Call me つんと唇を尖らせていてもなお、その横顔は彫刻のように美しかった。足を組みながら爪先のコンディションを確認しているらしい彼はこちらを見ようともしない。随分と絵になる姿だったものだからパシャリと一枚ポートレートを撮影してファンの皆さんにも見てもらいたいという気持ちがむくむく育ったが、今の不機嫌な彼には火に油だろうとどうにか飲み下した。
「巴さん」
彼の名を再び呼ぶ。やはり先程声をかけたときと同じように、彼が反応を示すことはない。つまらなさげに、手をくるくると捻りながらゆるやかな曲線を描く爪先だけを見ていた。気付かれないよう小さく嘆息を零す。どうにかしてほしい、という願いを込めて隣のソファに縮こまる漣くんに目線を送ったが、彼はゆるゆると首を振るだけだった。あんたが折れた方が早いですよぉ、こうなったおひいさんは強情なんで。どこか呆れたように語るその表情は面倒だからさっさとあんたが収めてくれと示すようにも見える。
「……日和さん」
その名を、これまでとは異なる彼の名を呼べば、知らん顔を続けていた瞳はようやくこちらを向き「なあに、あんずちゃん」と美しく笑ってみせた。顛末に一切口を挟まずただ隣で見ていただけの頼りにならない漣くんは溜め込んでいたらしい息を大きく吐き出す。私だってひりついたこの部屋の空気を全部吹き飛ばすみたいに大きく溜息をついてしまいたかった。
「まったく意地っ張りだよね! このままこの部屋で干からびちゃうのかと思ったね」
悪い日和。一切の無視を決め込んでいた先程までの態度とは打って変わって、インタビューにでも答えるように気さくに笑いながら身体をこちらへ向ける。
「干からびる前に飽きちゃうでしょう」
「きみの意地にぼくがいつまでも付き合ってあげる義理もないけどね、それだとぼくが妥協したみたいで嫌だね」
私の意地に付き合っていただいていたらしい。彼はやれやれとこちらに手を差し出すので、用意してきた書類を手渡す。この数枚の紙に目を通してサインを貰うだけのことに十数分近くかかってしまった。
巴さんはぺらぺらと速いペースで書類をめくった後、最後の署名欄に滑るようにしてその名を書き連ねる。それから隣に座っていた漣くんにも書類とペンを手渡す。彼は流し読みなどせずに——速読が苦手なだけかもしれない——書類の一枚一枚にじっくりと目を通しながら読み進めていった。その間にこんなにも時間を浪費させた彼に文句のひとつくらい零したってバチは当たらないだろう。署名さえもらえればもうこっちのものだ。
「私、Edenの皆さんとは適切な距離を保つように七種くんに言われているんですが」
「毒蛇の言葉とぼくの言葉、どちらを優先するべきかわからないほどきみが愚かだったとは知らなかったね」
「……七種くんだけじゃなくて、かなりいろんな人からも言われるんです。コズプロとかESの上層部からも」
ふうん、と興味なさげな彼はこちらの事情など知ったことではないとでもいうふうだ。非常に厄介。
「——終わりましたよぉ」
横からおずおずと口を挟んだのは署名を終えたらしい漣くんだった。丁寧に書類の並び順を直してからクリアファイルに戻してくれている。
「書類、預かります。ご協力ありがとうございました」
漣くんのソファの方に寄って、片手で差し出されたそれを両手で掴む。
「漣くん……と、巴さんも」
意趣返しのつもりでそう付け足せば、呼ばれた当人はぐいと眉を吊り上げた。漣くんの表情が余計なことをするなとばかりに歪む。ぷりぷり怒る巴さんの相手は大変だろうけど、きっと慣れてると思うので頑張ってほしい。さっきは一切助け舟を出してくれなかったんだから。
そうしてさっさと書類を受け取って退散してしたおうとしたとき、巴さんは見事な腹式呼吸で部屋いっぱいによく通る大声を響かせた。
「ジュンくん!! 渡しちゃダメだね!!」
「え、あ、うす!!」
掴みかけたクリアファイルはするりと私の手を抜け出し天井近くまで持ち上げられた。私と漣くんの身長差は十センチ以上、腕の長さの差まで足せば背伸びしたって届かない。
「か、返して」
「わざわざ煽ったあんたが悪いんじゃないっすか……」
指先までぴんと伸ばしても書類に触れることすら叶わず、悪戦苦闘する間に巴さんは部屋を回り込んで私の背後へと立つ。
「あんずちゃん」
「ひぃ」
書類に向けて伸ばした右手と、バランスをとるために漣くんの腕に添えていた左手の手首をそれぞれ掴まれる。漣くんはクリアファイルを大事そうに抱えてそそくさと離れていった。
「もう一度言ってごらん?」
「ひ、ひよりさん」
「違うね。ぼくは今の言葉をもう一度繰り返すよう言ったんだけどね」
突然、ワントーン低い声。苛立ちを直接耳に流し込まれる。手首の骨と骨の間を狙うように指先がぐりと埋められた。いた、くはないけれどなんとも言えぬ不快感に襲われる。
