greenery帰宅したフーゴは、ふくろうのように首をかしげていた。ダイニングテーブルの自分の席に、テーマパークのペアチケットが置いてある。手に取ってよく見る。首をかしげる。やっぱりどう見ても人気テーマパークのチケットであり、とりあえず置いておいたとかではなく、確たる意志を持って『そこ』に置かれていた。――何故? 当然疑問が浮かぶ。誰かに頼んだ覚えはないし、家の中で話題に上がることもなかった。
「よう、帰ったか」
その瞬間、フーゴは最もチケットに縁のありそうな人物を思い当たった。その人物の方へ振り返る。
「ただいま兄さん。これ、兄さんのじゃない?」
珍しく帰ってきていた兄に、テーマパークのチケットを示す。
「ああ。やるわそれ」兄は苦笑しながら言った。
「やるわって、僕に?」
多分あの彼女と別れたんだろうなと思ったのを飲み込みつつ、フーゴはとぼけてきいた。
「他に誰がいんだよ? ほらお前、高等部の女の子と付き合ってるらしいじゃん? 誘ってあげれば?」
「ねえそれ誰から聞いたの? 付き合ってるわけじゃないし……」
フーゴの返答に、兄は珍獣でも見るかのような顔をした。
「え、毎日一緒に登下校して、毎週のようにデートして、試験勉強まで一緒にしたって母さん言ってたけど。それで付き合ってないなら何だよ?」
「何って――」
そういえば何だろう。フーゴは答えに窮した。改めて聞かれるとわからない。言われてみれば、年頃の男女二人が、幼馴染みでもないのに毎日一緒に登下校して、毎週のように一緒に出かけるなんて、はたからは付き合っているように見えて当然だ。しかし恋人同士という意識は互いにもっていない。ただ一緒にイルーゾォの仲間を探しているだけだ。前世において彼女――その時は彼だったが――を殺した上、現世にまでトラウマを残したという負い目はあるにしろ、贖罪意識で協力しているわけではない。彼女もそれを望んでいない。単純にイルーゾォと話をするのは楽しいからだし、彼女が仲間と再会できたら自分も嬉しくなるからだ。
――でも、なんで嬉しくなるのだろう?
フーゴは自問する。
――好意を持っている相手に嬉しいことがあれば、自分も嬉しくなるのは自然だ。
フーゴは自答する。でも、本当にそれだけだろうか? さらに問いを続ける。
――では、イルーゾォに恋人が出来るという『嬉しいこと』があれば?
――それは素直に喜べない。子供っぽいかもしれないけど。
――どうして喜べない?
――イルーゾォといる時間が好きだからだ。恋人ができたらどうしても減ってしまうだろう。それは寂しい。そうなるくらいならば、いっそのこと――。
フーゴは体温が急激に上がっていく感覚を覚えた。皮膚の表面が、じりじりと炙られたように熱い。はじめて気付いたのだ。否、きっと『今頃』気付いたのだ。本当はずっと、もしかしたら最初からそうだったのかもしれない。鈍感にも気付いていなかったというだけで。
ツバメのように顔を赤らめて、落ち着かない様子で顎を触る弟を、兄はにやにやしながら見ていた。
◆ ◆ ◆
いつもの交差点で、イルーゾォを待つ。
フーゴはいつになくそわそわしながらイルーゾォを待っていた。覚悟は決めてきたはずだが、どうしてもうわついてしまう。最近ではそれほど待つことはなく、フーゴの方がほんの一、二分ばかり早いだけだ。早く来てほしいような、少し遅く来てほしいような、自分でもどちらかわからない。落ち着かない気持ちでいると、イルーゾォの姿が見えた。心臓がどきりと高鳴った。
「あ、イルーゾォさん……、おはようございます」
「おはよう、フーゴ」
今朝ばかりは覇気のないフーゴの挨拶にいつものように答えてから、イルーゾォは訝しげにフーゴを見た。
「……どっか具合でも悪い? そんな顔だけど」
「いえ。僕は元気です。――あの、もしよければ、日曜日僕に付き合ってくれませんか?」
フーゴは思い切って切り出した。イルーゾォはにこっと笑う。
「いいぜ。お前にはいつも付き合って貰ってるからな。どこ行くんだ?」
「これです」
フーゴはスマートフォンの画面に映ったチケットを見せる。一瞬ピンときていなかったイルーゾォも、次第に目を丸くする。
「え、これ……、うわ、マジかあ」
