
幼虫はかわいくないのだろうか。白くて小さくてぷにぷにでタンパク質が豊富なのに。
だが目を固くつむりながら耳を塞ぎ、いやいやとばかりにゆるく頭を振る彼女の様子は『かわいい』と思えた。視覚にしろ聴覚にしろ、人前でそのように周りからの情報を遮断するべきではない。額を弾かれようが頬をつねろうが口を塞がれようが、それが起きてしまうまで気付けないのだから。
「かわいくないでしょう?」
茨に対する警戒心をどこかにぽんと置き忘れてしまった彼女に何かしらの悪戯を仕掛けてやってもよかったが、今はそんな甘やかな時間を過ごすよりも彼女と話がしたかった。茨と彼女の価値観は生涯相容れないだろうが、茨はそれでも彼女の頭の中がどうなっているのかを知りたかった。
彼女がおそるおそる目を開けると、そこには得意気に笑う恋人がいた。どうだ、自分の考えの方が適正だろう。そう言いたげだった。
「うんうん、茨くんはかわいいねぇ」
「は?」
ふにゃりと笑いながら、まるで幼子にそうするように頭を撫でられる。今は熊の話をしていただろうが。そう言いかけて、飲み込んだ。彼女が自ら茨に触れてくるのは数少ない機会だったので、子供扱いに腹が立ちつつも、彼女の手を払い除けるのは少し勿体ないような気がしたのだ。
『かわいい』が無垢で無邪気で懸命な存在に与えられる称号ならば、茨をそう呼ぶのは不適切だと感じた。自分は『かわいい』とは正反対の生き物である。彼女が忌み嫌うものも糧とし、自分が生き抜くためなら人も襲う。そんな生き物のどこが『かわいい』のか。
数日経ってから、茨はあのときの会話は双方のイメージする『熊』が違うものだったために会話が噛み合わなかったのでは、と思い直した。茨が頭に思い描いた熊は野生を生きる熊そのものであり、彼女が思い浮かべたクマとはぬいぐるみやアニメキャラクターといったデフォルメされたものだと。彼女がかわいいというクマは、本来あるべき鋭い爪も脅威的な攻撃性も削ぎ落とされた、大人しく従順な架空の生き物である。受け入れ難い部分に蓋をして見ているのだから、そりゃあ熊だって『かわいく』みえるはずである。
そのことをわざわざ彼女に指摘して再度議論を展開したりなどということはしなかったけれど、結局のところ彼女が指すかわいいとはそういうものだと己の中で折り合いをつけた。
「只今帰りました」
電気はついているものの返事はなかった。玄関には彼女の愛用するパンプスが綺麗に揃えられている。入浴中だろうか。彼女は起きてさえいれば自分の帰宅時には律儀に玄関まで出迎えてきてくれる。今朝確認した公開スケジュールでは珍しく夕方には退社できるようだったので、こちらも合わせて早めに仕事を切り上げたのだが。
同棲を初めてから早数ヶ月。自分に劣らず仕事漬けの生活を送っていた彼女だったが、最近は帰宅時間を早めてくれているようである。もちろん彼女の仕事量に変わりはないので、家でもできる仕事は持ち帰るようになったというだけの話だが。
彼女がこの家で待っていてくれる。ESにいればいつだって誰かしらに囲まれている彼女が、自分のいない広い空間にひとりきりで、それでも健気に待ち続けてくれる。そう思うだけで、胸のあたりが弾け飛びそうなほどに嬉しい。
「あんずさん?」
彼女の居場所はすぐに分かった。リビングに置いた低いソファの上で横になって、すやすやと寝息を立てていた。すぐ側のローテーブルには開いたままのノートパソコンが置かれている。大方、ここで雑務を片す中で寝落ちしてしまったのだろう。彼女には仕事用に個室を用意しているが、あまりそこで仕事をしている様子はなかった。いじらしいものである。
「起きてくださらないんですか」
