箱の底はじめとの距離が縮まると、どうしようもない愛しさが広がっていった。
笑ってくれる回数が増えた。冗談を言うようになった。そんな些細なことで。
それが兄弟としての縁だったと言えば呪いとも思えた。性別程度の壁はどうとでもなる時代だ、せめて兄弟でさえなければ、と悔いる日もあった。
しかし兄弟でなければはじめと出会うこともなかったのだと、そんな苦悩が苛んだ。
兄として振る舞い取材に託けてはじめを誘うたび、弟として慕ってくれるはじめに邪な思いが胸を突いた。
これはいけないことだと頭が警鐘を鳴らした。一時の気の迷いだと、その思いを箱にしまい蓋を閉じて鍵を締めた。
二度と開けるつもりはなかった。
丁呂介から電話がかかってくるまでは。
「あのねぇ。僕はね、何も妹の恋路を邪魔したいんじゃないんですよ。ただ、幸せになってほしいし一欠けらたりとも後悔、ましてや不幸になんてなってほしくない。そう思うとね、それ相応の相手じゃないと許せられないのは当然じゃありません?可愛い、可愛い妹だよ。つい目で追ってしまって些細なことにも口出してして、あの子には僕がいてやらなきゃって思っちゃうんだよ」
妹の好い人―――つまりは恋人の存在に嘆く内容の電話だった。
その一方で、妹を慈しむ丁呂介の惚気にも似た言葉はオレの歪んだ「兄として」はじめを想う気持ちと重なった。
心配に思うのも、世話を焼くのも、構いたくなるのも、些か過保護と指摘されようとも兄としては当然のこと。
それはオレがはじめに対して思う気持ちとほぼ同じであった。
「まぁ―――わからない、でもない」
「あ?てめぇダヨ子に手ぇだしたら殺すぞ」
電話口で酔っているであろう丁呂介はいつもより口調が砕けていた。砕けている、というよりも粉々だ。こっちが素に近いんだろうか。
酔っ払い、もとい丁呂介の話は終始、妹のことだ。最近のことから昔の思い出話まで、時系列もぐちゃぐちゃに飛びなが、時折感極まって泣き声交じりに妹の話を延々と聞かせられていた。それ、もう三回目だぞ、と思うエピソードもあったが、これを聞くのも兄の務めだ。
「でもさー、兄としてさ、やっぱり受け入れてあげなきゃって思うわけですよ。僕だっていつまでもダヨ子の傍にいられるわけじゃない。……なら、どうか幸せになってくれと送り出してあげるのが、兄としての責務ってやつじゃなかいと思うんだよ」
閉じていた箱の隙間から、歪んだ思いが黒く噴き出した。
自分はどうだろう。いずれはじめにそんな相手ができたとして、連れてきたとして、丁呂介のように幸せを願っていられるだろうか。
そんなのは、嫌だ。はじめはオレの弟だ。オレの―――オレだけの。
「唐次?」
丁呂介の呼びかけにハッとした。
何を考えていた?
「すまない、ちゃんと聞いてるぞ」
「本当に?もうさ、他の奴ら聞いてくれないんだよ。こんな一大事だっていうのにね?」
「丁呂介」
「ん?なに?」
「その、さみしくないのか?あれだけ嫌がっていたじゃないか。ましてや結婚、なんて」
「さみしい。寂しいに決まってんだろ。嫌だよダヨ子がこんなにも早く僕の元を離れるなんて。認めたくない」
「そう……だな、そうだよな」
嫌だと感じたその思いが、自分だけのものではないとホッとした。やはり、そう思うのは正常なことなんだと胸をなでおろした時だった。
「でもね」
丁呂介はそこで区切って、大きく息を吸い込んだ。
「でもやっぱりそれがダヨ子の選んだ道ですからね。最後には格好いいお兄ちゃまでいたいんですよ」
その声音は寂しさをはらみながら、愛しさに満ちていた。
オレは具体的に想像してみた。
はじめがいつか、ただ一人と心に決めた人を連れてくる。
隣り合ってポツリポツリととりとめのない話をして、いつまでたっても本題に入らない。仕方なくこちらから助け舟をだしてやる。今日は二人でどうしたんだ、と。はじめは顔を真っ赤にしながら俯いて、でも最後には自分の目を見て言うのだろう。「おれ、この人と結婚します」。オレはそれを盛大に祝ってやる。ここは奢りだと少しいい店で飲んで、格好いい兄として、弟の幸せを願って送り出す。
ビシリと錠前にヒビがはいる。
――――そんなのは欺瞞だ。
錠前が落ちる。砕けて二度と鍵がかけられない。箱の蓋がずれて少しずつ黒いものが溢れてくる。
本当は、オレだけがはじめの隣に立っていたい。他の兄弟から離れ、父もなく、孤独だったはじめに手を差し出したのはオレだ。オレだけだ。これからもオレだけを頼ってくれればいいと思う。
あの細い肩を抱き寄せて、薄い唇にくちづけ、白い体躯をなぞって誰にも見せない最奥を穿ちたい。もう嫌だやめてくれと頭を振り懇願しても犯しつづけ、グチャグチャにしてやりたい。
いけないものだと閉じ込めたものはより明確なビジョンを持って飛び出してきた。
「丁呂介は格好いいな」
オレは、格好いい兄にはなれない。