「も、もしかして苦手ですか?」
急に悲しげな顔になったフーゴに、イルーゾォはくすりと笑いかける。
「ううん。思ってもみなかったから。でも、本当にいいの?」
「兄がくれたんです。いらなくなったからって。使ってあげた方が彼もさっぱりするってもんですよ」
「うん。でも、おれで? おれでいいのかよ?」
「あなたがいいんですよ。他に二人きりで行くような人もいないし。それにこういう賑やかなところで仲間とばったり再会、なんてこともあるかもしれませんから。でも、たまにはただ遊びに行くのもいいと思います」
「うん。ふふ、楽しみだなあ! 十年ぶりくらいだ!」
イルーゾォは少女のような――肉体年齢は元々正真正銘の少女なのだが――笑顔を浮かべて声を弾ませた。フーゴはほっと胸をなで下ろす。ひとまず第一段階は成功した。
学術書や法律書、判例集、史料、そういったものを読み解き、応用するのは得意だが、初めて直面する感情にはどうすればいいのかわからない。ただわかっているのは、想いを伝えなくてはならないということである。成功確率が限りなく低いとしても。
イルーゾォからすれば、自分は小さな弟と同じようなものかもしれない。実際、精神的にはイルーゾォはずっと大人だ。『あの時』に近いだろう。かたや自分は子供っぽくて背だってまだ伸びていない。これからうんと伸びる予定だけど。実際には二学年しか変わらなくても、イルーゾォからしたら十歳くらい下の子供に見えているかもしれない。
それ以前に、イルーゾォのタイプから大きく外れているかもしれない。イルーゾォの話によく出てくる『リーダー』ことリゾット・ネエロは、長身のイルーゾォよりも背が高くて逞しく、落ち着いて冷静だけれど仲間への情に厚く、暗殺者として凄腕で、器が大きくて、――といった人物らしいのだが、話すときのイルーゾォの誇り顔ったらない。心底慕っているのがよくわかる。会ったことも見たこともない人物に、ちょっぴり嫉妬してしまうほどに。アバッキオよりも体格がよく、ブチャラティのような器の人物が好みなら、自分は遠く及ばないのだ。
確かにイルーゾォは自分に好感を持っているだろう。しかしそれは友人や同じ目的を持つ仲間としてだ。それが突然告白してきたら、困ってしまうに違いない。そんなつもりはなかった、と。
そんなことをフーゴは一晩考えていた。結論としては、自分はイルーゾォの恋愛対象ではないだろう、ということだ。恋愛感情がなければ恋人関係は成立しない。金や名誉、地位といった事情や思惑の絡む大人ならともかく、学生のうちは特に。勝ち目はない。しかしそれは『かもしれない』『に違いない』『だろう』といった一方的な推察と断定の積み重ねの上の結論に過ぎない。それに勝ち目はないからと踏みとどまったらまた後悔する。たとえあえなく敗れ去って、現在の関係が変わってしまったとしても、黙ってボートを見送るよりはましだ。それに、前の人生ではついぞ縁のなかったテーマパークに、好きな相手と遊びに行ってみたい。甘酸っぱい、あるいは苦い思い出になっても構わない。
次こそは、自分自身に胸を張れる選択をしたい。それがフーゴの出した答えだった。
◆ ◆ ◆
「ねえ、イルちゃん!」
二時限目の休み時間、イルーゾォは同級生に声をかけられた。フーゴに『イルーゾォ』と呼ばれているのはクラス内ではとっくに知られていて、今ではすっかりあだ名として定着している。イルーゾォとしては悪い気はしなかった。
「イルちゃん、今度『ランド』でデートするんでしょ? フーゴ君と」
「え、どうしてそれを……」
ドキリと心臓が鳴る。別に隠したいわけではないのだが、元暗殺者としてはなんであれ『情報をつかまれている』ことに対して妙に緊張してしまうのである。それにしても情報の出所が気になる。まさかあのフーゴが吹聴して回るわけはないだろうし。
「弟がさあ、フーゴ君と同じクラスなんだけど、二人が話してるの聞いちゃったんだって」
「あー、なるほどね……」
「でさ!」同級生は突然前のめりになって、目を輝かせた。「今度の土曜日、私とデート用の服買いに行かない? 私も新しいのほしいんだー」
「デートってそんな大層なもんじゃあ……ただ一緒に遊びに行くようなもんだって……」
