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    るぅな

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    るぅな

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    6/27 カクイザWEBオンリー横浜失楽園に合わせてネットプリントで公開していた小説の再録です。

    ##カクイザ

    昆虫採集の夏 学校の理科室ではじめてそれを見たとき、不思議な高揚感があったことを覚えている。
     古びた額縁の中で、体をピンで刺され磔にされた無数の蝶。美しい姿のままどこへも行けずに、作品の中に封じ込められたそれらは、生死の概念すら超越しているように感じられた。
     あれはただの死骸ではなく、死に向かう生を切り取ってこの世界に留めている。
     瞬間と永遠。
     真逆の意味を持つ二つの言葉が鮮烈なイメージとなって脳内に広がる。
    『蝶は不滅の象徴だから、死に損ないのオマエにぴったりだな』
    『ショウチョウ?』
     呪いのような自分の名前を好意的に捉えられるようになったのはあのときのイザナの言葉があったからだ。
    『たとえこれからどんな窮地に立たされても、オマエは何度でも何度でも死の淵から生還を果たし、王のもとへ帰還せよ』
     舞台のワンシーンのように大袈裟な語り口調で台詞のような言葉を吐き、王という役割を演じるとき、イザナはいつだって優しい顔をしている。
     あのときはうまく理解できなかった《象徴》の意味を、いま、ようやく理解できた気がした。
     王とはきっと、救いの象徴だ。
     もしかすると、イザナ自身が救いの象徴なのかもしれない。
     そう思えるくらいにはオレはイザナの存在に救われていたし、現在進行形で救われ続けている。
     そんなことをイザナ本人に言えば「全然違う」と機嫌を損ねて、一日中ぴりぴりとした空気の中で理不尽な命令を受けるはめになるだろうから、これは心の中だけに留めておくことにした。
     かっこいい言葉や強い言葉が好きなイザナは《救い》なんて言葉じゃ満足しない。
     《孤高の王》
     全ての人の上に立ち、あまねく有象無象を恐怖で支配し尽くし、誰よりも自分が特別であろうとするイザナはきっと、そんな言葉を望むだろう。頭の中で二つの漢字を思い浮かべてみたら、鋭さを感じる文字の雰囲気もどことなくイザナが好みそうだと感じた。
     けれど、一番イザナの近くにいるオレ自身が、こんなにもイザナを好きで、全く恐怖なんて感じていないのだから、それで孤高というのは少し無理がある。
     《救済の王》
     これならばどうだろうか?
     少しはイザナも気にいってくれるだろうか?
    「……ねぇ、……ねぇ、聞こえてる?」
    「え……」
     ひやりとした何かに触れられ、唐突に意識は現実へと引き戻される。後ろから肩を揺さぶられるたび空想の世界は撹拌されて徐々に輪郭を失っていく。
     オレが蝶の標本に見惚れイザナに思いを馳せているあいだに、いつの間にか理科の授業は終わってしまったらしい。
    「一緒に教室に戻ろう?」
     声をかけてきたのは同じ班の女子だった。
     もともとが世話好きなのか、それとも施設育ちのオレに同情しているのか、彼女は何かにつけてオレに話しかけてくる。そのせいもあって彼女とは比較的よく会話をしているような気がする。もちろん、学校内にいるときに限っての話だ。
    「うん」
     耐火素材の黒い机の上に並べていた教科書やノート、箱に入った今日配布されたばかりの工作キットを一纏めにして席を立つ。
     ところどころ削れて角の取れた木製の椅子を二つ机の上にひっくり返して置き、用途不明の鉄板やモーター類のせいでやたらと重い工作キットの箱を二つ重ねて持つと、背後から「え、」と驚くような声が聞こえた。
    「持ってくれるの?」
    「嫌、だった……?」
     習慣的に二人分の荷物を持ってしまったものの、他人が勝手に持ち物に触れることは普通ならば好ましくないことなのかもしれない。オレの生活の基準はイザナだから、普通というのがいまいちよくわからない。
     彼女は首をぶんぶんと左右に振ってから「全然嫌じゃない、ありがとう」と言っていたため、おそらくは大丈夫なのだろうが、果たしてこの行動で正解だったのだろうか?
