黎明に消ゆポラリス「走る列車から、見えるだろうか」
まるで別人のような声色だった。熱い胸板の前でぎゅっと腕を組むその男には似つかわしくない、祈りのようなことば。窓ガラスに、じっと暗闇を見つめる真剣な表情が映る。「この話はこれでおしまいだな」と言われた手前、炭治郎はき返すのを躊躇した。汚い高音と獣の鳴き声のように雄々しい二人の同朋をちらりと見やる。声をかき消した二人の口論より、炭治郎は炎のような男と向き合うことを決めた。
「煉獄さん。今、何と?」
「うむ。走る列車から、見えるだろうかと」
「鬼ですか?」
つい、隠した刀に手が伸びる。しかしすぐに、その答えが見当違いなことに気づく。鬼は車両内に現れるはずなのだ。それ以上の答えが出るはずもなく、「熱心だな。関心、関心」と言った切、再び車窓を覗き始めた煉獄の視線をたどるよりほかなかった。
「星だ」
「星、ですか」
いまいち要領を得ないままの炭治郎に、煉獄は「弟が教えてくれたんだ」と、うたうようにつぶやいた。
無垢な少年はぱっと顔を輝かせた。開口一番、妹を「斬首する!」と言い放ったこの男に、やっと少しの共通点を見出したのだ。「俺にも弟が──」そう言いかけて、やめた。もう弟はいない。鬼に殺されたのだ。もう一人の妹も、母も。仲間を失い続けてなお立ち上がり戦うその人にするような話ではないと思ったのが半分。そしてもう半分は、煉獄の表情だ。車窓に映るそれは、弟を語るにはあまりにも甘く、柔らかだったからだ。
***
月がきれいな夜だった。煉獄は、月見酒でもどうぞと気を利かせた弟を制して隣に座らせた。縁側に座り、だらしなく足をぷらぷらと揺らすその子のつむじをじっと見つめる。まだ幼さの残る小さな爪がくっついた足先から、ほよんとしっぽの揺れる頭まで、愛おしい。肉体が包む心ごと、煉獄は弟を愛していた。
「千寿郎のつむじは可愛いなぁ。まだ黄金色の髪が生えそろっていなかったころは、よく──」
「つ、月を見てください」
つれないことを言いつつ、夜の闇でもわかるほど色づいた頬だって、食べてしまいたいと思うほど愛おしいのだ。隊服ごと責務も死の匂いも脱ぎ捨てられるのは、この弟の前だけである。空気に晒されるほど裸になった心のまま、千寿郎の頭をなでる。
「兄上。お土産の本、読みました。ありがとうございました」
「何かおもしろいことは書いてあったか」
「はい。それをお話したくて」
「聞かせてくれ。お前の話ならば、なんでも聞きたい」
「ええと」
すっと千寿郎が空を指さした。その指をたどると、真ん丸な月ときらきらと輝く星々が見える。煉獄にとっては、さして珍しくない景色だ。彼が鬼殺に動くのは主に夜だったし、鬼が身を隠すのに好都合な森の木々のすきまからは、特に星が瞬いて見えた。千寿郎にとっては珍しいのだろう。ものを数えるときのように、星の一つひとつをなぞっている。
「見てください、兄上。あの星」
「どれだ?」
「あの、ええと、どう言っていいかわかりませんが……。ほら、一際明るい星があるでしょう」
「うん……」
曖昧に返事をしながらきょろきょろと虚空を見渡す兄の顔がおかしくて、千寿郎は笑った。
「月はわかりやすいが、星はどれも同じに見える」
「ふふっ」
「その星は何か特別なのか?」
「北極星という名前の星ですが、動かないのです。ほら、空に浮かんでいる太陽も月も、時間ごとによって位置が変わるでしょう? ほかの瞬いている星も同じように動いているのですが、北極星は動かないのです。すごく遠くにある星なので、昔は不思議な星だったでしょうね。でも、ずっと昔から航海の目印にされていたんですって」
「なるほど、動かない星か。いつも要が鬼のところまで案内してくれるから、星で方向を判断したことはなかったな!」
実に鬼殺隊最高位の一人、炎柱らしい感想である。代々受け継がれてきた炎柱の血を継承したこの男は、肉体を構成する筋肉も骨も血液も、鬼殺に突き動かされ熱に染まっている。ただ、心のすべてが炎に燃やし尽くされたわけではない。四方八方からじわじわと炎に焼かれる心の真ん中だけは生まれたての子どもの頬のように柔らかなままでいる。千寿郎のことば一つで不安定に揺れるのだ。