「もう、『ランド』だよ? 向こうは絶対そのつもりだって」
「はあ」
イルーゾォは生返事をする。そうだろうか? あの忠実な子犬みたいなフーゴのことである。仲間がなかなか見つからないので、気晴らしに誘ってくれたのだろう。――とイルーゾォはのんきに思っていた。
「ま、ホントは私がイルちゃんと服を買いに行きたいだけだけどね」
「お、……わたしと?」
イルーゾォは瞬きをした。思いがけない誘いを受けるのは本日二度目である。今日はそういう運勢なのだろうか。
「私ね、スタイリスト目指してるの。イルちゃんって背高くてモデルみたいだし……お願い! 私の修行に付き合ってください!」
同級生は手を合わせて深々と頭を下げる。未来ある愛らしい女子高生にこうもお願いされては、一応元イタリアーノであるイルーゾォとしては頼みを聞かないわけには行かない。それに休日を一緒に過ごせる同性の友達ができるのは満更でもない。むしろかなりご満悦である。イルーゾォはすっかり気を良くして頬を緩ませた。
「許可するっ」
「あはは、イルちゃんうけるー」
◆ ◆ ◆
その日は珍しくイルーゾォが待っていた。周囲より頭一つほど大きいのでそれはよく目立つ。だが、視線を集めていたのはその背丈だけではない。雀や鳩の群れに一羽だけオオルリが紛れ込んでいれば目立つのと同じ事だ。今日ばかりはいつもの動きやすい服装ではなく綺麗なよそ行きの服で、すらっとしていて長身が引き立ち、顔もいつもより華やかだった。フーゴは思わず声をかけるのを忘れて、ぼうっと、しかし熱っぽい視線でイルーゾォを見上げていた。無言で見つめられるイルーゾォは顔を赤く染めて目を泳がせる。
「……変、か?」
「いえ、そんなことは! とても似合ってるかと!」
突然はっと我に返り、はずみで言葉が喉の奥から飛び出してきた。フーゴの初々しい反応に通行人二、三人ばかりが二人に視線を向ける。
「……ありがと」
イルーゾォは照れくさそうにはにかむ。それがなんだか可愛くて、フーゴの心臓はドキリと高鳴った。自分と遊びに行くのにわざわざよそ行きの服を選んだのだろうか? そう浮き足立つ自分もいれば、うぬぼれるな、『ランド』に行くのだから、張り切ってお洒落して当然だ。と戒める自分もいる。何にせよ、いつもと違うイルーゾォを見られて喜んでいるのには変わりないのである。
「じゃあ、行きましょうか」フーゴはイルーゾォの手をひこうとして、慌ててひっこめた。「……今日は楽しみましょうね!」
「うん」
童女のように笑うイルーゾォは、フーゴの不自然な手の動きには気付かなかったようだった。
◆ ◆ ◆
楽しい時間とはあっという間に過ぎていくものだ。
アトラクションを楽しんでいるとすっかり昼食の時間を過ぎていて、空きっ腹を抱えた二人は近くのレストランに転がり込んだ。爽やかな風の渡るテラス席で、ネズミ耳のカチューシャをつけたイルーゾォはネズミ型のピザを口いっぱいに頬張っている。
「こういうピザって最初どーかと思ったけど、これはこれでうめーよなあ」
片耳になったネズミを見ながらイルーゾォが呟く。
「わかります。あと、ナポリタンとかも。最初見たときはもう、何事かと思いましたが、時々無性に食べたくなったりして」
フーゴもネズミ型のピザにかぶりつく。しかし味はよくわからない。不味いわけではない。多分美味いのだろうが、夢の中で食べているような、そんな味がする。
入場してからというもの、意識がどこか遠くにあるような――頭も足下もふわふわとしていて、夢の中にいるようだった。現実ではないような気分になってくる。イルーゾォとの会話を成立させるために、何度も何度も現実だと自分に言い聞かせる必要があった。オーロラみたいなフィルターのかかった世界で、イルーゾォだけが鮮明だった。
「しかし、お前意外とこういうところ好きなんだな?」
ピザを食べる顔がなんだか幸せそうに見えたらしく、イルーゾォがにやつきながらきいた。一方のフーゴは夢見心地で、うっかりしていて――。
「というか、前の人生ではこういうところに来ることはなかったもので――好きな人と来てみたかったんです」
つい、こぼれてしまった。