     自分たちの教室に戻る道すがら、思い出したことを彼女に質問してみた。考えてみれば、彼女に対して自分から話題を振ったのはこれがはじめてだったかもしれない。
    「そういえば、さっき、手冷たかったけど大丈夫?」
     肩に触れられたとき、彼女の手は冷たかった。イザナとはまるで違う生き物のようだと思った。
     最近のイザナはいかにも低血圧で低体温、脈拍すらきちんとあるかどうか疑わしいようなふわふわした雰囲気を漂わせているものの、あれでいて普段は体温が高めで、少しでも許容範囲外まで体温が下がるとすぐに不調を訴える。
    「そうかな……。ほんとだ、冷たいかも。なんだろう、天気のせいかな、気圧とか」
    「気圧?」
     思いがけない単語を思いがけない場所で聞き、驚いて彼女の顔を覗き込むと彼女は自分の体温を確かめるかのように両手を頬にあてていた。色白な彼女の頬は傍目から見ても体温が高くなっているのがわかるくらい紅潮している。反対に手は真っ白なままだ。イザナは全身が陽だまりのように温かいけれど、体のどこか一部分の温度だけが変動する人間もいるらしい。
    「なんで笑ってるの?」
     笑っている?
     オレが?
     学校で?
     指摘されるまでそんな事実にすら気付いてすらいなかった。
     確かに、人のことは気にするわりに自分に関することとなると途端に鈍感になる。これは以前イザナにも指摘されたことだった。
     早く下校の時間にならないだろうか。
     今日はイザナに話したいことがたくさんある。
     イザナはまだ眠っているだろうか。最近のイザナは夜になるたびに集会というものに出かけて行くせいで、昼近くまで寝ていることが多かった。不調の原因もおそらくはそのへんにあるのだろう。
     早くイザナに会いたい。
    「笑ってる顔見るの、はじめて」
     彼女は何か言葉を発していたが、意識の八割以上を占めるイザナに対する感情が膜のようになって、彼女からの情報を遮断していた。残りの二割の意識が向けられた先はといえば、廊下の突き当りの部屋から出てきたばかりの配膳台。その上に積まれているバットから漂う鼻腔をくすぐる美味しそうな香り。教室に戻れば給食の時間だ。今日のメニューはなんだっただろうか。
     

       2

     学校から帰宅するとオレは真っ先にイザナを探した。
     部屋にも園庭にもオレたちが秘密基地がわりにしていた裏庭にもイザナの姿はなかった。
    「イザナ、そんなとこで何してんだよ……」
     しばらく探しまわってようやく見つけたイザナは何故か数人の子どもたちに囲まれた状態で和室で眠っていた。午睡中の小さな子どもたちがイザナの体の色々な箇所を枕にして眠っているせいでイザナは身動きが取れないようだった。
    「添い寝」
    「それは見ればわかる」
    「起きる気がないなら、せめてこいつらと寝てろって言われた」
     施設にいる人間はイザナがどれだけ悪い方向に道を踏み外してしまっても特別態度を変えるようなこともなければ、無理に更生させる気もないらしかった。イザナ自身も常に一定の距離を保ってくれる大人たちには信頼とまではいかなくても、それなりに気を許しているようだった。
    「……で、何? 虫を捕まえに行きたいって? 高学年にもなって?」
     学校で見た蝶の標本のことをイザナに話す。
     寝転がった姿勢のまま、話を聞いている。イザナのお腹を枕がわりにして眠っていた子どもの一人が気持ちよさそうに寝返りを打つ。枕と化したイザナが「重い」と呟く姿が微笑ましい。やっぱり、ここの人間は誰もイザナを恐れてなどいない。
    「ダメ? 蝶の標本を作りたいんだけど」
    「それ、オレに確認とる必要ある?」
     欲しけりゃ自分で探しに行けよ。 
     イザナの言うことはもっともだ。
    「それより、作り方知ってるのか?」
    「え? 何の」
    「標本。作るんだろ?」
     標本の作成には専用の道具が必要だと言われてはっとする。考えてみればオレは蝶を捕まえることしか頭になくて、そのあとにどうやって標本を作るのかを調べてはいなかった。