この言葉はただの確認だった。可能性は低いが万が一彼女が狸寝入りをしていようと、このようなセリフを吐けば心優しい彼女は即座に飛び起きてこちらを子供のようによーしよしよしとあやしてくれるだろう。彼女が未だに目を閉じたままだということは、本当に自分の帰宅に気が付かないほどに深く寝入っているのだろう。とりあえず寝顔をスマホに収めた上で、改めて彼女の姿をまじまじ眺めて楽しむことにした。コートと鞄が邪魔だが、部屋に置いてくる間に彼女が目覚めてしまったらしばらく落ち込みそうなので我慢しよう。
彼女の右手はぐにゃんと頭上に伸ばされ、左手は腹の上に添えられている。着ているTシャツの裾が大きく捲れ、へそもくびれも丸見えである。足はひねられ、片足はソファの座面から落ちてしまっている。一緒に暮らし始めてから知ったことだが、彼女は思いの外寝相が悪かった。というより、子供のようだった。一人で寝ているときは布団はしょっちゅう蹴飛ばすし、ダブルベッドの上をゴロンゴロンと縦横無尽に転がりまわる。自分が後からベッドに入るときには、そんな彼女を拘束して——もとい抱きすくめて寝ている。
呑気なものである。二人の家なのだから借りてきた猫のように大人しくされるのも不本意だが、それにしたってこんなにも無防備に、急所を曝け出すような——。
ふと、数時間前に見た猫を思い出した。間の抜けた寝姿を晒す猫。
ああ、なるほど?だからあれを『かわいい』と思えたのか。己の中に小動物を愛でるような殊勝な心持ちが芽生えていた、なんてことがなくて本当に良かった。
「あんずさ〜ん!!起きてください、そんなみっともない格好で寝てたらお腹冷やしますよ!」
大声を出しながらへそのあたりを鷲掴めば、彼女は「びえい!?」と奇声をあげながら飛び起きた。半開きの目をぱちぱちと瞬かせて。口元から涎が一筋垂れている。本当に子供みたいに寝る人である。
「あれ、茨くん?おはよう、おかえり」
ふにゃりと笑うその表情に、口元が緩むのが自分でもわかった。
「ねえあんずさん、俺、猫って全然『かわいく』ないなってずっと思ってたんですけど」
「え、そう?茨くんみたいでかわいいよ」
いやどこがだよ。例えあんずさんの前だろうが、あんな無様を晒したことはないだろうが。やはり彼女と自分の『かわいい』の基準は、永遠に相容れることはないのだろう。
後日。リビングでテレビの番組をBGMにしながら、それぞれパソコンなり資料なりに目を通しながら作業をしていた夜。
「……あ、クマだ」
その言葉に、思わず顔をあげた。彼女はこの年になっても教育番組にのめり込めるような感性をお持ちなので、どうせアニメだかのキャラクターだろう。そう思っていたものの、目に入ったのはアスファルトの上をのしのしと歩く熊そのものだった。
「熊ですね」
よくあるニュースだ。どっかの田舎で、山から熊が降りてきて住宅街を闊歩しうんぬんかんぬん。被害者は出ていないようだが、民家の塀につかまり立ちしている姿は例え映像越しだろうと恐怖を感じさせる。どれだけ知性と肉体を鍛えようが、熊を前にした時丸腰の人間は無力だろう。熊と対峙した経験はないが。
「あんずさんは熊、怖くないんですか」
彼女はこちらを見て、大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。可愛らしい。このような小さく無垢で無力で愛らしい様を『かわいい』というのだ。きっと。少なくとも、放っておけばそのうち人を襲って食い殺してしまう可能性のある野生動物はそれに当てはまらない。
「そうだねえ。確かにクマとばったり出くわしたら怖いと思うよ。襲われる、食べられるって思うかも」
この人の好きなところは、メルヘンだろうが幼女趣味だろうが、決して現実から目を背けているわけではないところである。平和ボケしてそうな顔ばかりしているが、目の前に現れる危険な存在の危険性を決して無視しないところ。
「でもね、だからって、クマのかわいいところがなくなるわけではないんだよ」
それでもあんずさんは『かわいい』から、自分みたいなクソ野郎にもかわいいなんて言ってしまえるのだ。