『君だけがいい、君しかいらない』鍋の中の煮込まれた野菜や肉をレードルでかき混ぜながら、トムは鼻歌を歌っていた。レードルを掬い上げてずずっと味見し、満足のいく味付けに更に上機嫌になった。
つまみを回しガスコンロの火を止め、鍋に蓋をする。材料を切る時に使ったまな板と包丁を洗い、蛇口の水を止めて台所の時計を見やり呟いた。
「帰ってくるの今日だったよな…」
着けていたエプロンを外し椅子に掛け、腕を上に伸ばし身体を軽く解す。少しリビングで休憩しようと台所を出ようとした時、玄関からドアが開く音が聞こえてきた。
トムは足を玄関の方に方向転換させ、駆け寄った。目の前には左肩にリュックを背負っているディックの姿があった。
数日ぶりに帰宅したディックに労いの言葉を掛けようとした時、身体を前に傾けてきた。そして、トムの右肩に額を置き、長い溜息を吐いた。
「お疲れー」
両腕を背中に回し、ぽんぽんと軽く背中を叩く。それに反応するかのように、ディックは額を更にぐりぐりと押し付けてきた。
(めちゃくちゃ疲れてるっぽいなぁ)
溜息を吐くだけで何も言ってこない様子にディックの状態を察し、トムはこう言った。
「シチュー作ったんだけど、食べる?」
トムの言葉を聞いた途端、額を押し付けていた動きを止め、呟いた。
「…食べる」
短い、しかし漸く出た-どことなく弾んだような-言葉にトムはほっと短く息を吐いた。肩に置いた額を離し顔を上げたのを見ると、やつれ気味な表情を浮かべていた。
大学のゼミ合宿でとにかく勉強にグループ議論詰めだったらしく、そりゃこんだけ疲れるのも無理はないな。と苦笑を浮かべながら台所へ駆け寄り、途中まで後に付いて行きリビングへと足を進める足音を聞きながら棚から皿を取り出し、食事の用意に取り掛かった。
※
始めは黙々とシチューを食べていたが、ディックの表情が段々と生気を取り戻し、若干青白くなっていた頬は赤味を差していった。またこうしてトムの料理を食べれるなんて、これ以上の幸福は無いとまで言い出した時は流石に慌てそうになった。だが一旦冷静になって考えて、それほど合宿が過酷だったのだろうと結論付けた。
ある程度話し終え、互いの皿の底が見え始めた頃、トムは顔を上げてそれとなく向かいのディックに話し掛けた。
「そういえば、明日からしばらく休みなんだっけ?」
トムは傍らに置かれているパンを掴み手で千切りながら言った。
ちょうどシチューの最後の一口を掬い頬張り食べ終え、ディックはスプーンを置いて口を開いた。
「うん。と言ってもまたすぐ課題の発表の準備しなくちゃならないんだけどね」
笑みを浮かべながら何気無く発せられた言葉にトムはうへぇ、と顔を引き攣らせた。
大学に行っていない此方からしたらぱっと想像は出来ないが、きっと自分の頭では理解出来ないことを学んでいるのだろうということは想像が付く。ディックが通っている大学は全米でも5本指に入る難関と有名だった。そして目の前にいる人物はその大学で学年成績10位以内を保ち続けているという優等生なのだから頭が上がらない。
「流石だなぁ…俺は絶対無理。出来そうにない」
千切ったパンを口に放り込んでぼやくトムにディックは苦笑を浮かべた。
パンを噛んで飲み込み、手に持っていたパンを空になった皿に置いてトムはじっとディックの顔を見つめる。その仕草に、ディックは首を傾げた。
「? 何?」
「んー、いや…こうして見ると、ほんと整った顔してるなーって」
両肘を付いて掌に顎を乗せまじまじと覗き込むように顔を見ながら呟いた言葉に、ディックは目を見開き身体をビクリと震わせた。
「えぇ!?な、何急に」
「こんなに顔が良くて頭も良くて、その上優しくて気配りも出来るとくればモテないわけないよなー」
ぼぅ、とはたから見れば此方に見惚れているように思える仕草。
だがそうではないことはディックには分かりきっていた。同居してから2年ほどだが、トムがどういった人物なのか粗方理解しているつもりだ。
ただ純粋に、ディックを羨ましがっているだけだということに。
「そんな人間と一緒に住んでるなんて独り占めみたいなこと、女の子達に申し訳ないなぁ。なーんて」