    「道具、専用のじゃないと無理かな?」
     ぽつりと他の何かで代用できないかなぁ、と呟くと、イザナは眉間に皺を寄せて面倒くさそうな表情をした。
    「オレが知るかよ」
     溜息まじりに口ではそう吐き捨てたくせに、イザナはまだ何かを考え込んでいるようだった。
     それから何かを思いついたらしく、上半身を起こすと、まだ寝ている子どもたちを起こさないよう注意を払いながらそっと和室を抜け出した。ズボンのポケットから二つ折りの携帯電話を取り出して誰かの番号を探していた。
    「ちょっと待ってろ」
     イザナが誰かに電話をしているあいだ、オレは言われた通り一言も喋ることなくその場で待っていた。電話の相手はおそらく夜の街をイザナとともにバイクで走っている仲間だ。年齢が四つも違えば交友関係が被らないのは当然だからオレはイザナの仲間たちを知らないし、あまり知りたいとも思わない。
     けれど、夜の街の悪いやつらを統べているイザナはきっと、日中にオレや施設の人間たちの前で見せている顔とは全然違う顔をしているのだろう。いつか、傷害事件を起こして少年院に行ったときのように、急に何かのスイッチが入ったみたいにイザナは自分を切り替えることができるから。
    「おい下僕、道具はオレのほうで揃えてやる」
    「本当?」
    「あぁ、そういうのに詳しそうなやつに声かけといた」
    「詳しいやつ? 昆虫に?」
    「いや、そっちじゃなくて。針とか薬品とか、それ系」
     もっとも、何を相手にそれを使ってるのかは分かったもんじゃないけどな。
     イザナはしれっと怖いことを言いながら、くく、っと小さく笑っていた。
    「それから、捕まえに行く場所だけどそっちも心当たりがある。前に真一郎と行った場所のことを思い出した」
    「お兄さんと?」
     いつからだろうか。お兄さんの話をするときにイザナが少しだけ悲しげな表情を見せるようになったのは。以前は毎日のように書いていた手紙もいつからか書かなくなって、お兄さんのほうからイザナに会いに来ることもなくなってしまった。
     兄弟だから喧嘩くらい、する。
     雨に降られてびしょ濡れになりながら帰ってきたイザナは、泣き腫らした目で自分に言い聞かせるようにそう呟いた。詳しい理由を聞く前にイザナが眠ってしまったせいで二人のあいだに何があったのかはわからなかったけれど、もしかするとそのときの喧嘩がまだ続いているのかもしれない。
     もし、そうなら早く二人が仲直りできるといい。
     イザナの机の前には今も変わらずお兄さんのお店で貰ってきたバイクのチラシが貼ってあるし、何より一番よく見える位置に貼られているのは昔から変わらずお兄さんとイザナのツーショット写真だ。イザナがお兄さんのことを好きな気持ちはいまだって絶対に変わっていないはずだと思うのに。
    「鶴蝶。週末、オレのこと早く起こして。オマエと同じか三十分後くらいの時間に」
    「えっ、しゅ……えっとイザナもついて来てくれるんだ?」
     下僕、という呼び方が体に馴染みすぎているせいで、急にイザナの口から自分の名前が出ると驚いてしどろもどろになってしまう自分が情けない。
     てっきりイザナは、標本制作に必要な道具と蝶がいるという場所までの行き方をオレに教えてくれるだけだと思っていた。まさか、ついて来てくれるなんて思ってもみなかった。それこそ、いい歳をして虫ごときのために、だろう。
    「は? オマエから誘ってきたんだろ?」
     オマエのために一日体空けてやるって言ってるんだけど。
    「……うん。ちゃんと起こすから、起きろよ、イザナ」
     言ってしまえば昆虫採集のために出かけるというただそれだけの話なのに、イザナがまるでデートでもするみたいに言うから、気恥ずかしさと嬉しさでオレは本来の目的すら忘れそうになる。
     オレのために時間を割いてくれたイザナへ、オレは何をしたらいいのだろうか。
     

       3

     電車に乗って数駅分。車窓から見える街並みはそれほど大きくは変わらない。けれど、普段徒歩で行ける場所以外へ赴くことが極端に少ないオレにとって、電車から見える景色は全てが新鮮だった。窓の外を見ようとすると視界の端に自然とイザナの姿が入ってくるのも普段と世界が違って見えることの大きな要因かもしれない。