「巴さん……?」
「そう。ちゃんと言えたね」
良い子。撫でるようにすりすりと親指で手首をなぞられる。あれほど下の名前で呼ばせようとしていたこの人の意図が全く読めなかった。頭が白く染まる。
「じゃあ次。これからはぼくのことをなんと呼べば良いと思う?」
「……と、」
「ん?」
頭文字を口にすれば片手で口元を鷲掴みにされた。長い指先が顎の付け根にくい込んで、人差し指は責め立てるように唇の端をつついた。
自ら選ばされている。この人が我儘を言うから仕方なく、などという言い訳さえ奪われて、私自身がその名を呼ぶように誘導されている。漣くんはもはやこちらを見ておらず、背を向けてスマホをいじっていた。薄情、ではないかもしれないけれど私が相手のときに限ってこの人の暴挙を見て見ぬ振りをするのはちょっと酷いんじゃないだろうか。
とも、と再びその姓を紡ごうとすれば両手に込められる力が強まった。姫君と称されるこの人もまた、私では到底敵わない腕力を持ち合わせている。
「ひより、さん」
文字通りに両手を上げながら呼ぶべきではない彼の名を呼べば、巴さんは満足したようににっこり笑って拘束を解いた。いけしゃあしゃあと「大丈夫ですかぁ」なんて言いながらようやくクリアファイルを寄越した漣くんからそれを受け取る。痛む顎を擦りながら元のソファに腰を落ち着ける巴さんを睨めればそれすらも愉快というように微笑んでみせた。出入口の近く、厄介な位置にいることを恨む。
「七種くんに言いつけますよ」
「本当はぼく、呼ばれ方なんてなんでもいいんだけどね」
また手慰みに爪先を撫でる。脈絡のない発言は、私の言葉も七種くんの意見も意に介さないと言外に匂わすようだった。切るカードを間違えたらしい。
「でもきみがそうやってぼくの言葉を軽んずるのは許さないね」
軽んじているわけでは。そこまで言って口を噤んだ。彼の言うとおり、私はESで彼の言葉より優先しなければならないものがたくさんあって、現状その通りに優先順位をつけていることは事実だ。
「日和さん。ほら、呼んでみて」
漣くんへ視線をやる。後ろを向いた状態でソファに丸まってわざわざイヤホンまでつけていた。今この部屋は完全に、巴さんのためだけの空間だった。
「……日和さん」
そう口にすれば、彼は満足そうに笑む。
「そうそう、そんなふうにぼくの重みを十全に感じているといいね」
「重たいのですが」
「それを味わえることをきみは光栄に思うべきだね」
すっかり機嫌の直ったらしい巴さんはもう行っていいよと手を振るので、書類を抱え直して失礼しますと一礼する。感謝の気持ちはあんまり込められていない、形式上のやつ。
そうしてさっさと退室してしまおうと思って部屋のドアを開けたけれど、ドアを締め切る直前にまた「あんずちゃん」と声がかかる。中に戻るのが癪で、数十センチだけ開けたドアの隙間から顔だけ覗かせる。元のソファに腰掛けた巴さんは足を組んで傲然と微笑んでいた。
「もう一度」
簡潔な指示で再度名を呼ぶように言われる。無視してしまおうか、それとも素直に呼ぶべきか。このまま何も言わず去ったら次会ったときが面倒だけれど、彼の言いなりになってばかりでは今後人のいる場所でも同じことを要求される可能性もある。考え込む私を漣くんがじっとりと見ていた。
扉から一歩下がる。咎めるように巴さんの目が細められたので、無視するつもりはありませんよと伝えるようにおもむろに唇を開いた。
「……巴さん」
巴さんがソファから弾かれたように駆け出したのと私が勢いよくドアを閉めたのはほとんど同時だった。クリアファイルを胸に抱えて廊下を走る。背後ではガチャンと大きな音を立てて閉めたばかりの扉が乱暴に開かれていた。Eveの二人がいた小会議室はエレベーターホールと一直線上の位置にある。次の予定はつい先程必要な全員分が集まった署名をES運営委員会長——つまりは天祥院先輩に提出するというものである。提出のついでに彼の暴虐な振る舞いをご報告、もといチクってやろう。このままスタプロの事務所まで逃げ切れば私の勝ちである。幸運なことに一機のエレベーターが扉を開けたまま待機していたので、駆け込んで閉ボタンを連打する。一面にクッションタイルの敷かれた廊下でも日和さんの革靴が地面を蹴る音は大きく響く。
のろのろと閉まるエレベータードア。その隙間に突如、勢いよく細い腕が差し込まれた。考える暇もなく反射的に『開』のボタンを押してしまったのは仕方がないことだと思う。
「ちょっと生意気が過ぎるよね」
開く扉と、それに伴って現れる巴さんの容貌。すかさず閉ボタンを押そうと思ったけれど、その前に利き腕をがしりと掴まれた。
「ひ、日和さん」
「今更遅いね」
ささやかな抵抗も虚しく腕を引かれ、ずるずるとフロアまで引きずり出される。背後で乗員を失ったエレベーターがゆっくりと扉を閉めた。