にまりと笑いながらそう宣うトムを、ディックはじっと見つめる。そのまま黙り込んだディックに、トムは眉を顰めて首を傾げた。
「ディック?どうし-」
「本当に、そう思ってる?」
言葉を遮られ、ぽかんと口を開けたまま瞬きをしていると、ディック
が左腕をテーブルの上に乗せて僅かに身を乗り出した。
「例えどれだけの人に想われていても」
言いながら左腕に力を入れて更に身を乗り出し、もう片方の腕を伸ばしトムの頬にそっと手を添えた。
「本当に好きな人に振り向いて貰えなかったら、意味が無いんだよ」
真っ直ぐに向けられた瞳。いつにも増して低い声で発せられた言葉。頬に添えられた大きな手。読めない表情。
そのどれもに、トムは身動きが取れなかった。碌に瞬きも出来ず、口も動かせず、目を逸らすことも許されないような、そんな状態に陥っていた。
「なーんて、ね」
ふっと微笑み、先程の張り詰めた空気が嘘のように和らいだ。頬に添えた手を離し、 唇の端に付いたパンくずを親指と人差し指で摘み腰を降ろした。
空になった皿をぽかんと呆けているトムの前に差し出し、こう言った。
「シチューおかわりいいかな?」
微笑みを崩さず放った言葉に、トムははっと我に返り慌てて差し出された皿を受け取った。
「え、あ、あぁっ。おかわり、おかわりね!」
トムは椅子から立ち上がり、早足で台所へと駆けていった。
※
(びっ…くりしたぁー)
コンロのダイヤルを回して鍋の下の火を見つめ、左胸を押さえ深く息を吐く。
どくどく、どくどく。
今までの人生でこんなにも心臓の鼓動を感じたことなど、こんなにも音が聞こえたことなどあっただろうか。
そもそもの原因は、ディックが突然身を乗り出してあんなことを言ってきたから-
『例えどれだけの人に想われていても』
『本当に好きな人に振り向いて貰えなかったら、意味が無いんだよ』
(あんな表情するディック、初めて見た…)
頬に触れられた時、全く身動きが取れなかった。真っ直ぐ、射抜くような瞳。
もしかして、自分は言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか。
(本命がいるってことなのかなぁ。中々その子に振り向いてもらえないとか?)
鍋が熱くなり出しているのだろう、中身のシチューがぐつぐつと煮立ってきていた。
おそらく自分は地雷を踏んでしまったのだろう-後でディックにちゃんと謝っておこうと、息を吐いて沸騰していくシチューを見下ろしていた。
※
(ちょっと踏み込み過ぎたかな)
台所へと駆けていったトムの後ろ姿を目で追った後、ディックは先程のやり取りを回想していた。
トムが自分にそういった想いを抱いていないのは分かりきっていたが、あんなことを言われて無視なんて出来るわけがなかった。
『こんなに顔が良くて頭も良くて、その上優しくて気配りも出来るとくればモテないわけないよなー』
『そんな人間と一緒に住んでるなんて独り占めみたいなこと、女の子達に申し訳ないなぁ。なーんて』
ついムキになってあんなことをしてしまったが、その独り占めしている人間が正に自分が今想いを抱いている人物だなんて、あの同居人は一つも考え付かないのだろうと落胆する。
(今何を考えてるのか、何となく想像付くなぁ)
はぁ、と溜息を付きながら、頬を離した際に摘み取ったパンくずをしばらく見つめ、思う。
(このくらい、ほんの少しでも僕を意識してくれたら…なぁんてね)
目を細め、パンくずをゆっくりと口に近付け、ぱくりと食べた。
玄関のドアを開けた時に此方へ駆け寄る足音。走る時に揺れる金色の巻き毛。台所から漂う食欲のそそる匂い。見上げる時の労う微笑み。
そのどれもが、どれだけ自分の心を歓喜に満たしてくれるのか知る由もないのだろう。そして、前の合宿の時みたいに数日-否、1日でもかもしれない-離れていると飢餓に陥るような感覚に襲われてしまうことも。
後ほど皿に盛ったシチューを持ってくるであろう-そして謝ってくるであろうトムにどう対応しようかと頭を働かせながら、欠片ほどしかないパンくずを舌の上で転がした。