ニュームーンニュームーン
いつだったかは、わすれちゃった。でも、たぶん、俺がことばをてばなしたまんま、まだそれをとりもどせていなかった、そんないつかのよるだった。
新月のよるだったのかもしれないし、たまたま月のみえないむきだったのかもしれない。ともかく、そのよるはシャイロックのいえのまどから月がみえなかった。それだけはたしかだった。
俺はちぎれたカーテンのすきまから西のそらをみていた。あおい星がぱちぱちとまたたいて、俺のひとみとおどるのをみていた。こうこうともえる星。いつかだれかのなまえをつけた星。わけもなくうれしくて、ベッドのうえでくるくるまわった。こんばんは、あたらしいともだち。ようこそ、ふるいともだち。俺はうなりごえをあげてあいさつをした。俺が「ともだち」ということばをとりもどすまえから、星たちはともだちだった。
しばらくして、シャイロックがやってきた。かれもまた、星とおなじように、俺がことばをとりもどすまえからのともだちだった。すくなくとも俺にとっては。かれが知ればたぶんおどろくだろうが、俺はかれのことをわすれたことはなかった。だって、すべてうしなっても、かれはかわらずそこにあるんだからね。
シャイロックはねるじゅんびをすませて、俺におやすみのあいさつをおくりにきたらしい。むかしは俺がかれのもとにむかうことのほうがだんぜんおおかったから、こういうのはあべこべで、おもしろい。
でも、このよるはそれだけじゃなかった。
それは、俺がカーテンをためしにきりさいちゃってたから。しめきりのカーテンがぼろぼろになっちゃってたから。カーテンのすきまから、いまにもこぼれそうなほどきらきらなよぞらがみえちゃってたから。
へやにはいったシャイロックは、ぎょっとしたかおをして、ほんのすこしのあいだぼんやりしていた。そのむねにはちらちらとあかくてあおいほのおがみえた。めにはこころというこころをうずまかせていた。ぐつぐつなんでもつっこんだなべみたいに、いまシャイロックは混沌としていた。ああ、かわいそうなシャイロック! そのマーブルもようをしたこころのいろが、あまりにもかわいくて、おれはごきげんにベッドをころげまわる。
ぐちゃぐちゃのシャイロックは、ふっと、いきをはきながらわらう。なにかをしずめるようにめをとじて、それからひらいて、またわらう。こんどはいつものペースにもどそうとこころにきめたときのわらいかただ。でも、じつはそんなにもどってない。呪文をとなえて、まどのむこうのすてきな夜空をみもせずに、あっという間にカーテンをもどしてしまったから。
「カーテンはぼろぼろにしてはいけませんよ。……といっても、言葉も通じないのに、こう叱るまで時間が経ってしまっては、あなたもどうして叱られているかわからないでしょうが」
たしなめるような、こまったようなそのこえは、ふだんよりもしずんでいて、そのくせはずんでいた。
いまならわかる。かれはあのとき、くやしくて、うれしかったのだ。たぶん。じごくのほのおにやかれながら、どうじにてんにものぼるようなきもちだったのだ。たぶん。でもそのうちちょっぴりくやしさがつよくて、ほしぞらがみられなかったのだ。たぶん。
でもほんとうのこたえはわからないだろう。きいたって、いや、きけばこそ、かれはいこじになってこころをかくしてしまうから。
「わずかでも期待した私が愚かでしたね。意識の戻ったあなたが、月を見ようと思わないなんて。何もかも忘れて失っても、月への恋心だけは忘れていないなんて、とびきりの破滅男だな。憎らしいひと」
俺がこのときことばをとりもどしていたのなら、どんなにおもしろかったことか!
しめたカーテンをせに、シャイロックはあゆみよって、俺のてくびをつかんだ。そのくせなんども離そうとした。俺のてくびをつかんだじぶんのてをみて、なんどもなんどもちからをゆるめたりこめたりして、やわらかくためいきをついた。そのたびにかれのながい髪がゆれた。
シャイロックは、俺をつかまえたままだまりこんでいた。かなしく、だまりこんでいた。ないてはいなかった。おこってもいなかった。ものをかんがえているふうだったけど、それはうそで、ほんとはなんにもかんがえちゃいなかった。そのかわりに、なにかをはかっていた。シャイロックはむかしから、そういうのがうまかった。
だから、ぐりぐりとあたまをシャイロックのむねにつけて、俺はくすくすわらう。
ここにいるよ。俺はここにいるよ。
どうして俺がそんなことをしたのか、いまとなってはわからない。なんだかちょっぴりかなしそうにだまりこんでるシャイロックに、なにかしたかったのかもしれない。でもね、たぶんげんきづけたかったとか、俺にかまってほしかったからとか、そういうのじゃなかったとおもう。
ただ、いっしゅんだけ、ぜんぜんけんとうちがいの、とおいほうをながめてるシャイロックがおもしろくなかったのかもしれない。きほんてきに、かれはとってもおもしろいけれど、たまに、ほんのいっしゅん、おもしろくなくなることがあって、それがあんまりつまらないから、ひきもどそうとしたのかもしれない。
ねえ、つれてかれてるのは、どっち。
くすくす、くすくす、とわらいつづけていたら、シャイロックはこまったみたいにほほえんだ。俺からてをはなし、やさしくなでてくれた。そう、ねこにするみたいに。なでなで。
もうそのときには、シャイロックはなにかふっきれたようなかおをしていた。かれのなかにいまさっき組まれた物語を、俺はしってみたかった。でも、秘密主義なかれは、ひとまえでそれをもらすなんてうかつなことはなかなかやらないから、そうそうしれっこないだろう。
シャイロックはなにかをいいながら俺をベッドに横たわらせた。いい子ですね。そろそろねむくなってきたでしょう。たぶんそういってたんだとおもう。ふわふわのブランケットをやさしくかけ、もうとっくのむかしにうたわれなくなったふるいうたをくちずさみながら、かれは俺をみつめていた。
俺はうれしくて、たのしくて、シャイロックのふるいうたにあわせてからだをゆらし、ことばにすらなっていないこえをあげる。
だったのに、シャイロックは俺のようすにおどろいたのか、いきなりうたうのをやめてしまった。
「あなた、おぼえているんですか、この唄」
シャイロックの言ったことはよくわからなかった。そんなことはどうでもよかった。俺はうたがとつぜんとまったから、かなしくなって、ぼろぼろ泣いたきがする。それでシャイロックにさんざんあやされ、なぐさめられたようなきがする。あんまり、おぼえてないけど。
月のないよるは、そうやっていつかのよるをおもいだす。
でもきっとこんなこと、ちょっときをぬいたら、すぐにわすれちゃうんだろう。
だってこれはつごうのわるいことだから。おれはきっとわすれちゃうんだろう。いや、わすれたことにしておくんだろう。そとからも、うちからも、わからないようにきっちりとかぎをかけて、きれいさっぱり、俺はわすれたことにしておくんだろう。
そう。これはだれかにとって、つごうのわるいことだから。