「僕はあの星を、兄上だと思っています。決して動かず輝き続ける北極星のように、離れていても兄上はいつも僕の中心にいてくれるのです」
うたうような声に、揺れる。朝が来てまた夜が降ってきても、いつまでも抱きしめていたい。という冷たい父とがらんどうで過ごし、剣士としての才能の有無を知らしめた憎き刀を握る幼い弟の日々を思うと、たまらない。不甲斐ない兄に尽くす健気さがまた愛おしい。生まれたときから早二十年、鬼殺に燃える心も、弟のことになるとどうにも私欲が生まれる。だが、許されない。朝には産屋敷家を訪れ、列車の任務の詳細を聞く手はずになっている。心を燃やせ。己の責務を思い出せ。己のためではなく、千寿郎のために戦うのだ。あまりにも狭い箱庭で苦悩する弟に、鬼殺の剣士など必要ない太平な世を見せてやるのだ。
「では俺にとっても、お前が北極星だ」
「えっ。でも、僕は……」
「また、鬼殺隊士になれないのに、と考えているな」
つるんとした丸い額のはじまり、吊り上がった眉の間をつんとつつく。へにゃりといつものように眉を垂らした千寿郎は、その下で顔を曇らせた。煉獄は弟の華奢な肩を抱き、マメだらけの手を握りこんだ。それから、内緒話をするときのように、耳元に唇を寄せる。
「千寿郎。北極星は夜に輝くだろう?」
「はい」
子どもに昔話をするように、煉獄は弟と自身の身体をゆっくりと揺らす。
「夜、鬼殺に駆ける俺は、お前にとっては強く、魅力的なものに映るかもしれない。あこがれも手伝ってな」
「……はい」
「でも俺は、星が見えない朝も昼も、雨の日だって、北極星が動かないことに、いちばん意味があると思う」
「……というと?」
口先では問うているが、千寿郎はほとんど兄の真意をとらえていた。問われた杏寿郎は、素知らぬ顔で求められるまま愛を囁く。
「千寿郎。お前はいつも俺の中心にいる。朝も昼も夜もお前が動かずにいるから、俺はここに何度でも帰ってくるんだ」
「兄上……っ」
勢いよく抱き着いた千寿郎を優しく抱きしめ、煉獄はただ頭や背をなでた。
「僕は……、僕だって……、強い、男に……。本当は、あなたのそばに立てるほど強くなりたいのに、泣いてばかりで……」
「いい。お前がありのままでいることが、兄は幸せなのだ」
二人の時間が、ゆっくりと着実にすり減っていく。十時間後には、もう離れ離れの日常がやってくる。それでも今、二人が心のままに寄り添える今、ただ抱き締め合っていたかったのだ。
「なぁ、千寿郎。落ち着いたら、北極星の見つけ方を教えてくれないか」
「はっ、はいっ。い、今すぐ……っ」
「ゆっくりでいい」
鼻を啜ることは病んでも、あいかわらず涙で視界は緩む。千寿郎は自身が北極星を見つけることすら難しかった。結局は兄が渡した本を頼りに、二人で「あぁ、あれだ」「やっぱり、きれいです」と同じ星を指さしたのだった。
***
あの夜に千寿郎が教えてくれた通りに北極星を探そうとしたが、窓の反射が邪魔をする。窓を開けようとして羽交い絞めにされている猪頭に倣ってそうしようかと逡巡したのち、まずはきょとんと不思議そうな顔をしている少年に返事をすることにした。
「弟に聞いた『北極星』という星を探している」
「太陽や月、外の星とは違い、決して動かないんだそうだ」
「へぇ!」
炭治郎は大きな瞳をさらに開いて感嘆し、「弟さん、博識ですね」と声を弾ませた。そして、弟とそう年齢の変わらない無邪気な少年は続けた。
「動かない星かぁ。とってもきれいな道標ですね!」
ふわりと弟の声が胸に響いた。声を思い出す。
──離れていても、兄上はいつも僕の中心にいてくれるのです。
「あぁ、今夜もとてもきれいだ」
「見つけたんですか?」
「いや」
不思議そうに首をかしげた炭治郎は、直後に暴れん坊と泣き虫の喧嘩の仲裁をすることになった。
見えずとも、必ずそこにある。その事実がたゆまない兄弟の絆を繋ぎ続けてくれることを祈って、胸をさすった。燃え盛った炎の中ぽつりと立つ愛しい弟を、「大丈夫だ」とそっとなでるように。そうやってたったひとかけら残した心すらも捧げて、黎明の中、男は逝った。