「そ、そうかあ……」イルーゾォは一瞬同情的な目を向けたが、何かに気付いて声を上げた。「――ン?」
グラスについた水滴がつうと伝って手に触れて、フーゴははっと気付く。
「今、僕は……」
なんて言った? 何を言った? 慌ててイルーゾォを見れば、彼女は驚いたように目を見開いて、ほんのり頬を染めている。
「好きな人とって、お前」
「え、わあ!」
突然上がった声に、周囲の目が一瞬チラリと向けられ、フーゴは慌てて手で口を覆う。顔は熱くなっていくのに、体内は氷水を流し込んだように冷たくなっていく。
「あのっ僕、そんなつもり――じゃ、あったんですが、まだ、伝える予定ではなくって、ああ、でももう言ってしまっ、あー……」
少なくともこのタイミングではなかった。こんなうっかりこぼすつもりではなかったのである。しかし覆水盆に返らず。口からついて出た言葉は、読まずに食べられてくれないのである。フーゴは息を引き取りそうなほど脱力して、テーブルに突っ伏した。イルーゾォは声を立てて笑った。
「ふーん。そーなんだあ……へーえ」
意地悪い笑みを浮かべていることは見なくともわかった。こんな予定ではなかった。例えばライトアップされた城をバックに、とか使い古しのシチュエーションとまではいかないものの、もう少し『いい雰囲気』で告白しようと思っていたのがこれにて丸つぶれである。ムードも何もあったものではない。フーゴ個人は器用な方であるが、恋の駆け引きとかそういったものにはあまり向いていなかった。前世において楽しんだこともないし、今世ではなおさらである。
恥ずかしくてとても顔を上げられない。それでも、あげなくてはいけない。どんな不格好な赤面でも。ここでごまかしたりうやむやにしたりしたら必ず後悔することをフーゴは知っていた。それに、そもそも駄目でもともとだ。『いい雰囲気』で告白できたとして、成否に大きく影響することはないだろう。フーゴは思い切ってすっかりゆであがった顔を上げた。
「ええ、好きですよ。友人として以上に。付き合ってくれ、なんて、あなたに言える立場じゃないのはわかっていながら、好きになってしまったんです。でも……これからも友人として、仲良くしてもらえませんか?」
イルーゾォは大きな大きなため息をついた。
やっぱり――。最初から覚悟の上だったが、すっと心の灯火が消えていくような気がした。ついさっきまでふわふわと夢見心地だった頭には冷水を浴びせられ、視界はどんどん灰色になっていく。
「駄目だね。そんなしおれた顔して何勝手に決めてやがる。今からおれの彼氏として、シャキッと胸張って貰うからな」
「ええ、わかりました」
フーゴはしおしおと答える。
「ほんとかあ~?」
イルーゾォは疑い十割の目つきでじろりとフーゴを見た。フーゴは相変わらず塩をふりかけられた菜っ葉のようである。
「はい。すみませんでした。勝手に決めつけたりして」
「そうじゃねえ。ちゃんと聞いてねえだろ、ええ?」
「聞いてます! あなたの話は! 今からあなたの彼氏……」フーゴは大変な違和感を覚えた様子で、眉根を寄せた。「誰が彼氏ですって?」
「お前」
「僕が。……もう一度聞いても? ……誰の?」
「おれの」イルーゾォは悪戯っぽくにやついている。
「ああ、あなたの。ということはあなたの彼氏が僕って事ですか。そうなると僕があなたの彼氏って事になるんですがあなたが僕の彼女ってことにもなってしまいませんか?」
明らかに混乱しているフーゴの様子にイルーゾォはついに耐えきれなくなって、ぷっと吹き出した後、げらげらと腹を抱えて笑い始めた。
「おめー本当にIQ152かよ!」
「だって! ……か、からかってないんですよね?」
「おめーなあ、こういう時におれがからかうと思ってんのか? ――いや、結構前科あるかも……」イルーゾォは苦笑した。「でも、これは本気。おれもお前が好き。お前と違って、自分じゃ気付かなかったけどな」
余裕を装ってほほ笑むイルーゾォだったが、伏した赤い目は繊細に揺れている。フーゴは呆けた顔でどっと背もたれに体重を預けた。本当に現実だろうか? 脚をつねって、空を見上げた。
当たり前のように空が青い。当然のごとく雲が白い。さっき食べたピザのソースの味がようやくわかってきた。もはや夢の中ではなかった。