     イザナはいつも着ているような部屋着や、夜に出かけるときに着ていく特攻服じゃなくて、ちゃんとよそ行き用の格好をしてくれていた。本当にデートみたいで、それが嬉しいと感じたけれど、そんなことを言ったら絶対に呆れられるだろうからその一言はけっして言葉には出さずに飲み込んでおく。
     逆にオレの服はイザナのおさがりばかりだから色や上下の合わせ方はオレなんかよりもイザナのほうがずっとよく知っている。オレは見繕ってもらった組み合わせをそのまま着ただけだ。今日着ている服がイザナの好みで選ばれたものなのか、オレに合うように選んでくれたものなのかはよくわからなかったけれど、学校に行くときには重ね着なんて面倒なことはしないから不思議な感じがする。重ねて着ていてもそれほど暑く感じないのは素材の関係なのだろうか。
     疑問をそのまま口にすると、イザナは眠たそうな様子で、アウトドア用のやつだからだと教えてくれたけれど、いまいちどういうことなのかは判然としなかった。
     窓の外から差し込む太陽の光を浴びると色素の薄いイザナの睫毛は透けているかのようにきらきらと輝いていて綺麗だった。あまりにも気持ちよさそうな表情をしているから、このまま寝かせてあげたい気持ちもあったけれど、目的の駅で降りずに乗り過ごしてしまったら、それはそれで物凄く怒られそうな気がして、オレは仕方なくイザナを起こす。
    「イザナ、次で降りるぞ」


     辿り着いたのは比較的住宅街に近い場所にある墓地だった。
    「お墓?」
    「あぁ。ここはな。でも、蝶がいるのはもっと先」
     この場所へ以前お兄さんと一緒に来たのだろうか?
     何のために?
     訪ねてもいいことなのか判断がつかないままイザナの顔色を伺っていると、オレの視線を察したイザナが先手を取って話を始めた。
    「墓参りに付き合ったんだよ。……ここに真一郎の母親が眠ってる。あと、真一郎の曾祖父母とかご先祖様も」
     イザナはわざと『真一郎の』という部分を強調するように言っていたように思う。母親はともかく父親は一緒なのだから、お兄さんにとってのご先祖様ということはイザナにとってもご先祖様なのではないのだろうか。
    「一緒にお墓参りに来てたんだな。知らなかった」
     オレの両親にはきちんとした墓がない。先祖というものも、よくわからない。どこかにはいるのだろうが、オレが知っている血の繋がりは両親だけで、親戚はおろか祖父母にさえ会ったことはなかった。
     だから、こうやって血の繋がった人々が一つの場所に眠っているのは素直に凄いことのように思えたし、どこか羨ましくもあった。
    「さっさと行くぞ」
     せっかく来たのに今日はご先祖様に挨拶をしていかなくても平気なのか。それを問う前に、イザナはさっさと歩いて行ってしまい、気づけば墓地を抜けていた。
     まわりに墓石がなくなっただけで随分と景色が違う。
    「すごいな。森なのか、これは?」
    「森じゃなくて山らしい。地図上では」
     違いはよくわからない、とイザナは言う。
     あたりには見たこともない毒々しい赤い花と、見覚えのある形のオレンジ色の花が咲いていた。白い百合の花は施設の裏庭にも咲いているけれど、オレンジ色のものを見るのは初めてだった。
    「墓地の近くにはたくさんの蝶が寄ってくるらしい」
     その情報元はおそらくお兄さんだろう。
     イザナがオレの前で何かをぼかして話すとき、そこに隠された対象は佐野真一郎であることが多い。
     天涯孤独のオレの前で兄弟の話をすることへ何か負い目のようなものを感じているのだとしたら、そんな気遣いは無用だ。
     確かにオレはこのままずっとイザナと一緒にいたいと思っているけれど、イザナがお兄さんや妹と暮らすと言うのなら話は違う。
     オレが何よりも願うのはイザナの幸せだ。
     家族という形がイザナを幸福にするのであれば、そこにオレの姿はかならずしも必要ではない。
    「カクチョー、見ろ! モンシロ捕まえた」
     オレはまだ折りたたみ式の虫捕り編みすら出していないというのにイザナは手と手のあいだに空間を作るような形で両手を合わせて器用に蝶を捕まえていた。
    「ズルいぞ、イザナだけ先に!」
    「競争じゃねぇし、いいだろ別に」
    「とか言って、どうせまた途中から競争にするくせに!」
    「じゃあ今日は数じゃなくて、レア度高いヤツ捕まえたほうが勝ちってのでどう?」
    「それってモンシロチョウとモンキチョウだったらどっちが上?」
    「さあ」
     オレたちは二人とも蝶のことなんて何も知らない。ほとんど思いつきだけでこんなところまで来ているのが不思議なくらいだ。
    「でも、どんな世界でも見た目が美しいヤツはだいたい強くて、凄くて、ヤバいだろ」
     バイクとか戦闘機とか、あとはギターもそうだし、靴もそう。
     イザナの価値観は独特すぎてオレにはよく理解できない。
     それに、そんなことを言ったら人間の世界で一番強くて凄くてヤバいのはイザナってことになる。
     それはあながち間違いではないかもしれないけれど……。
    「カクチョー! 網貸せ、今度はあれ狙う」
     何かを見つけたらしいイザナは一瞬の隙にオレの手元から虫取り網を奪い取って、どこかへ走って行ってしまった。あれ、と言ってイザナが指を差した先に居たのは上空を舞う小さな水色の蝶だった。そもそも視力に難があるオレと動体視力が飛び抜けて良いイザナとでは戦いが成立するかどうかも怪しい。
    「網、一本しかないのに! だからイザナも持って来いって言っただろ!」
    「嫌だよ。いい歳して虫取り網持って電車乗るとかダサすぎる」
     人には虫取り網も虫カゴも、それどころか使うかどうかもわからない二人用のピクニックシートまでリュックの中に詰め込んで遠足さながらの装いをさせておきながら、イザナはそれをダサいと言う。いつもながら正気を疑う発言だ。オレはイザナの発言によって傷つくようなプライドなんて最初から持ち合わせていないからべつにいいけれど、オレじゃなかったらきっと怒るだろうから、今後も荷物持ちや、よくわからない服や趣味を押し付ける相手はオレだけにしてほしいと思った。
     道具を奪われ視力にハンデもある中で蝶を捕まえるのは本当に至難の技だった。
     花や木のまわりを飛びまわっているのが何かしらの蝶であるのはわかるのに、対象が小さすぎてピントを合わせるのに時間がかかる。特にコントラストが低いものはダメだ。目を凝らしてもずっとぼんやりしたまま見たい対象とその後ろにある風景が同化してしまう。
    「……あ」
     不意に視界に飛び込んできた黒。
     花のまわりを飛び回る他の物体に比べてひときわ大きなそれが蝶であることに一瞬気がつかなかった。
     赤い花と白い花のあいだをゆったりとした動きで行き来している真っ黒な蝶。
     じりじりとそれに近づいて、蝶が最終的に白い花の上で翅を休めたところを両手で掬うようにして押さえる。手の中でばたばたと蝶の翅が動いている。温度は感じない。手のひらへ伝わってくる衝撃が止むのを待ってから次の行動へ移す。片手の指先だけを慎重に動かして蝶が傷つかないよう、胴体の部分を親指と人差し指で優しく摘み虫カゴの中へ放る。
     捕まえた蝶を一頭入れただけで持ってきた黒い虫カゴはいっぱいになってしまった。虫カゴの前面に取り付けられた透明なプラスチックの蓋から蝶の姿を確認する。ビロードのような質感の真っ黒な翅に赤と青の模様が見える。それだけでも他の蝶とは一線を画する美しさなのに、虹色に輝く鱗粉がより一層この蝶を幻想的な姿へと変えていた。羽ばたくたびに揺れる長い後翅に思わず見惚れてしまう。それに、何より目を引くのがその大きさだ。もともと虫カゴ自体が小さいせいもあるけれど、それでもモンシロチョウなら三頭は入っただろうし、シジミチョウならもっとたくさん入ったはずだ。けれど、この黒い蝶は一頭だけでカゴを独占してしまうほどのサイズなのだ。
     つまり、この蝶を逃さない限り、もう他の蝶は捕まえられない。
     この期に及んで逃がす、なんて選択肢があるはずはなかった。
    「イザナ!」
     今日はオレの勝ちだ!