◆ ◆ ◆
忠実な子犬。それがイルーゾォのフーゴ評であった。
まず顔がかわいい。次に人懐っこい。それから嬉しかったりしょぼくれたりといった感情がわかりやすい。瞳に湛えている光はまさしく子犬のそれ。こちらを見上げる時の顔を見ていると耳と尻尾がある気がしてくる。待ち合わせにはほとんど先についていて、自分を待っている。そして自分の姿が見えれば駆け寄ってくる。――と枚挙に暇がない。
考えてみれば前世より自分に懐く動物が好きだった。下手な人間の相手をするよりよっぽどいい。つまりフーゴの好感度はかなり高い。だが、それだけでは単なる愛玩の対象に過ぎない。
だから、フーゴに「好きな人」と言われたとき、イルーゾォは結構驚いた。
ひとつはフーゴがそんな風に思っていたこと。
もうひとつは、フーゴが自分にとっても子犬以上の存在になっていたこと。
前の人生において、イルーゾォは愛だの恋だのといったものとは無縁だった。暗殺任務をする上で『演じた』り関係を持ったことはあるにしても、本心から行われるそれは、彼にとっては画面の中や紙の上にあるものだったのだ。
もとより一人が気楽だった。己が必要とし、必要とされる存在も足りていた。マン・イン・ザ・ミラーがいたし、自分の力を見込んでくれるリゾットたちがいた。それで十分だった。
今でも一人の時間が好きなのは相変わらずだ。だがそれと同じくらい、フーゴがいる時間も好きになっていた。夕映えの空の色をした髪が好き。澄んだ光を湛える、春の暁色した目が好き。小鳥のような小気味よく素早い足音が好き。知的だがふくよかな優しい声が好き。いつもフーゴを連れ回しているのは自分の方だが、実際のところは、あの日からずっと、フーゴが自分を明るい場所に連れ出してくれている。そのひとときは、画面の中や紙の上に踊る炎のように刺激的で情熱的な時間ではなく、陽だまりの草原で寝転ぶような温かく心地よい時間だった。いつしか、自分でも気付かないうちに独り占めしたくなっていたのだ。自分だけのものだった鏡の中の世界のように、自分だけのものにしたい。そう思っていた自分に気付いたのだ。
フーゴと二人、並んで歩く。もう慣れたものだけれど、ただ一つ違うのは、手と手が繋がっていること。フーゴの手は熱く少し湿っていて、緊張が直に伝わってくる。彼の方を見ると、潤んだ上目遣いで見つめ返してきて、――それが本当に子犬を散歩しているみたいで、イルーゾォは思わず唇を歪ませた。
「あ、あの、イルーゾォさん? 何か?」
「イルーゾォだってば」
フーゴは咳払いをして、改めて口を開いた。
「……イルーゾォ。僕の顔に何かついていますか?」
「何にも? やっぱり子犬みたいだなって」
「子犬? それに『やっぱり』って?」
フーゴはあまり納得のいっていないような、困惑した表情を浮かべた。
「cucciolo(子犬ちゃん)って事」
「……もう」恋人にかける甘い言葉に一瞬気を良くしたフーゴだったが、すぐに眉をひそめた。「本当に? 本当にそれだけですか?」
「疑り深いなあ! 子犬みたいに可愛いって思ってるだけだよ」イルーゾォは呆れたように声を上げた。実際『それだけ』ではないのだが。
「……だってイルーゾォ、すぐからかうでしょ。まあでも、別にいいです」
「だろ?」
得意げな笑みを向けると、フーゴは年頃の少年らしい、照れたような笑顔を浮かべた。
二人は並んで歩く。多くの人が行き交いする場でも、周囲より飛び抜けて大きいイルーゾォと、彼女より頭一つ小さなフーゴの組み合わせは妙に周囲の目を引いていた。目立つ存在には、無意識に視線が向いてしまうものだ。動くものを自然に目で追ってしまうように。好いた相手を無意識に見つめてしまうように。以前であれば痛かったその視線も、今となればなんともない。胸を張って日なたを歩くことができる。できるようになった。連れ回されながら、その実、連れ出してくれていたから。
「お前、もっと胸張れよ」
「そうですね。少しは背が高く見えるかも……」
シャキッと背筋をただすフーゴに、そうじゃねえ。とイルーゾォは笑った。
滴るような緑が光る。青い風が夏の兆しを告げていた。