     思い切り叫んで、捕まえた蝶が入っている虫カゴを頭上に掲げると、イザナは少しだけ驚いたように目を見開きオレとカゴを交互に見つめていた。
     イザナは捕まえた蝶をアクセサリーを付けるみたいにして服や髪に留まらせていた。
     カゴに閉じ込めているわけでもないのによく逃げないな、と思う。
     その一方でそれがイザナらしいとも思ってしまう。
    「へぇ、良いの捕まえたじゃん」
    「だろ?」
    「それじゃ今日はこれで終わり」
     イザナのまわりには本当に色々なものが集まる。何者をも惹きつけるだけの魅力がイザナにはある。
     それなのに当のイザナは砂場あそびに飽きた子どもが創り上げた砂の城を壊すみたいに一瞬でそれをなかったことにしようとする癖がある。
     服の袖を指先でトントンと弾くように払い、軽く髪を掻き上げるような動作をするとイザナの体に留まっていた蝶は全てどこかへ飛んで行ってしまった。
    「対決用のやつ、残しておかなくて良かったのか?」
    「対決? べつにいいよ、今日はオマエの勝ちで。それに、蝶ならオレには前に捕まえたとびきりのがいるしな」
     負けず嫌いのイザナが勝ちを譲るなんて珍しいこともあったものだ。
     前に捕まえたとびきりのやつ、というのが何を指しているのか理解できなくて、少し考えてからもしかするとそれはオレのことなのかもしれないと気付いたとき、瞬間的に脳がフリーズしそうになった。全身の熱が顔に集まってきたみたいに顔だけが熱かった。
     少し前に学校で話したクラスメイトの女子。一瞬だけあのときの彼女の様子が脳裏に過ぎった。あれは、こういうことだったのか。
    「帰るぞ、下僕」
     自分で言っておきながら恥ずかしくなったのかイザナの顔もどことなくいつもよりも赤い気がした。



     美しい黒い蝶が死んだのはそれからまもなくのことだった。
     狭い虫カゴの中へ閉じ込めて連れ帰ったせいだろう。施設へ帰宅する頃にはすでに蝶は弱っていて透明な蓋を開けても再びその体が空を舞うことはなかった。
     もともと殺すつもりで捕まえてきたのに、いざ命が失われてしまったら悲しくて、もっと生きていてほしかったと思うのはオレのエゴだ。
     そんなこと、わかってる。
     分かっているけれど、どうにも遣る瀬がない。
    「こいつがまだ綺麗なうちにさっさと標本にするぞ」
     イザナはオレの机の上に手際よく桐の箱と白くて薄い紙を用意した。イザナが居てくれて本当に良かった。きっとオレ一人だったら最初の目的すら忘れて、この蝶を土の中に埋葬してしまっていたかもしれない。
     イザナは手書きのメモを見ながら標本を作るための手順を告げる。視界の端に捉えたイザナの字とは違うやけに丸い文字が印象的だった。
     蝶の体を薄い紙の上に広げて固定する。蝶の翅は傷つきやすいと言うが幸いこの黒い蝶の翅には少しの損傷も見られなかった。展翅という言葉も初めて知った。
    「つぎは、蝶の胸部分に虫ピンを真っ直ぐに刺す、だってさ。できそう?」
    「……ウン、やってみる」
     細長いピンを摘むように持って、蝶の胴体の中心に照準を合わせようと目を凝らす。
     動かない物体を相手にしているのに何故、うまくピントが合わないのだろう。
    「オレが合わせてやるよ、怖がり」
     震えるオレの手にイザナの手が添えられる。温かな手のぬくもりにほっとする。
     イザナがそばにいてくれるなら、オレは怖がりでも弱虫でも泣き虫でもいい。どんな罵倒を受けたって平気だ。どんな仕打ちでも喜んで受け入れる。
    「刺すよ」
     慎重に中心を探ってピンを落とす位置を決める。緊張からか背後でごくりと生唾を飲む音が聞こえた。
     鈍く光る針が音もなく蝶の体を貫いていく。
     これでこの蝶はもうどこへも行けない。死してなお翅を広げた蝶は空を舞い美しい花のもとへと還る夢を見ているだろうか。
     イザナの手によって穿たれた針がオレの体ごと貫いて、真っ黒な蝶とともにこの場所へ――イザナの体温が感じられるくらい近い場所へ繋ぎ留められたらいいのに。
     ずっとそばにいたい。
     離れたくない。
     いまはまだ純粋なその想いがいつか邪な気持ちに変わってしまいそうで怖かった。
     そんな浅はかな考えを見透したのか、イザナは無言のままトン、とオレの背中を突いた。
     ちょうど体の中心に、ピンを落とすかのように。
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